『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤2018-06-01

2018-06-01 當山日出夫(とうやまひでお)

日本人はなぜ存在するか

與那覇潤.『日本人はなぜ存在するか』(集英社文庫).集英社.2018 (集英社インターナショナル.2013 文庫化にあたり加筆)
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-745739-1&mode=1

以前、集英社インターナショナルから出ていたものに加筆して、文庫化したもの。

「日本人」とはどのように何なのか、どのように定義できるものなのか、という問題意識から、様々な角度から論じてある。もとは、大学での一般教養向けの講義をベースにしているらしい。

この本を読んで感じることなど書くとすると、次の二点ぐらいになるだろうか。

第一は、「日本人」とは再帰的にしか定義できないものである。つまり、そのような定義、見方で「日本人」をみているからこそ、そこにそのような姿で「日本人」が立ち現れてくるのである。このことは特に目新しい議論ではない。

だが、この当たり前のこと、ある意味では、学問、研究にとって自明なことを、わかりやすく懇切丁寧に語ってある。この意味ではきわめて貴重な仕事と言えるだろうと思う。

私も、この本を読んで、「日本国籍」という定義のもつ意味が歴史的に構築されてきたものであることに、認識を新たにするところがあった。

第二は、これは私の専門領域にひきつけて読解することになるのだが、「日本語」はどのように定義することになるのだろうか。

これについては、近年の日本語学研究は、かなり広い範囲の「日本語」をあつかうようになってきていると感じるところがある。第二言語としての日本語にかかわる研究がさかんになってきている。そのための……日本語学習のための……コーパスも作られたりしている。

また、かつての「日本語」の領域は、必ずしも日本国内に限るものではなかった。外地……朝鮮や台湾……においても「日本語」は使用されていた。そこには、国家権力による強制という側面もあったことになる。が、少なくとも、「日本語」の範囲は、近代の歴史を通じて考えてみても、自明なものではなかったことになる。このことをさらに考える必要があるだろう。

以上の二点が、読んで感じるところでもある。

読みながら付箋をつけた箇所をすこし引用しておきたい。

「この「認識」し続けることによって存在し続ける」という再帰的な共同体のあり方を分析する技法としては、1980年代以降の国民国家やナショナリズムをめぐる議論では、「物語」に注目が集まりました。すなわりここまでの本書の内容は、「私たちは、かつてこの列島で起こったことを『日本人の物語=日本史』として語ることによって、『日本』という共同体を日々(再)創造している」というふうに、まとめなおすこともできます。」(p.141)

ところで、なぜ、『万葉集』や『源氏物語』『古今和歌集』は、日本の「古典」であるのであろうか。近年のカルチュラル・スタディーズの立場から、いくつかの研究があることは承知しているつもりではある。が、ここは、改めて、考え直すべきことだろう。

それは、そのような作品を「古典」として読んで来た「歴史」があるから、ということでもある。それは、中世の『源氏物語』の古注などにまでさかのぼるかもしれない。いや、そこまでいかなくても、近世の国学者たちの研究、そして、それをうけて成立した、近代の国文学という学問、その営みの歴史としてある、ということはいえそうである。そして、それをうけた形で、今日の、大学の教育と研究の枠組み……日本文学科という学科があり、各種の学会がある……によって、日々、再確認、再創造していることになる。

この本は、少なくとも、日本史、日本文学、日本語、というような研究領域にたずさわる人間が、一度は、ふりかえって立ち止まって考えておくべき、貴重な論点を提示していると思う。あるいは、さらには、東洋学とか、西欧史のような分野にも拡張して考えるべきこともふくんでいるだろう。

なお、與那覇潤の本では、

與那覇潤.『中国化する日本 増補版』(文春文庫).文藝春秋.2014

は手にして読みかけたのだが……そのあまりに短絡的論理、思いつきとこじつけとしか思えない議論に閉口して、途中でやめてしまった。これは歴史書としてはどうかと思うのだが、しかし『日本人はなぜ存在するのか』の方は、いい本だと思う。

『俘虜記』大岡昇平2018-06-02

2018-06-02 當山日出夫(とうやまひでお)

俘虜記

大岡昇平.『俘虜記』(新潮文庫).新潮社.1967(2010.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/106501/

大岡昇平を読んでおきたくなっている。近年で読んだものでは、『事件』がある(再読)。

やまもも書斎記 2017年11月30日
『事件』大岡昇平
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/30/8737349

その後、『パルムの僧院』を読んだ。新潮文庫版を訳していたのは、大岡昇平である。

やまもも書斎記 2018年5月10日
『パルムの僧院』スタンダール
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/10/8848192

さらに読んでみたのが、『武蔵野夫人』である。
やまもも書斎記 2018年5月26日
『武蔵野夫人』大岡昇平
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/26/8859825

大岡昇平の作になる『レイテ戦記』が、新しく改版されて中公文庫で刊行中である。四巻になる。これは読もうと思って買っている。夏休みにでも、まとめて読むつもりでいる。これも再読になる。

そして、手にしてみたのが『俘虜記』である。大岡昇平の文壇デビュー作と言っていいのだろう。これは、読んでいなかった。短篇集であるが、その中で名高いのが冒頭にある「捉まるまで」である。昭和23年『文学界』。その後、短篇集『俘虜記』として、昭和27年に創元社から刊行ということになる。(以上、新潮文庫の解説による。)

「捉まるまで」(発表時のタイトルは「俘虜記」)であるが……なんという特異な戦争文学であることか、というのが読んでみて感じることである。冷徹なリアリズム、というのとはちょっと違う。確かに、主人公は冷静に、自分の行動をふりかえっている。だが、ここで細密に記述されるのは、自分の心理についてである。なぜ、自分は、敵兵を撃たなかったのか、この一点をめぐって、実に精緻な心理描写がなされている。

近代のリアリズム小説、その真骨頂は人間の心理描写にあることになるのだろう。この心理描写において、人間のおかれた極限状況とでもいうべき戦場にあって、おどろくほどの冷静さで、自己の心理を記述している。

この「捉まるまで」で示されたような、冷静で客観的な視点、正確な心理描写、これがあって、後の『野火』や『レイテ戦記』さらには『事件』のような作品へとつながっていくことが、感じ取れる。いや、『事件』のような作品を読んで、被疑者も、検察官も、弁護士も、裁判官も、いずれの立場をも突き放して書いている筆者の孤高とでもいうべき視点の取り方に、『俘虜記』のような作品があってのことかと、感じるところがある。また、姦通小説とでもいうべき『武蔵野夫人』、これについても、人間の心理をみつめる客観的な冷徹なまなざしを感じる。

「捉まるまで」が書かれたのは昭和23年である。まだ、戦争の記憶が人びとの中に、同時代のものとしてあったころになる。その時代において、自分が捕虜になった顛末をここまで冷徹に語ったこの作品は、それだけでも際だった著者の文学的資質を感じるところがある。

大岡昇平という作家、これまでいくつかの作品を読んではきたが、ここにきて、改めて、近代文学史において、特筆すべき作家の一人であったと思う。『レイテ戦記』をきちんと読み直しておきたいたいと思っている。

『半分、青い。』あれこれ「会いたい!」2018-06-03

2018-06-03 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第9週「会いたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_09.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月27日
『半分、青い。』あれこれ「助けたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/27/8860437

この週は見どころがいろいろあった。

律と清(さや)の再会。鈴愛と正人の花火。祖父(仙吉)のギターと歌。鈴愛のもとを訪れた母のこと、など……この週で何かを語るというよりも、毎日の回で、それぞれに見どころがある、そんな感じの展開であった。

どのシーンも印象的である。正人と鈴愛の花火のシーンなど、朝ドラのなかでももっとも印象に残る花火であったかもしれない。また、祖父(仙吉)の歌もよかった。「学生街の喫茶店」それから「真夏の果実」。特に、戦争をふりかえる映像とともに歌っていた「真夏の果実」はよかった。

世代的に見るならば、祖父(仙吉)は、戦争に行った世代。復員してきて、結婚。その子供が、鈴愛の父・母の世代ということになる。鈴愛と弟(草太)は、まったく戦争を知らない世代になる。戦争の記憶を語るのに、戦後の戦争を知らない世代の代表ともいえるサザンの曲をもってきたあたりの演出は、実にうまいと思った。

ところで、秋風は、鈴愛にこのような意味のことを言っていた……漫画は虚構の世界である。鈴愛は、恋をしろ、と。

これは何を意味するのだろうか。今後、このドラマは、漫画家としての鈴愛を描くことになるのか。それとも、秋風のもとからさらに飛び立って、現実の世の中ので、リアルの世界の中で、生きていくことになるのか。

今のところ、鈴愛は、秋風のもとで漫画家修業という立場でいる。そこに現れてきたのが、正人である。花火のシーンの後、どうなったのだろうか。律との関係は、これからどうなるのだろうか。

おそらく、秋風のもとでの漫画という虚構の世界で生きていくことはないのだろうと思う。そこから一歩そとに出て、より現実的な世界の中で、今後の鈴愛の人生は展開することになるのかもしれないと思って見ている。

次週は、鈴愛と律との関係も新たな段階になるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-06-11
この続きは、
やまもも書斎記 2018年6月11日
『半分、青い。』あれこれ「息がしたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/11/8891893

『武器よさらば』ヘミングウェイ2018-06-04

2018-06-04 當山日出夫(とうやまひでお)

武器よさらば

ヘミングウェイ.高見浩(訳).『武器よさらば』(新潮文庫).新潮社.2006
http://www.shinchosha.co.jp/book/210014/

この本を読んだのは、去年のことになる。読み終わって、思ったことなど書こうと思いながら、書斎の本のなかに埋もれてしまっていた。取り出してきて、思い出したことなど、いささか。

はっきりいって、よくわからなかった。なぜ、この作品が名作とされているのだろうか。

第一次世界大戦のイタリア戦線が舞台である。が、その戦場の描写がいまひとつ納得できるものではなかった。これは、私の予備知識がなかったせいかもしれない。

だが、それよりも納得がいかなかったのは、逃避行とでもいうべき場面。第一次世界大戦の時、軍隊の規律とはどんなものだったのだろうか。本当に描かれているようなものだったとすると、かなり、緩やかなものであったのかもしれない。ここのところも、戦争といえば、第二次世界大戦、太平洋戦争のことを思ってしまう、私ぐらいの世代の人間としては、なにがしかの違和感を感じてしまう。

そして、スイスである。これも、そんなに簡単に入国して住まいすることができるものなのであろうか。

このようにいくつかの疑問を感じながらも、とにかく最後まで読み通したのだった。やはりここには、ストーリーテラーのうまさというものがあると感じる。戦争に翻弄された一組の男女の物語としては、これはこれでよくできている。戦争と人間の運命、このようなものを文学として描いた作品としては、やはり歴史に残る名作というべきであろう。

『西郷どん』あれこれ「別れの唄」2018-06-05

2018-06-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年6月3日、第21回「別れの唄」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/21/

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月29日
『西郷どん』あれこれ「正助の黒い石」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/29/8861613

この回で描いていたのは、西郷の人間味あふれる一面であろうか。奄美大島から帰った西郷は、幕末の動乱の中に巻き込まれていくことになる。そこで権謀術数のうずまく中で、薩摩藩をひきいて、倒幕から明治新政府たちあげにいたる。

その前段階のところで、ちょっと一休みという感じで、のんびりとした時間を過ごすことができ、また、人の情に触れることができた日々のこととして、奄美大島編はあったと理解する。

そして、西郷のナショナリズムは、奄美大島の人びとをもふくむものであったことを、描いていたと感じる。この点については、実際の西郷の思想がどうであったか、ということよりも、脚本の意図としてという理解においてである。

薩摩の冨を形成していたのは、奄美大島の人びとへの苛斂誅求を基盤としたものであったことに、西郷は気付く。薩摩にもどり、近代国家としての日本を構想するなかで、ここで描かれたような奄美大島の人びとの生活をもふくんだものとして、近代日本のナショナリズムを西郷は考えていたのかもしれない。

次週以降、幕末の動乱となるようだ。これからこのドラマが、近代日本というものをどのように描いていくことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-06-12
この続きは、
やまもも書斎記 2018年6月12日
『西郷どん』あれこれ「偉大な兄 地ごろな弟」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/12/8892549

ソヨゴ2018-06-06

2018-06-06 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は、ソヨゴである。

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月30日
カナメモチ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/30/8862238

我が家から少し歩いたところに咲く。去年から身近な草花の写真を撮り始めて、散歩道に赤い実のなっているのを見つけた。秋のことである。調べてみると、ソヨゴ「冬青」らしい。実をつけるということは、花が咲く。気をつけて見ていたら、先月、花を付けているのを見つけた。確認してみると、どうやらソヨゴであっているらしい。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を検索してみる。

ソヨゴでは、

モチノキ科の常緑低木または小高木。本州の関東以西、四国、九州の山地に生える。

とある。それから、雌雄異株ともある。花の咲いている木は、二箇所確認したのだが、片方は、去年の秋に実を見なかったように記憶している。

この木は、毎日の散歩コースにある木である。秋になって実をつけるころには、またそれを写真に撮ってみたいと思っている。

なお、ソヨゴの用例は、物品識名(1809)から見える。新しいことばのようである。

ただ、「冬青」(とうせい)で検索してみると、

モチノキ、ソヨゴなどモチノキ科の植物の漢名。

とある。『言海』にも収録されているとのこと。ねんのため、『言海』を確認してみると、

とうせい 名 冬青 モチノキ

とある。

ソヨゴ

ソヨゴ

ソヨゴ

ソヨゴ

ソヨゴ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

この続きは、
やまもも書斎記 2018年6月13日
ハコネウツギ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/13/8893099

『法学の誕生』内田貴2018-06-07

2018-06-07 當山日出夫(とうやまひでお)


法学の誕生

内田貴.『法学の誕生-近代日本にとって「法」とは何であったか-』.筑摩書房.2018
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480867261/

言うまでもないことだと思うが、私は、法律、法学については、まったく素人である。大学は文学部で、国文学、国語学を勉強した。今、教えている科目としては、日本語史などになる。法律については、まったくの門外漢である。

だが、この本には興味をもった。近代になって、日本がどのように近代化をなしとげてきたのか、自分なりに考えてみようと思っているところである。この本のタイトルを見て、興味がわいたのであった。

言われれば、法律というものも、近代になってからのものである。一般的な日本史の常識としては、近代国家としてスタートするにあたって、憲法をはじめ各種の法律がつくられ、司法制度が整備されていった。では、どのようにして、日本は法を整備していったのであろうか。このような興味関心から手にしてみることにした。

ある意味で、この本は、期待を裏切る内容のものであった。この本は、法律の継受ではなく、法学という思考の日本での成立を追っている。法律が制定され、それが運用されるにあたっては、日本で、日本語で、法学教育がなされ、そこで法曹実務者が、近代的な法学思考が出来ること、これが要件になる。その成立のプロセスを、近代日本の法学の重要人物である、穂積陳重と八束の事跡をたどることで記述してある。(この二人の名前なら、法律門外漢の私でも名前ぐらいは知っている。)

読みながら感じたことであるが・・・もし、何十年か前に、このような内容の本があって、高校生ぐらいの時に読んでいたら(コンパクトにまとめるなら新書本にでもなりうるテーマである)、大学の法学部を志向しただろうか・・・少なくとも、実務的な法解釈の議論ではない、法とは何であるかを問いかける法学という学問分野があることの認識はもてたかもしれない。

今、法学部をめざす学生は、何を志向しているのだろうか。法律実務の解釈学であろうか。それとも、法とは何かを根源的に問いかける、法哲学のような領域についてであろうか。

現在の日本には、多くの大学に法学部がある。そこで、実務的な法学教育がなされているはずである。その法学教育の基礎は、どのような歴史的背景をもとに近代日本において成立してきたのか、ここは、時間があれば考えてみてもいいことのように思う。この本は、法学部における教養レベルの段階で、読んでおくのがいいのかもしれない。

ところで、この本を私の興味関心の範囲で読んで、興味深かった点を二つばかりあげておきたい。

第一には、日本古来と意識される「伝統」というべき慣習などに配慮して、法律の制定がなされていったことである。それは、「作られた伝統」ではあるのかもしれないが、しかし、その時代にあっては、なにがしかの意味で「伝統」と意識されていたものである。それをふまえて、法律、特に民法などが制定されていったことになる。西欧の思考様式を受け継いでいる欧米の法律と、日本古来(と考えられている)「伝統」との確執のなかで、法的な整備がなされていった。そして、この「伝統」は、「国体」にもおよぶものである。

第二には、近代日本語と法律、法学である。近代日本語の公用文などが文語体で書かれてきたことは知っている。が、それが制度的に決められたのは、明治19年の制度的な変更に依拠してのことになる。また、様々な翻訳語が、法律用語として定められていき、現代にいたっている。まず、法律用語の制定からスタートしなければ、法学を日本にもたらすことはできなかった。このようなこと、日本語史の知識としては、概略知っていたことではあるが、それを、法学の方面からのアプローチで、再認識することになった。

以上の二点ぐらいが、私の興味関心の範囲で、この本から得られた知見ということになる。

たぶん、この本をきちんと理解するには、法学の素養が必要になるのだろう。法律の実務、あるいは、法学教育にたずさわっているような人が読めば、いろいろと参考になるところがあるにちがいない。だが、そのような素養を持たない私のような人間が読んでみても、それなりに面白く読める本であった。

『知性は死なない』與那覇潤2018-06-08

2018-06-08 當山日出夫(とうやまひでお)

知性は死なない

與那覇潤.『知性は死なない-平成の鬱をこえて-』.文藝春秋.2018
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163908236

與那覇潤の本については、すでに触れた。

やまもも書斎記 2018年6月1日
『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/01/8863726

この『日本人は……』は、いい本だと思った。(が、『中国化する日本』は、あまり感心しなかったが。)買うのは、こちら『知性は死なない』の方が先に買ってあったのだが、読む順番としては、後になった。結果的に、刊行順に読んだことになる。

これは、現代日本において、もっとも良心的な知性のあり方を示している本ではないだろうか。

著者が「うつ」の病を得て、大学の職を辞めるまで、それからの闘病生活、そして、それと平行してあった、平成のおわりの日本の状況……社会的、知的な……についての分析である。

読みながら付箋をつけた箇所をいくつか引用してみよう。

「身体ではなく言語を基盤とする、社会をつくったことで生まれてしまった、永久革命のようにいつまでもつづく、「現時点での正統性」にたいする〈無限の〉挑戦。これが、もともとの意味でいう反知性主義の本質です。」(p.142) 〈 〉原文傍点

「ソ連の社会主義であれアメリカの自由主義であれ、超大国のインテリたちがグランドデザインを描こうとしてきた、言語によって普遍性が語られる世界秩序に対する、身体的な――4章のことばでいえば、反正統主義ないし反知性主義的な反発。(中略)そういう目でみることで、はじめて目下の世界で起きていることが理解できるのだと、私は感じています。」(p.195)

「すなわち、帝国とは〈言語〉によって駆動される理性にもとづき、官僚機構が制度化されたルールをもうけて統治している空間であり、逆に民族とはむしろ「ここからここまでが『われわれ』の範囲だ』という、〈身体〉的な実感にもとづく帰属集団のことである、と。」(p.197) 〈 〉原文傍点

反知性主義をどう理解するか、この点について、いくぶん留保しておくとしても、ここで指摘されているようなことは、しごくまっとうなことであるように思える。国語学という、日本語の研究にかかわっているものとして、いろいろ考えるところのある本でもある。

また次のような箇所。

「教壇に立っているかぎり、教師は政権の批判であれ天皇制の否定であれ、どんな極論でものべることができます。その教員の真価がわかるのは、授業の教室という「自分が権力者でいられる場所」を離れたさいに、どれだけ普段の言行と一致しているかをみることによってでしょう。」(p.169)

これも、しごくまっとうなことである。だが、これがいかに困難なことか、著者の体験した事例がこの本では、具体的に述べられている。この箇所を読むと、現代日本における、大学というところをむしばんでいる知的な荒廃というべきものは、ほとんど救いがたいところまできていると感じざるをえない。

知的に当たり前のことを、ごく普通に当たり前に語る……このことの難しさ、ここにこそ現代日本のおかれている知的退廃がある。本書を読んで感じるのは、著者の知的平衡感覚のバランスの良さである。これは当たり前のことである。この当たり前のことが、普通に通用しない大学というものならば、その大学の方がおかしい。

平成という時代も、あと一年もない。一年後には、次の年号になって、新しい時代を迎えていることだろう。その時になって、平成という時代をふりかえるとき、このような良心的な知性が存在したということを示す本として残ることだろうと思う。

「うつ」という病を経ることによって、身体感覚とのバランスを視野にいれた素直な知性のありかた、このような知性をもつ著者のさらなる活躍を願う次第である。

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明日、東京で、語彙・辞書研究会の発表です。家を留守にするので、二日ほどこのブログをお休みにさせてもらいます。家を離れたときぐらいは、ネットから自由でありたいとも思いますので。

『半分、青い。』あれこれ「息がしたい!」2018-06-11

2018-06-11 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第10週「息がしたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_10.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年6月3日
『半分、青い。』あれこれ「『半分、青い。』あれこれ「会いたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/03/8866086

いつもは、日曜日にアップロードするのだが、東京に行っていて留守にしていたので、一日おくれて月曜日になった。

この週の見どころは、清(さや)か・・・魔性の女という感じだった。律の指にマニキュアを塗るシーンは、妖艶ですらあった。

このドラマ、NHKの朝ドラにしては、登場人物の心理が屈折しているように思う。近年の作、前作『わろてんか』でも、その前の『ひよっこ』でも、登場人物、特にヒロインは、感情の表現がストレートであった。恋も一途なもので、ひとりの男性を求めるという感じだった。

だが、『半分、青い。』では、鈴愛の恋はストレートに表現されない。正人には、恋をしてもふられてしまった。といって、正人に別に恋人ができたというわけでもない。そして、律との関係は、幼なじみなのか、それとも、恋人なのか・・・たぶん、鈴愛にとっては、幼なじみの延長として自然に側にいる人間として思っているのだろう。そこに、清が、律の恋人としてわりこんでくる。

律も、鈴愛のことは、忘れてしまった訳ではない。だが、清の登場によって、その鈴愛への気持ちが動揺している。はたして、自分は、鈴愛のことをどうおもっているのだろうか、自問するかのごとくである。

このあたりの錯綜する、幼なじみとして、恋人として、様々な人間関係が、各回ごとに新たな展開をみせて描かれている。これは、これまでの朝ドラになかった路線ではないだろうか。(強いて言えば、朝ドラというよりも、昼や夜のドラマにふさわしいとでもいえるかもしれない。)

そして、秋風の存在。鈴愛は、漫画家を志望している。漫画に描くことで、自分におこったこと、自分の心をみつめることになる。それを、作品にすることで、現実から、虚構の世界に飛翔することができる・・・のかもしれない。

東京に出てきてしばらくするのに、いまだに岐阜方言が抜けていない鈴愛。一方で、律は、岐阜方言ではなくなってしまっている。どちらが、自分の心に素直に生きていることになるのだろうか。おそらく、岐阜方言で話している鈴愛の方が、自分の気持ちに素直に生きていくことになるのだと思って見ている。

鈴愛と清との確執の結果であるが、フクロウ会の思い出の写真がやぶれてしまった。鈴愛と律がならんで写っていたのが、別れ別れになってしまった。これは、これからの二人を象徴しているのだろう。

漫画という虚構の世界で生きることになるかもしれない、その一方で、現実から逃避もできないでいる、この鈴愛は、これからどう生きていくことになるのだろうか。次週以降を、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-06-17
この続きは、
やまもも書斎記 2018年6月17日
『半分、青い。』あれこれ「デビューしたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/17/8895939

『西郷どん』あれこれ「偉大な兄 地ごろな弟」2018-06-12

2018-06-12 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年6月10日、第22回「偉大な兄 地ごろな弟」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/22/

前回は、
やまもも書斎記 2018年6月5日
『西郷どん』あれこれ「別れの唄」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/05/8874400

今回は、兄弟のものがたりだった。

第一には、島津斉彬(故人)と、その弟(久光)のこと。江戸で斉彬のお庭方として仕事をしていた西郷には、斉彬の人物の大きさが見える。それにくらべれば、久光はいまひとつという感じである。

第二には、西郷とその弟(信吾)である。藩命をうけて京で仕事をしているはずの信吾の自堕落に西郷は腹をたてる。ここでも、兄(西郷吉之助)と、弟(信吾)の対立であった。

このわかりやすい構図のなかで、幕末の薩摩藩、諸藩の動きが描かれていた。西郷が、奄美大島に流されていた間に、幕府の威信は地のおち、倒幕の機運がみなぎっているという。このあたり、ドラマでは、説明不足かなという気がしている。尊皇攘夷思想から、桜田門外の変を経て、倒幕にいたるまでの人心の動きというものが無かった。まあ、その間、西郷は、島にいて、のんびりと暮らしていたということなのであるが。

ところで、気になっていることは、西郷は、倒幕はまだ早いと言う。幕府を倒した後で、どのような日本を考えるのか、その構想があるのかと、有馬新七に問いかけている。これはたぶんそうなのだろうが、では、西郷に、未来の日本……それが、「近代」と呼ばれる時代であることを、後世の我々は知っている……の姿をどう考えていたのだろうか。ここがよくわからないところであった。

西郷は、「西郷隆盛」という一つの「人格」であると同時に、幕末から明治維新にかけて、倒幕の先頭にたって働いた人物として認識している。(実際はどうであったかは別にしても)江戸城開城においては、西郷の力があってのことだろう。

このあたり、人格者として人望をあつめる側面と、幕末の歴史の権謀術数の中での策謀と、この両面をどのように描いていくのか、これからの展開に期待したいと思う。次回は、寺田屋の一件であるらしい。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-06-19
この続きは、
やまもも書斎記 2018年6月19日
『西郷どん』あれこれ「寺田屋騒動」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/19/8897651