『ばけばけ』スピンオフ「オサワ、スイーッチョン。」 ― 2026-04-06
2026年4月6日 當山日出夫
『ばけばけ』スピンオフ「オサワ、スイーッチョン。」
録画しておいて見た。
松江の花田旅館や中学校のセットを使っているところから判断して、かなり、このドラマの撮影のわりと早い段階で、この企画があったのかなと思う。
『ばけばけ』については、私は、評価したいと思っている。(最終の東京のところで、もう一週ぐらいあった方がよかったかなと思うことはあるが。)
このドラマで、おトキの周辺の女性が、地味であるが存在感があって、ヒロインとのバランスが非常によかった。特に、おなみ、おウメ、おサワ、それから、おクマが印象に残る。無論、雨清水のおタエ様のこともあるが。
おサワと庄田は、松江で一緒になったことは本編のドラマで分かっていることだが、ヘブンさんたちが松江を離れてから、その後、どんなふうだったか、興味がある。なんとも、ぎこちないというか、不器用というか、まあ、こんなこともあったのだろうと感じさせる脚本だった。
四角い部屋を円く掃く……という言い方は、最近ではあまりしなくなったかと思う。そもそも、家の部屋の中でホウキを使うということが無くなっている。ま~るく掃除機をかける、ということはあるかもしれないが。いや、今だったら、ロボット掃除機が、隅々まで綺麗にしてくれる。(ただ、その構造上、隅っこが少しだけ残るのは、いたしかたないかもしれないけれど。)
おサワがドイツ語が読めないのは、この時代だったら、当然と思えるが、まあ、ドラマの中では、そのことを上手く使ってあったかと思う。
小学校の代用教員というのは、この時代だったら、そんなに悪い仕事ではなかったはずだと思っているのだが、ここは、現代的な価値観で作ってあったとことということになるだろう。
2026年4月3日記
『太平記』「父と子」 ― 2026-04-06
2026年4月6日 當山日出夫
『太平記』「父と子」
日曜日の昼間の習慣として、見ることにしている。4Kで、『太平記』を見て、つづけて『豊臣兄弟!』である。
『太平記』は、1991年の作品である。
その第一回のオープニングが、1989年のベルリンの壁の崩壊のシーンからだった。この時代のことは記憶にあるのだが、はっきりと覚えているのは、自分が生きているうちに、ソ連をはじめ東欧の社会主義国が壊れていくのを見ることになったおどろきである。(とはいえ、中国とか北朝鮮は、あいかわらず残っているけれど。)
今から思いかえしても時代の変わり目だったということは感じる。だが、その変化のゆくすえがどういう方向に向かっていくのかは、いまだに混沌としているといっていいのだろうが。少なくとも、「歴史の終わり」にならなかったことは確かである。
1991年というと、時代が平成になってからである。つまり、昭和天皇の崩御の後である。「太平記」の時代は、どう描くにしても、いわゆる南北朝正閏論にかかわることになるし、後醍醐天皇は登場することになる。この時代のドラマを作ったというのも、時代の変わり目を感じるところである。
原作は、吉川英治の『私本太平記』である。この本は読んでいないのだが、ドラマを見ていて思うことは、芸能の一座が出てくることである。この時代にあって、身分や地域の枠組みを超えて、自在に行き来することのできる人びとといってもいいかもしれない。そして、こういう視点で、歴史の流れをを俯瞰的に見ることができる。
こういう存在は、『新・平家物語』の人形劇版が、吉川英治の原作なのだが、中に、赤鼻という、歴史の流れからちょっと離れたところにいて、歴史の目撃者mというような位置の人物が出てくる。
そういえば、『宮本武蔵』でも、又八という、武蔵の友達のような存在があるのだが、これが、武蔵の生き方を、傍から見るということになっていたかと思う。『宮本武蔵』は、高校生のころに読んだのを覚えているぐらいで、はっきりしないけれど。
こういう、歴史の流れの中にあって、その渦中から少し距離をおいて、時代のことを見ているというのは、ドラマを作るときに、重要な視点人物になるかと思っている。
ナレーションが、山根基世アナウンサーであるが、やはり声を聴くと若い。
緒形拳がかっこいい。最後に出てきた沢口靖子が、若々しいと感じる。
さて、来週も見るとしようか。
『私本太平記』は、Kindle版で安くで読める。Unlimited版もある。これは、読んでみることにしようか。
2026年4月5日記
『豊臣兄弟!』「疑惑の花嫁」 ― 2026-04-06
2026年4月6日 當山日出夫
『豊臣兄弟!』「疑惑の花嫁」
この回は、小一郎と慶のことがメインだった。面白いともいえるし、また、この時代にこんなふうに考えることがあっただろうかと、思うところもある。
敵か味方かということは、確かに感じるところであったにはちがいない。だが、戦乱の時代にあって、その流れの中で生きているという女性という視点……こういう視点の設定自体が非常に現代的ではあるのだが……では、慶のような感情というのは、どれぐらい説得力があるだろうか。
戦国時代の、敵・味方という考え方もあるし、また、調略ということもある。自分の一族の生き残りのためには、主君を裏切ってもかまわなかった時代といってもいいのだろう。そして、これは、身分の上下、社会的階層によっても、いろいろと違っただろう。では、慶の帰属意識というのは、どんなものなのだろうか。
見ていて、木之下のファミリーの女性たち……寧々や藤吉郎の家族の女性たち……の考え方と、慶のそれとは、どうも違っているように感じる。そのように作ってあるからなのだが。また、これは、お市の考えるところとも、違っている。
こういうことが、この時代の、そういう立場の女性だったら、そんなふうに思うだろうなあ、と共感できるかというと、必ずしもそうではないところがある。このあたりのことは、とにかく史料がないし、また、文学作品などでも描かれていない、『源氏物語』や『平家物語』などのような作品がない、ということも、分かりにくくしている要因かとも思う。
だが、ビジュアルとして見ると、慶は、非常に魅力的な女性に作ってある。吉岡里帆が、こういう雰囲気を出すというのは、これはとてもいい。
これから、慶が、このドラマの中でどんな存在になっていくのか気になるが、今のところ、寧々などの藤吉郎ファミリーの女性たちとは、異質なところが目立つ。
信長が、将軍義昭と、茶を飲むシーン。鎧をきたままで茶を飲んだということが、史料の裏付けがあるのなら、それはいいかと思うが、しかし、普通は鎧を脱いで、そういう世俗的なものから脱したところに、茶というものがあると考えるべきだろう。いや、そういうのは、千利休以降のイメージだといえば、そうかなとも思うのだが。
義昭の気持ちも分からなくはないが、日本刀で、庭の石に切りつけるのは、どうなのだろうか。これは、単純に危ないと思ってしまう。(どうせなら、裂帛の気合いで、庭の石を一刀両断ということでもいいのだが。)
信長と浅井の関係、浅井と浅倉の関係、この行く末がどうなるかは、歴史の結果としては分かっていることだが、それにいたる人物の心の動きが、今ひとつ説得力がない。この脚本では、信長と浅井との相撲ということで、戦国ドラマの新機軸を出したということかもしれないが、私は、見ていてあまり面白いとは思わなかった。一緒に相撲をとったから、仲よくなったというのは、ちょっと単純すぎやしないか。
次週、いよいよ、秀吉の名が戦国史に残る、金ヶ崎からの撤退戦である。このときに、秀吉と、小一郎と、どう働くことになるのか、楽しみでもあるし、あまり期待しないところでもある。
2026年4月5日記
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