『天子蒙塵』(第三巻)浅田次郎2018-06-28

2018-06-28 當山日出夫(とうやまひでお)

天子蒙塵

浅田次郎.『天子蒙塵』(第三巻).講談社.2018
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000310569

これは、『蒼穹の昴』シリーズの、第五部にあたる。満州国が主な舞台となっている。第三巻になって、物語は、いよいよ佳境にさしかかったというところか。新たな登場人物も多い。

これまでの巻については、

やまもも書斎記 2017年1月4日
『天子蒙塵』(第一巻)浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/04/8302238

やまもも書斎記 2017年3月15日
『天子蒙塵』(第二巻)浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/15/8406288

この第三巻では、二人の「私」の語りからはじまる。一人は、張学良。そして、もう一人は、溥儀。この二人の語りが交互に出てきて、このまま小説が進むのかと思っていると、突然、視点が変わる。普通の小説のスタイルになる。

そして、多彩な登場人物が出てくる。甘粕正彦、吉田茂、川島芳子、といった歴史上の人物も登場すれば、日本から逃走してきた、いわくありげな二人の少年、また、駆け落ちしてきた男女。さらには、春児といった、このシリーズの最初から出来ている人物まで。実に多彩な人物がでてくる。

作者は、これら多彩な登場人物の視点を行ったり来たりしながら、総合的に、満洲国という、歴史上わずかに存在した国家……それは、今の視点から見れば、日本の傀儡国家ということになるのだが……を描き出そうとしている。

これが成功しているかどうか……私の判断としては、微妙である。

事実は小説よりも奇なり、とは言うが、この時代、昭和初期の満洲国の話しのころになると、歴史的事実の方が、はっきりいってフィクションよりも面白い。ジャンルは異なるが、NHKが放送した「映像の世紀」のシリーズ。これなどいくつかの回には、溥儀の姿があったように覚えている。そして、ドキュメンタリーとして残っている溥儀の姿の方が、フィクションとして描かれた溥儀の姿よりも、圧倒的に存在感がある。これは、いたしかたのないことかもしれないが。

実際に残されている映像記録の方が、浅田次郎の文学的創造、想像の世界を、その印象の強さにおいて、はるかに凌駕してしてしまっているのである。

だが、そうはいっても、浅田次郎のことである。当時の日本、満洲国のあり方を、特に軍隊、そのなかでも、兵卒の視点から描いた場面には、説得力がある。

「日本がまちがっているのだ。支那の山河を奪ってわがものにせんとした。その戦には大義のかけらもない。醜い利欲のあるばかりだった。」(p.192)

「いや、悪いのは俺たちじゃない。大学を出ても就職先が軍隊しかないような不景気を、事実上の植民地経営で回復させようとする政治は、資本主義の退歩にちがいない。」(p.247)

「同行者を拘引せよとの命令には従えません。それは皇軍を私する不届き者がでっちあげた、偽命令にちがいないからであります。」(p.256)

それから、この小説で問いかけていることの一つは、「中国」とは何であるか、ということがある。満洲は「中国」なのであろうか。これは、東洋学、中国学の分野におけるきわめて基本的で、かつ、重要な課題である。これに、今日の日本の小説家の想像力でどのような答えを出すことになるのか……この続き、第四巻を楽しみにして読むことにしようと思っている。

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