「新 街道をゆく「奈良散歩」」 ― 2023-06-16
2023年6月16日 當山日出夫
過去に放送の「街道をゆく」を再放送でやっているのは、時々見た。が、これは、今の時代になって新たに製作したものである。これが、三作目になるだろうか。これは録画しておいて、翌日の朝にゆっくり見た。
私が司馬遼太郎を読んだのは、若いときのことになる。その主な作品はたいてい読んだだろうか。だが、「街道をゆく」シリーズは手に取ることをしなかった。まったく読まなかったというのではないが、その名前を知っているぐらいで、ほとんど読んでいない。しかし、奈良の東大寺について書いた文章は知っていた。いったいなにで読んだのかはまったく記憶にないのだが。
時間がとまっていると感じる感覚は重要かもしれない。変わらないでいること、同じことをつづけること、同じものを残すこと、この価値は、普遍的なものであるともいえよう。確かに東大寺は「兜率天」なのである。
変わらずに同じことを続けることの価値をこのごろ考えるようになった。これも、私が歳をとってきたせいであろうか。あるいは、このような考え方、価値観は、人文学の基礎にあるべきものなのかとも思うようになった。
放送のなかで出てきたところは、行ったことのある場所がほとんどであった。多武峰に行ったのは、若いときだった。最近になってからは行っていない。テレビを見ていて、久しぶりに多武峰あたりに行ってみたくなった。あるいは、興福寺から東大寺のあたりを、あてもなく歩いてみたくなった。
2023年6月15日記
過去に放送の「街道をゆく」を再放送でやっているのは、時々見た。が、これは、今の時代になって新たに製作したものである。これが、三作目になるだろうか。これは録画しておいて、翌日の朝にゆっくり見た。
私が司馬遼太郎を読んだのは、若いときのことになる。その主な作品はたいてい読んだだろうか。だが、「街道をゆく」シリーズは手に取ることをしなかった。まったく読まなかったというのではないが、その名前を知っているぐらいで、ほとんど読んでいない。しかし、奈良の東大寺について書いた文章は知っていた。いったいなにで読んだのかはまったく記憶にないのだが。
時間がとまっていると感じる感覚は重要かもしれない。変わらないでいること、同じことをつづけること、同じものを残すこと、この価値は、普遍的なものであるともいえよう。確かに東大寺は「兜率天」なのである。
変わらずに同じことを続けることの価値をこのごろ考えるようになった。これも、私が歳をとってきたせいであろうか。あるいは、このような考え方、価値観は、人文学の基礎にあるべきものなのかとも思うようになった。
放送のなかで出てきたところは、行ったことのある場所がほとんどであった。多武峰に行ったのは、若いときだった。最近になってからは行っていない。テレビを見ていて、久しぶりに多武峰あたりに行ってみたくなった。あるいは、興福寺から東大寺のあたりを、あてもなく歩いてみたくなった。
2023年6月15日記
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