『あんぱん』「怪傑アンパンマン」 ― 2025-09-21
2025年9月21日 當山日出夫
『あんぱん』「怪傑アンパンマン」
この週についても、どうも納得いかないところがあるので、批判的に書いてみる。
アンパンマンの正義がどんなものか、くどくどと説明しない方がいいと思う。四月にドラマがはじまったときに、逆転しない正義、ということを言っていたが、これがどんなものなのかということは、アンパンマンのテレビアニメや絵本など、見る人の想像力で思うことであるし、また、『あんぱん』というドラマを見る人が、それぞれに考えればいいことではないかと思う。これを、説明しようとすると、いろいろとほころびが見えてくるということである。逆転しない正義、というのが、人によって違っていてもいい。それを強いて具体例をあげるとするならば、お腹をすかせている人に食べるものを与えることであり、また、それは同時に自分が傷つくことでもあるし、かっこうのいいものでもない、ただ、これだけでいい。
大きな流れとしては、アンパンマンの面白さに最も敏感に反応したのは子どもたちであった。大人にはそれが理解できないことだったが、子どもたちの反応を見ながら試行錯誤を重ねて、テレビアニメ版ができて、それが、爆発的にヒットした、ということかと思っている。この観点では、ドラマとして描くべきは、子どもたちの喜ぶ姿であり、それが理解できない大人たち、ということになるだろう。
「アンパンマン」の面白さは、ヒーローのアンパンマンだけではなく、ばいきんまんをはじめ、多彩なキャラクターによるところが大きいことは、大きいだろう。さて、ばいきんまんは、どうして生まれることになったのだろうか。このあたりが、子どもに人気だったポイントかと思う。
中国の戦地で死んだ(この場合、戦死したということになるのだろうか)岩男の子ども(和明)が、嵩のもとをたずねてくる。戦地で死んだ父親のことを知りたいという。
この流れが不自然である。この時代であれば、自分の父親が戦争で死んだという人は、決して少なくはなかったはずである。そのなかで、特に、自分の父親のことを知らなければならないと考えた理由が説得力がない。自分の息子にうまく接することができないのは、自分に父親がいないからかもしれないので、その父親の戦地で死んだときの様子を知りたい……この理由付けは、この時代としては、かなり無理があると感じる。
そもそも、戦死したからといって、その時の状況が記録にきちんと残っていたり、同じ部隊の戦友であった人たちが克明に記憶している、ということは、一部の例外をのぞいて、無いと考えるのが普通だろう。太平洋戦争・大東亜戦争において、多くの軍人・兵士の戦死が、実際には、戦病死・餓死であったことは、今日では常識的なことである。また、嵩の弟の千尋は、海軍に志願したが、その戦死のときの状況は、明かではなかったはずである。遺骨もかえってきていない。だが、岩男の場合は、状況から判断して、遺骨は無事に高知に還ったかと思われる。
もし、戦地での様子が分かったとして、それが、和明が自分の父親としての自覚にどう影響するのか、前もって分かるはずはない。ただ、たまたた、このドラマの筋としては、現地の子どもとのことが出てきていたので、子どもへの思い、ということにはなっている。しかし、こういうことが事前に予想できたはずはない。場合によると、まったく逆の印象の残ることであったのかもしれない。
八木は、戦争とはそういうものだと言っていた。この科白を言うならば、戦争という状況のなかで、人間がどれほど冷酷になれるかということかとも思うし、逆に、どれほど人間的になれるかということかもしれない。また、上述のように、記録にも記憶にも残らないなかで、死んでいった数多くの兵士のことを思ってみるべきだろう。千尋のように遺骨もないことも多かった。
強いて言えば、戦争とは、子どもにも武器を持たせるものであり、そして、そういう子どもを殺しても、それは、正当な戦争の行為である(かどうか、結果的には子どもは殺されなかったのだが)……このように理解することもできるが、ドラマとしては、ここまでふみこんで語りたいということでもないようだ。
くりかえしになるが、軍隊での八木の姿は異常であった。まったく兵士らしくない、特異なキャラクターであった。なぜ、そのような兵士であったのか、そして、それにもかかわらず軍隊の中で生きのびられたのは何故なのか、ここのところがまったく描かれていない。こういう人物が、戦争とはそういうものだ、と言ったとしても、まったく説得力がない。
アンパンマンのミュージカルについて、嵩は、井伏鱒二と太宰治と映画・フランケンシュタイン、と言っていたが、私にはよく分からない。映画の原作の『フランケンシュタイン』の小説が、広く読まれるようになったのは、わりと近年になってからのことなので、この時代なら、映画のイメージが強かったことは確かだろう。人工的に作った生きもの……現代では、それを、原作に即してクリーチャーと言うことが多いが……を、アンパンマンになぞらえているのかと思うが、怪物・化物としてのフランケンシュタインのイメージは、あまりぴったりこない。また、井伏鱒二や太宰治の作品と、アンパンマンがどうむすびつくのか、私にはさっぱり理解できない。(井伏鱒二は代表的な作品は読んでいると思うし、太宰治は新潮文庫版で小説作品はほとんど読めるので、これは全部読んでいる。井伏鱒二は、戦争における人間のある面を描いた作家であることは確かだと思うが。ここのところは、見る人の解釈である。)
このアンパンマンのミュージカルの舞台が、はっきりいってつまらない。前に出てきた、「見上げてごらん夜の星を」の舞台が、映っていたのは短い時間だったが、これは本物だと感じさせるところがあったのに比べると、どこがいいのか分からない。あるいは、これは、大人には分からないけれど、子どもたちには、とても人気があったということかとも思うが、それならそれで、舞台についていろいろと工夫する大人の姿があり、ステージを見てはしゃいで大喜びする子どもたちの姿があっていいとかと思うのだが、そうはなっていなかった。
ミュージカルの舞台を、和明は息子と見にきていた。この時代、男性が子どもをつれて昼間から劇場にやってくるというのは、普通ではない。いや、現在の価値観では、こういうことを問題視することが、PCではないと排斥される。しかし、ドラマの時代設定としては、和明の仕事や家庭の事情について、なにがしか説明があるべきところであると、思うことになる。
ささいなことかもしれないが、八木の新しいオフィスの場面で、事務の机の上に電卓がおいてあった。昭和50年の設定であった。ちょうどこのころ、私が大学生になったころであるが、電卓はあまり一般には普及していない。大学生で必要としていたのは、理工学部の学生ぐらいだった。日吉のキャンパスの生協のお店で、理工学部の学生向けに関数電卓を売っていたのを思い出す。かなり高額だった。私が、自分で電卓を買ったのは、大学院で論文を書くときに、ちょっとした計算をする必要があったので買った。それでも、一万円ぐらいはしたかと憶えている。
昭和50年のオフィスなら、まだソロバンが主流であったと考えるべきかと思う。
さらに細かなことだが、喫茶店の花が変わっていない。白い花のままである。花が変わることによって、季節の移ろいを表現するというのは、そう難しいことではない、いや、ドラマを映像として作る基本だと思う。こういうところで、手を抜いていると感じるのは、制作スタッフの感性を信用できないということになってしまう。
2025年9月19日記
『あんぱん』「怪傑アンパンマン」
この週についても、どうも納得いかないところがあるので、批判的に書いてみる。
アンパンマンの正義がどんなものか、くどくどと説明しない方がいいと思う。四月にドラマがはじまったときに、逆転しない正義、ということを言っていたが、これがどんなものなのかということは、アンパンマンのテレビアニメや絵本など、見る人の想像力で思うことであるし、また、『あんぱん』というドラマを見る人が、それぞれに考えればいいことではないかと思う。これを、説明しようとすると、いろいろとほころびが見えてくるということである。逆転しない正義、というのが、人によって違っていてもいい。それを強いて具体例をあげるとするならば、お腹をすかせている人に食べるものを与えることであり、また、それは同時に自分が傷つくことでもあるし、かっこうのいいものでもない、ただ、これだけでいい。
大きな流れとしては、アンパンマンの面白さに最も敏感に反応したのは子どもたちであった。大人にはそれが理解できないことだったが、子どもたちの反応を見ながら試行錯誤を重ねて、テレビアニメ版ができて、それが、爆発的にヒットした、ということかと思っている。この観点では、ドラマとして描くべきは、子どもたちの喜ぶ姿であり、それが理解できない大人たち、ということになるだろう。
「アンパンマン」の面白さは、ヒーローのアンパンマンだけではなく、ばいきんまんをはじめ、多彩なキャラクターによるところが大きいことは、大きいだろう。さて、ばいきんまんは、どうして生まれることになったのだろうか。このあたりが、子どもに人気だったポイントかと思う。
中国の戦地で死んだ(この場合、戦死したということになるのだろうか)岩男の子ども(和明)が、嵩のもとをたずねてくる。戦地で死んだ父親のことを知りたいという。
この流れが不自然である。この時代であれば、自分の父親が戦争で死んだという人は、決して少なくはなかったはずである。そのなかで、特に、自分の父親のことを知らなければならないと考えた理由が説得力がない。自分の息子にうまく接することができないのは、自分に父親がいないからかもしれないので、その父親の戦地で死んだときの様子を知りたい……この理由付けは、この時代としては、かなり無理があると感じる。
そもそも、戦死したからといって、その時の状況が記録にきちんと残っていたり、同じ部隊の戦友であった人たちが克明に記憶している、ということは、一部の例外をのぞいて、無いと考えるのが普通だろう。太平洋戦争・大東亜戦争において、多くの軍人・兵士の戦死が、実際には、戦病死・餓死であったことは、今日では常識的なことである。また、嵩の弟の千尋は、海軍に志願したが、その戦死のときの状況は、明かではなかったはずである。遺骨もかえってきていない。だが、岩男の場合は、状況から判断して、遺骨は無事に高知に還ったかと思われる。
もし、戦地での様子が分かったとして、それが、和明が自分の父親としての自覚にどう影響するのか、前もって分かるはずはない。ただ、たまたた、このドラマの筋としては、現地の子どもとのことが出てきていたので、子どもへの思い、ということにはなっている。しかし、こういうことが事前に予想できたはずはない。場合によると、まったく逆の印象の残ることであったのかもしれない。
八木は、戦争とはそういうものだと言っていた。この科白を言うならば、戦争という状況のなかで、人間がどれほど冷酷になれるかということかとも思うし、逆に、どれほど人間的になれるかということかもしれない。また、上述のように、記録にも記憶にも残らないなかで、死んでいった数多くの兵士のことを思ってみるべきだろう。千尋のように遺骨もないことも多かった。
強いて言えば、戦争とは、子どもにも武器を持たせるものであり、そして、そういう子どもを殺しても、それは、正当な戦争の行為である(かどうか、結果的には子どもは殺されなかったのだが)……このように理解することもできるが、ドラマとしては、ここまでふみこんで語りたいということでもないようだ。
くりかえしになるが、軍隊での八木の姿は異常であった。まったく兵士らしくない、特異なキャラクターであった。なぜ、そのような兵士であったのか、そして、それにもかかわらず軍隊の中で生きのびられたのは何故なのか、ここのところがまったく描かれていない。こういう人物が、戦争とはそういうものだ、と言ったとしても、まったく説得力がない。
アンパンマンのミュージカルについて、嵩は、井伏鱒二と太宰治と映画・フランケンシュタイン、と言っていたが、私にはよく分からない。映画の原作の『フランケンシュタイン』の小説が、広く読まれるようになったのは、わりと近年になってからのことなので、この時代なら、映画のイメージが強かったことは確かだろう。人工的に作った生きもの……現代では、それを、原作に即してクリーチャーと言うことが多いが……を、アンパンマンになぞらえているのかと思うが、怪物・化物としてのフランケンシュタインのイメージは、あまりぴったりこない。また、井伏鱒二や太宰治の作品と、アンパンマンがどうむすびつくのか、私にはさっぱり理解できない。(井伏鱒二は代表的な作品は読んでいると思うし、太宰治は新潮文庫版で小説作品はほとんど読めるので、これは全部読んでいる。井伏鱒二は、戦争における人間のある面を描いた作家であることは確かだと思うが。ここのところは、見る人の解釈である。)
このアンパンマンのミュージカルの舞台が、はっきりいってつまらない。前に出てきた、「見上げてごらん夜の星を」の舞台が、映っていたのは短い時間だったが、これは本物だと感じさせるところがあったのに比べると、どこがいいのか分からない。あるいは、これは、大人には分からないけれど、子どもたちには、とても人気があったということかとも思うが、それならそれで、舞台についていろいろと工夫する大人の姿があり、ステージを見てはしゃいで大喜びする子どもたちの姿があっていいとかと思うのだが、そうはなっていなかった。
ミュージカルの舞台を、和明は息子と見にきていた。この時代、男性が子どもをつれて昼間から劇場にやってくるというのは、普通ではない。いや、現在の価値観では、こういうことを問題視することが、PCではないと排斥される。しかし、ドラマの時代設定としては、和明の仕事や家庭の事情について、なにがしか説明があるべきところであると、思うことになる。
ささいなことかもしれないが、八木の新しいオフィスの場面で、事務の机の上に電卓がおいてあった。昭和50年の設定であった。ちょうどこのころ、私が大学生になったころであるが、電卓はあまり一般には普及していない。大学生で必要としていたのは、理工学部の学生ぐらいだった。日吉のキャンパスの生協のお店で、理工学部の学生向けに関数電卓を売っていたのを思い出す。かなり高額だった。私が、自分で電卓を買ったのは、大学院で論文を書くときに、ちょっとした計算をする必要があったので買った。それでも、一万円ぐらいはしたかと憶えている。
昭和50年のオフィスなら、まだソロバンが主流であったと考えるべきかと思う。
さらに細かなことだが、喫茶店の花が変わっていない。白い花のままである。花が変わることによって、季節の移ろいを表現するというのは、そう難しいことではない、いや、ドラマを映像として作る基本だと思う。こういうところで、手を抜いていると感じるのは、制作スタッフの感性を信用できないということになってしまう。
2025年9月19日記
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2025/09/21/9804470/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。