未来予測反省会「20世紀に人と動物は自由に会話ができる」 ― 2025-10-25
2025年10月24日 當山日出夫
未来予測反省会 「20世紀に人と動物は自由に会話ができる」
録画してあったのをようやく見た。
鈴木俊貴(東京大学)の研究は、画期的である。
もう、国語学、日本語学の分野での研究論文を書いたり、大学で教えたりする仕事をやめようと思ったのは、いくつか理由がある。その一つは、動物の言語の研究の進展を見て、人間の言語とは何か、おおきなパラダイムの変化があるだろうと思ったことがある。それは、まさにシジュウカラの「言語」の研究である。
ほかには、生成AIの登場によって、生成AIが主力したものは、はたして人間の「言語」といっていいのかどうか、という問題に取り組まなければならない、ということがある。端的にいえば、生成AIのことばを言語研究のことばの用例として使っていいのか、ということである。これは、人間がつかったことばではない。しかし、人間が見て聞いて、まったく違和感がないとするならば、それは人間にとってことばである。
その他のこと(特に、自分の年齢のこと)もあるが、とにかく、言語研究の世界からは距離をおくことにしたいと思った。
この番組の内容は、十分に理解できるつもりでいるし、また、言語研究にとってこれからの課題や問題点をしめすことになっているとも思う。
言語というものを、人間の思考を中心に考えるか、そうではなく、人間のコミュニケーションを中心に考えるか。ざっくりいえば、言語の研究は、この二つの側面がある。
動物の言語といった場合、コミュニケーションを軸に考えることになる。そして、そのコミュニケーションについて考えると、動物の思考とか意識とかという問題を考えることになる。これは、人間の言語について、さらなる再検討をもとめることになる。
そして、思考とか意識とかを考えるとき、それは、その還世界とのかかわりで考えなければならない。
たとえば、色彩ということについてみても、人間の可視光の範囲が、どのような進化の結果なのか、どういう意味があるのか、ということがある。モンシロチョウは、紫外線領域の光を見ることができる。つまり、見ている世界が、人間とは異なる。このようなことは、色彩学の勉強の初歩のところで出てくることである。
同じことが、聴覚についてもいえる。人間の可聴領域の音声について、その範囲には、どのような意味があるのか。人間の言語を、音声言語中心に考えることは、少なくなってきているとしても、聞き取れる音の範囲と、発音できる音の範囲、ということで、その意味をさらに考えることになる。
地磁気を感知する能力のある動物(サケなど)は、人間とはまったく違った感世界を生きていることになる。
言語が世界を分節するという、構造主義的な考え方にたつとしても、その分節する世界は、人間にとっての還世界ということになる。その人間の還世界と、人間の意識や心(それは、おそらくは脳の機能として説明できることだろうが)とは、深く関係しているはずである。
その社会や文化が、一神教、創造神を基盤にしているか(研究者自身は、無神論であってもいいのだが)、多神教、アニミズム的世界観を基盤に持っているか、ということも、人間以外の自然の事象をどうとらえるか、ということに微妙に影響することは、あることになるだろう。人間を万物の霊長とするか、どうかということがある。
私の場合、研究者としては、もっぱら古い文献資料や、文字のことなどを見てきたのだが、だからといって、人間にとって言語とは何であるのか、という根本的な問い無関係ということはない。上記のようなことを、こういうことも考えられるだろうというぐらいで書くことは簡単なのだが、学術的な議論としては、とてつもなく面倒でややこしいことになる。それよりも、隠居として、昔読んだ、あるいは、読めなかった古典を、読んですごしたいと思うようになったということである。
2025年10月23日記
未来予測反省会 「20世紀に人と動物は自由に会話ができる」
録画してあったのをようやく見た。
鈴木俊貴(東京大学)の研究は、画期的である。
もう、国語学、日本語学の分野での研究論文を書いたり、大学で教えたりする仕事をやめようと思ったのは、いくつか理由がある。その一つは、動物の言語の研究の進展を見て、人間の言語とは何か、おおきなパラダイムの変化があるだろうと思ったことがある。それは、まさにシジュウカラの「言語」の研究である。
ほかには、生成AIの登場によって、生成AIが主力したものは、はたして人間の「言語」といっていいのかどうか、という問題に取り組まなければならない、ということがある。端的にいえば、生成AIのことばを言語研究のことばの用例として使っていいのか、ということである。これは、人間がつかったことばではない。しかし、人間が見て聞いて、まったく違和感がないとするならば、それは人間にとってことばである。
その他のこと(特に、自分の年齢のこと)もあるが、とにかく、言語研究の世界からは距離をおくことにしたいと思った。
この番組の内容は、十分に理解できるつもりでいるし、また、言語研究にとってこれからの課題や問題点をしめすことになっているとも思う。
言語というものを、人間の思考を中心に考えるか、そうではなく、人間のコミュニケーションを中心に考えるか。ざっくりいえば、言語の研究は、この二つの側面がある。
動物の言語といった場合、コミュニケーションを軸に考えることになる。そして、そのコミュニケーションについて考えると、動物の思考とか意識とかという問題を考えることになる。これは、人間の言語について、さらなる再検討をもとめることになる。
そして、思考とか意識とかを考えるとき、それは、その還世界とのかかわりで考えなければならない。
たとえば、色彩ということについてみても、人間の可視光の範囲が、どのような進化の結果なのか、どういう意味があるのか、ということがある。モンシロチョウは、紫外線領域の光を見ることができる。つまり、見ている世界が、人間とは異なる。このようなことは、色彩学の勉強の初歩のところで出てくることである。
同じことが、聴覚についてもいえる。人間の可聴領域の音声について、その範囲には、どのような意味があるのか。人間の言語を、音声言語中心に考えることは、少なくなってきているとしても、聞き取れる音の範囲と、発音できる音の範囲、ということで、その意味をさらに考えることになる。
地磁気を感知する能力のある動物(サケなど)は、人間とはまったく違った感世界を生きていることになる。
言語が世界を分節するという、構造主義的な考え方にたつとしても、その分節する世界は、人間にとっての還世界ということになる。その人間の還世界と、人間の意識や心(それは、おそらくは脳の機能として説明できることだろうが)とは、深く関係しているはずである。
その社会や文化が、一神教、創造神を基盤にしているか(研究者自身は、無神論であってもいいのだが)、多神教、アニミズム的世界観を基盤に持っているか、ということも、人間以外の自然の事象をどうとらえるか、ということに微妙に影響することは、あることになるだろう。人間を万物の霊長とするか、どうかということがある。
私の場合、研究者としては、もっぱら古い文献資料や、文字のことなどを見てきたのだが、だからといって、人間にとって言語とは何であるのか、という根本的な問い無関係ということはない。上記のようなことを、こういうことも考えられるだろうというぐらいで書くことは簡単なのだが、学術的な議論としては、とてつもなく面倒でややこしいことになる。それよりも、隠居として、昔読んだ、あるいは、読めなかった古典を、読んですごしたいと思うようになったということである。
2025年10月23日記
ドキュランドへようこそ「ボスニア 30年前の父へ “戦後欧州最悪の虐殺”の地をたどる」 ― 2025-10-25
2025年10月25日 當山日出夫
ドキュランドへようこそ「ボスニア 30年前の父へ “戦後欧州最悪の虐殺”の地をたどる」
たしか、BS世界のドキュメンタリーで放送があったと思うが、このとき、同時収録ができなかった。
ボスニアの紛争については、ニュースになったことは記憶しているのだが、どうにも、関係がややこしすぎて、よく分からなかったというのが、正直なところである。ただ、この時代は、まだ、イスラム、というだけで敵視するような雰囲気が、国際世論としても、日本の国内の世論としても、そんなには感じられなかったとは、今になって思うことである。
日本でこういう番組を作ると、極力、イスラムということばを使わない作り方をする。少なくとも、NHKの作る番組としてはそうであると、思って見ている。民族の対立や紛争の原因になることとして、宗教は重要な要因になることは確かなことだと思うのだが、それを番組の中で言うと、宗教対立をあおるというようにでも、表いるのだろうか。
この番組では、旧ユーゴスラビアの崩壊の後の紛争について、イスラムということをはっきりと言っていた。だが、それに対する側の宗教がどんなものであるかは語ることはなかったが。
旧ユーゴスラビアの時代は仲よくできたいた、というのは、その統治の時代がよかったということでいいのだろうか。日本では、旧ユーゴスラビアについては、多民族共生のお手本の国家として、さかんに賞賛されていたというのが、私の記憶しているところである。
今の日本で、多民族共生というとき、かつてのユーゴスラビアについての賛辞は、どうなったのだろうかと思うことになる。このあたりについての言説がどうだったのかという歴史を批判的に検証することが、まずは重要なことではないだろうか。
それまで仲よくしていた人びとが、何かのきっかけで、民族浄化、というような行動に出ることがある。こういうことの歴史的な事例として、日本でも、もっと検証の報道があってもいいかと思っている。
2025年10月19日記
ドキュランドへようこそ「ボスニア 30年前の父へ “戦後欧州最悪の虐殺”の地をたどる」
たしか、BS世界のドキュメンタリーで放送があったと思うが、このとき、同時収録ができなかった。
ボスニアの紛争については、ニュースになったことは記憶しているのだが、どうにも、関係がややこしすぎて、よく分からなかったというのが、正直なところである。ただ、この時代は、まだ、イスラム、というだけで敵視するような雰囲気が、国際世論としても、日本の国内の世論としても、そんなには感じられなかったとは、今になって思うことである。
日本でこういう番組を作ると、極力、イスラムということばを使わない作り方をする。少なくとも、NHKの作る番組としてはそうであると、思って見ている。民族の対立や紛争の原因になることとして、宗教は重要な要因になることは確かなことだと思うのだが、それを番組の中で言うと、宗教対立をあおるというようにでも、表いるのだろうか。
この番組では、旧ユーゴスラビアの崩壊の後の紛争について、イスラムということをはっきりと言っていた。だが、それに対する側の宗教がどんなものであるかは語ることはなかったが。
旧ユーゴスラビアの時代は仲よくできたいた、というのは、その統治の時代がよかったということでいいのだろうか。日本では、旧ユーゴスラビアについては、多民族共生のお手本の国家として、さかんに賞賛されていたというのが、私の記憶しているところである。
今の日本で、多民族共生というとき、かつてのユーゴスラビアについての賛辞は、どうなったのだろうかと思うことになる。このあたりについての言説がどうだったのかという歴史を批判的に検証することが、まずは重要なことではないだろうか。
それまで仲よくしていた人びとが、何かのきっかけで、民族浄化、というような行動に出ることがある。こういうことの歴史的な事例として、日本でも、もっと検証の報道があってもいいかと思っている。
2025年10月19日記
新日本風土記「大雪山麓 米どころ」 ― 2025-10-25
2025年10月25日 當山日出夫
新日本風土記 「大雪山麓 米どころ」
上水道が無い町があるというのは、初めて知った。地下水が豊かで、かつ、飲料水としても問題が無い、ということなのだろう。昔は上水道自体がそもそもなかった時代があったのだから、昔ながらの生活ともいえる。
アイヌの人たちの祭祀の様子が映っていたのだが……しかし、東川町に広がる水田は、先住民であるアイヌ、という立場から見るならば、「日本人」の侵略以外のなにものでもないだろう。だが、だからといって、もとの原生林にもどして、そこで、昔ながらのアイヌの生活(おそらくは、狩猟採集ということなのかと思うが)をすることもできない。番組に出てきたアイヌの人たちの、日常的な生活、日々のなりわいは、どんなものなのだろうか。
圃場整備が整然となされているので、米作の大規模化、機械化、が可能になる。これも、明治になってから開拓した、新しい地域で、江戸時代以前からの、いろんな因習(といっていいだろうか)があまり無いからこそ可能であるのかとも思う。
地域の農家が共同して農作業をする。農薬の散布なども、一度に広いエリアについておこなう。そのため、農薬の使用量をおさえることができる。これは、たしかに合理的ではある。だが、そのためには、多くの機械をそろえておいて、一度に使うということになり、年間を通じての稼働率は下がる。コストに対しては、上げる要因になることかとも思うのだが、総合的に判断して、こうしているのだろう。(あるいは、もっと広い別の地域と、機械や設備を共有して、順繰りに使うようにすれば、多くの機械の維持コストは下げられるだろうが、こういうとりくみがあるのだろうか。)
明治になってから開拓した地域であり、昔は、原生林であった。おそらく、今からは想像できないような苦労があったのだろう。北海道の水田の風景は、明治になってからの歴史の産物である。見ていて郷愁を感じる風景ではあるが、日本の原風景ということではない。
また、北海道という寒冷地で栽培できる品種の開発と、その栽培の技術開発の歴史ということも、忘れてはならないことであるにちがいない。
写真の町課、というのは、初めて知った。こういう番組で作ると、どうしても高校生がカメラを持って歩き回るシーンを撮ることになるのだが、私として気になるのは、撮った写真をどんなふうに現像処理しているか、ということである。JPEGで撮ったそのままを提出していることではないだろう。現像処理、レタッチは、当然あることだと思うが、どんなソフトで、どんなコンピュータでやっているのだろうか。デジタルの写真は、見るディスプレイによって、また、WindowsかMacかによっても、色は変わる。
どうでもいいことだが、今どきの高校生が使うカメラとしては、どうしても、CANONになるだろうとは思うが。
町立の日本語学校を作って留学生を受け入れる。これは、地方の町にとっては、一つの考え方である。合法的に日本にやってきて、日本語と日本の生活習慣を理解して(必ずしもそれを身につけるべきとは思わないが、無用な対立を生まない配慮は必用である)、普通に日本の中で仕事をして生活していく……これを移民といってもいいが……法的にも、また、人びとの意識としても、まさに考えなければならないことである。
2025年10月23日記
新日本風土記 「大雪山麓 米どころ」
上水道が無い町があるというのは、初めて知った。地下水が豊かで、かつ、飲料水としても問題が無い、ということなのだろう。昔は上水道自体がそもそもなかった時代があったのだから、昔ながらの生活ともいえる。
アイヌの人たちの祭祀の様子が映っていたのだが……しかし、東川町に広がる水田は、先住民であるアイヌ、という立場から見るならば、「日本人」の侵略以外のなにものでもないだろう。だが、だからといって、もとの原生林にもどして、そこで、昔ながらのアイヌの生活(おそらくは、狩猟採集ということなのかと思うが)をすることもできない。番組に出てきたアイヌの人たちの、日常的な生活、日々のなりわいは、どんなものなのだろうか。
圃場整備が整然となされているので、米作の大規模化、機械化、が可能になる。これも、明治になってから開拓した、新しい地域で、江戸時代以前からの、いろんな因習(といっていいだろうか)があまり無いからこそ可能であるのかとも思う。
地域の農家が共同して農作業をする。農薬の散布なども、一度に広いエリアについておこなう。そのため、農薬の使用量をおさえることができる。これは、たしかに合理的ではある。だが、そのためには、多くの機械をそろえておいて、一度に使うということになり、年間を通じての稼働率は下がる。コストに対しては、上げる要因になることかとも思うのだが、総合的に判断して、こうしているのだろう。(あるいは、もっと広い別の地域と、機械や設備を共有して、順繰りに使うようにすれば、多くの機械の維持コストは下げられるだろうが、こういうとりくみがあるのだろうか。)
明治になってから開拓した地域であり、昔は、原生林であった。おそらく、今からは想像できないような苦労があったのだろう。北海道の水田の風景は、明治になってからの歴史の産物である。見ていて郷愁を感じる風景ではあるが、日本の原風景ということではない。
また、北海道という寒冷地で栽培できる品種の開発と、その栽培の技術開発の歴史ということも、忘れてはならないことであるにちがいない。
写真の町課、というのは、初めて知った。こういう番組で作ると、どうしても高校生がカメラを持って歩き回るシーンを撮ることになるのだが、私として気になるのは、撮った写真をどんなふうに現像処理しているか、ということである。JPEGで撮ったそのままを提出していることではないだろう。現像処理、レタッチは、当然あることだと思うが、どんなソフトで、どんなコンピュータでやっているのだろうか。デジタルの写真は、見るディスプレイによって、また、WindowsかMacかによっても、色は変わる。
どうでもいいことだが、今どきの高校生が使うカメラとしては、どうしても、CANONになるだろうとは思うが。
町立の日本語学校を作って留学生を受け入れる。これは、地方の町にとっては、一つの考え方である。合法的に日本にやってきて、日本語と日本の生活習慣を理解して(必ずしもそれを身につけるべきとは思わないが、無用な対立を生まない配慮は必用である)、普通に日本の中で仕事をして生活していく……これを移民といってもいいが……法的にも、また、人びとの意識としても、まさに考えなければならないことである。
2025年10月23日記
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