よみがえる新日本紀行「野焼きのころ〜熊本県・阿蘇山麓〜」 ― 2025-07-12
2025年7月12日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 野焼きのころ〜熊本県・阿蘇山麓〜
再放送である。2022年。オリジナルは、昭和50年(1975)。
小学校で子どもたちが、20年後の夢を語っていたのが印象に残る。1975年の番組から、20年後であるから、1995年ということになる。日本では、バブル経済の崩壊後ということになるが、まだ、その実感はなかったかと覚えている。神戸で地震のあった年であり、オウム真理教の事件(地下鉄サリン事件)のあった年である。
看護婦さんになりたいと言っていた女の子、歌手か漫画家になりたいと言っていた女の子、自衛隊のパイロットになりたいと言っていた男の子、宮大工になりたいと言っていた男の子……みんな、その後はどうなったのだろうか。
日本の牧畜は、はたしてどうなっただろうか。国際的な環境のなかで、国内の産業として生きのこっていけるだろうか。阿蘇の草原では、放牧がおこなわれているようではあるが。
番組の始まりが、お祭りからだった。火をついた縄を振り回していたが(これはかなり危ないと思うのだが)、これを綺麗に撮影していた。この時代のテレビのカメラの技術で、夜の暗いところで、動く明るいものをとらえるというのは、難しかったはずだが。(4K放送したときに、加工してあるのだろうか。)
昭和50年のころなら、耕運機(もう今ではこういうことばをあまり使わないかもしれないが)で、干し草を運ぶということが行われていた。今では、どうなっているだろうか。
温泉のあるおかげで、岳の湯の集落もなんとかやっていけているようである。
地熱発電は、太陽光発電のように、自然環境の破壊ということは少ないだろうから、もっと実用化されればいいと思うのだが、全国のどこでもというわけにはいかないだろう。
2025年7月9日記
よみがえる新日本紀行 野焼きのころ〜熊本県・阿蘇山麓〜
再放送である。2022年。オリジナルは、昭和50年(1975)。
小学校で子どもたちが、20年後の夢を語っていたのが印象に残る。1975年の番組から、20年後であるから、1995年ということになる。日本では、バブル経済の崩壊後ということになるが、まだ、その実感はなかったかと覚えている。神戸で地震のあった年であり、オウム真理教の事件(地下鉄サリン事件)のあった年である。
看護婦さんになりたいと言っていた女の子、歌手か漫画家になりたいと言っていた女の子、自衛隊のパイロットになりたいと言っていた男の子、宮大工になりたいと言っていた男の子……みんな、その後はどうなったのだろうか。
日本の牧畜は、はたしてどうなっただろうか。国際的な環境のなかで、国内の産業として生きのこっていけるだろうか。阿蘇の草原では、放牧がおこなわれているようではあるが。
番組の始まりが、お祭りからだった。火をついた縄を振り回していたが(これはかなり危ないと思うのだが)、これを綺麗に撮影していた。この時代のテレビのカメラの技術で、夜の暗いところで、動く明るいものをとらえるというのは、難しかったはずだが。(4K放送したときに、加工してあるのだろうか。)
昭和50年のころなら、耕運機(もう今ではこういうことばをあまり使わないかもしれないが)で、干し草を運ぶということが行われていた。今では、どうなっているだろうか。
温泉のあるおかげで、岳の湯の集落もなんとかやっていけているようである。
地熱発電は、太陽光発電のように、自然環境の破壊ということは少ないだろうから、もっと実用化されればいいと思うのだが、全国のどこでもというわけにはいかないだろう。
2025年7月9日記
こころの時代「闘うガンディー 非暴力思想を支えた聖典 第3回 実践のヨーガ」 ― 2025-07-12
2025年7月12日 當山日出夫
こころの時代「闘うガンディー 非暴力思想を支えた聖典 第3回 実践のヨーガ」
このシリーズは見ているのだが、今一つ納得できないところがある。それは、ガンディーの政治的な側面、具体的な活動、特にメディア戦略(今のことばでいえば)について、ほとんど語ることがないからである。
糸車を回すガンディーの姿は、たしかに人間の生き方として、一つの理想を指し示しているとは思う。これは貴重だと思うのであるが、しかし、現実には、これは明確な反近代主義でもある。だが、それと同時に、伝統的なインドの価値観、特にカーストの制度に対しては否定的である。この伝統的な意識の否定と、反近代主義、そして、それをメディア(この時代であれば、新聞やニュース映画)にどう見せることになるのか、こういうことについて、どう考えていたのだろうか。
結果的にガンディーは、インド独立をなしとげる原動力となったことは確かであるので、そこから見て、理想化して見ることにはなるかとも思う。しかし、実際にインドの独立にいたる過程には、現実的な利害打算、政治的軍事的、国際政治における判断など、さまざまなリアリズムにもとづく考え方が交錯してのことだと思う。こういう部分をまったく切り捨ててしまって、その思想的な面だけをとりだして語ることには、どうしても違和感を感じることになる。
見ていて、どうにも歯切れの悪いという印象があるのは、思想と政治的活動が混在しているところで、無理矢理、思想的な部分だけを論じようとしているからかもしれない。
別にガンディーの思想を否定するつもりはないのだが、もし、結果としてインド独立ということがなかったとしたら、現代において、その思想と活動はどう評価されることになるのだろうか。
2025年7月8日記
こころの時代「闘うガンディー 非暴力思想を支えた聖典 第3回 実践のヨーガ」
このシリーズは見ているのだが、今一つ納得できないところがある。それは、ガンディーの政治的な側面、具体的な活動、特にメディア戦略(今のことばでいえば)について、ほとんど語ることがないからである。
糸車を回すガンディーの姿は、たしかに人間の生き方として、一つの理想を指し示しているとは思う。これは貴重だと思うのであるが、しかし、現実には、これは明確な反近代主義でもある。だが、それと同時に、伝統的なインドの価値観、特にカーストの制度に対しては否定的である。この伝統的な意識の否定と、反近代主義、そして、それをメディア(この時代であれば、新聞やニュース映画)にどう見せることになるのか、こういうことについて、どう考えていたのだろうか。
結果的にガンディーは、インド独立をなしとげる原動力となったことは確かであるので、そこから見て、理想化して見ることにはなるかとも思う。しかし、実際にインドの独立にいたる過程には、現実的な利害打算、政治的軍事的、国際政治における判断など、さまざまなリアリズムにもとづく考え方が交錯してのことだと思う。こういう部分をまったく切り捨ててしまって、その思想的な面だけをとりだして語ることには、どうしても違和感を感じることになる。
見ていて、どうにも歯切れの悪いという印象があるのは、思想と政治的活動が混在しているところで、無理矢理、思想的な部分だけを論じようとしているからかもしれない。
別にガンディーの思想を否定するつもりはないのだが、もし、結果としてインド独立ということがなかったとしたら、現代において、その思想と活動はどう評価されることになるのだろうか。
2025年7月8日記
おとなのEテレタイムマシン「ETV2002 83歳のアンパンマン〜やなせたかしの真剣勝負〜」 ― 2025-07-12
2025年7月12日 當山日出夫
おとなのEテレタイムマシン「ETV2002 83歳のアンパンマン〜やなせたかしの真剣勝負〜」
録画してあったのをようやく見た。
やなせたかしについては、NHKでいろんな番組で取りあげている。これは、今から20年以上前に、やなせたかしの生前に作ったものとなる。特に、(今から見れば)晩年のやなせたかしの仕事ぶりを描いたドキュメンタリーということで、見ることができる。
非常に興味深かったのは、やなせたかしが、漫画(あんぱんまん)を描くとき、何かにとりつかれたようになる、自然と頭のなかにアイデアが浮かんでくる、というよりも、天から降りてくる、というようなことがあって、描き終わったら、自分でも何を描いたか忘れてしまって思い出せない……これは、まさに創作という仕事にかかわっている人間が経験することだろうと思う。
時間を決めて、この時間内にこれだけのことをやる、こういうことでは創作はできない。行き詰まったときは、何にも浮かんでこない。比喩的にいえば、創造の女神が微笑んでくれるのを待つしかない。
このようなことは、漫画家だけではなく、芸術などにかかわっている人なら、同じようなことがあるはずである。ただ、ドラマなどで、芸術家を描くとき、こういう部分をあまり描かないように思っている。昨年の『光る君へ』では、平安時代を生きた藤式部(まひろ)という女性の物語としては面白かったのだが、『源氏物語』を書いた紫式部の物語にはなっていなかった。
この番組のときは、「詩とメルヘン」が刊行されていた。
いくつもの仕事を同時に進めていくのだが、そのためにも、仕事部屋を分けておく、これは合理的な考え方だと思う。
2025年7月11日記
おとなのEテレタイムマシン「ETV2002 83歳のアンパンマン〜やなせたかしの真剣勝負〜」
録画してあったのをようやく見た。
やなせたかしについては、NHKでいろんな番組で取りあげている。これは、今から20年以上前に、やなせたかしの生前に作ったものとなる。特に、(今から見れば)晩年のやなせたかしの仕事ぶりを描いたドキュメンタリーということで、見ることができる。
非常に興味深かったのは、やなせたかしが、漫画(あんぱんまん)を描くとき、何かにとりつかれたようになる、自然と頭のなかにアイデアが浮かんでくる、というよりも、天から降りてくる、というようなことがあって、描き終わったら、自分でも何を描いたか忘れてしまって思い出せない……これは、まさに創作という仕事にかかわっている人間が経験することだろうと思う。
時間を決めて、この時間内にこれだけのことをやる、こういうことでは創作はできない。行き詰まったときは、何にも浮かんでこない。比喩的にいえば、創造の女神が微笑んでくれるのを待つしかない。
このようなことは、漫画家だけではなく、芸術などにかかわっている人なら、同じようなことがあるはずである。ただ、ドラマなどで、芸術家を描くとき、こういう部分をあまり描かないように思っている。昨年の『光る君へ』では、平安時代を生きた藤式部(まひろ)という女性の物語としては面白かったのだが、『源氏物語』を書いた紫式部の物語にはなっていなかった。
この番組のときは、「詩とメルヘン」が刊行されていた。
いくつもの仕事を同時に進めていくのだが、そのためにも、仕事部屋を分けておく、これは合理的な考え方だと思う。
2025年7月11日記
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