アナザーストーリーズ「太宰治心中〜死に焦がれた作家の生き方〜」 ― 2026-01-22
2026年1月22日 當山日出夫
アナザーストーリーズ 太宰治心中〜死に焦がれた作家の生き方〜
テレビのドキュメンタリー番組で、文学や芸術などをとりあつかうことは、とても難しいことだと思っている。芸能関係について、私が見ることが多いのは、「芸能きわみ堂」「クラシックTV」などであるが、これらの番組を見て感じることは、一見すると一般的で分かりやすく音楽や古典芸能を紹介しているのだが、だが、よく見ていると、芸術というのは、所詮は分かる人にしか分からない、芸術とはそういうものである、という割り切りのようなところがある。(別に、芸術が分かることが、その人間の価値というか、評価について、そう大きくかかわることでもないだろう。無論、人びとの人権というようなこととは、関係ない。)
太宰治の小説は、新潮文庫でほとんどを読むことができる。数年前に、新潮文庫版で出ている範囲の作品は、まとめて全部読んだことがある。いくつかの作品は、うまいなあ、と感じるところがある。しかし、太宰治という作家を魅力的と感じかどうかとなると、少なくとも、私にとっては、太宰治は、さらに読みこんで考えてみようという気にはならない。
夏目漱石とか、森鷗外とか、芥川龍之介とか、あるいは、(その対極として)中里介山とか、その作家や作品を見ることによって、その時代を考えることにつながる、ということでは、太宰治には、あまりそういうところを感じない。また、昭和の文化や時代の世相を考えるときに、太宰治の作品が参照されるということは、あまりないと思っている。これは、別に、太宰の作品の文学的価値とは関係のないことである。ただ、そういう傾向の作品を書いた作家だったということである。私の中では、すぐれた文学者であることは分かるのだが、一つに焦点をあわせることが難しい作家である。
私の読んだ範囲だと、『敗戦後論』で、加藤典洋が「トカトントン」について言及しているのが、印象に残っている。
あるいは、そういう目で読んでみるならば、太宰治から、その生きた時代ということを考察することにつながるのかもしれないが、あまり、こういう動きがあるようには思えないでいる。
太宰治は、若い女性の一人称の語りによる作品が、とてもたくみである。読み始めて、ああ、これは、若い女性の語りだなと、直感的に分かる。ここで興味深いことは、(国語学、日本語学の研究の目からであるが)、なぜ、そう分かるのか、感じるのか、ということがある。ことばとして、特に女性のことばで、そのことを強調する文章にはなっていない。
太宰治が心中したときのことが、社会で大きなニュースになったということは、歴史の知識、文学史の知識ということになっている。これも、この時代にどのように報道されたか、特に女性のことをどう報じたか、という観点では、フェミニズムの立場から、いろいろと言うことがあるだろう。
太宰治の文学について、特に深入りすることなく、心中の事件の周辺をあつかった番組としては、てぎわよくまとまっていたとは、感じるところである。
「富岳百景」とか「斜陽」とか、また読みなおしてみようかと思う。できれば、斜陽館には一度は行ってみたい気がしているのだが、これはどうなるだろうか。
2026年1月15日記
アナザーストーリーズ 太宰治心中〜死に焦がれた作家の生き方〜
テレビのドキュメンタリー番組で、文学や芸術などをとりあつかうことは、とても難しいことだと思っている。芸能関係について、私が見ることが多いのは、「芸能きわみ堂」「クラシックTV」などであるが、これらの番組を見て感じることは、一見すると一般的で分かりやすく音楽や古典芸能を紹介しているのだが、だが、よく見ていると、芸術というのは、所詮は分かる人にしか分からない、芸術とはそういうものである、という割り切りのようなところがある。(別に、芸術が分かることが、その人間の価値というか、評価について、そう大きくかかわることでもないだろう。無論、人びとの人権というようなこととは、関係ない。)
太宰治の小説は、新潮文庫でほとんどを読むことができる。数年前に、新潮文庫版で出ている範囲の作品は、まとめて全部読んだことがある。いくつかの作品は、うまいなあ、と感じるところがある。しかし、太宰治という作家を魅力的と感じかどうかとなると、少なくとも、私にとっては、太宰治は、さらに読みこんで考えてみようという気にはならない。
夏目漱石とか、森鷗外とか、芥川龍之介とか、あるいは、(その対極として)中里介山とか、その作家や作品を見ることによって、その時代を考えることにつながる、ということでは、太宰治には、あまりそういうところを感じない。また、昭和の文化や時代の世相を考えるときに、太宰治の作品が参照されるということは、あまりないと思っている。これは、別に、太宰の作品の文学的価値とは関係のないことである。ただ、そういう傾向の作品を書いた作家だったということである。私の中では、すぐれた文学者であることは分かるのだが、一つに焦点をあわせることが難しい作家である。
私の読んだ範囲だと、『敗戦後論』で、加藤典洋が「トカトントン」について言及しているのが、印象に残っている。
あるいは、そういう目で読んでみるならば、太宰治から、その生きた時代ということを考察することにつながるのかもしれないが、あまり、こういう動きがあるようには思えないでいる。
太宰治は、若い女性の一人称の語りによる作品が、とてもたくみである。読み始めて、ああ、これは、若い女性の語りだなと、直感的に分かる。ここで興味深いことは、(国語学、日本語学の研究の目からであるが)、なぜ、そう分かるのか、感じるのか、ということがある。ことばとして、特に女性のことばで、そのことを強調する文章にはなっていない。
太宰治が心中したときのことが、社会で大きなニュースになったということは、歴史の知識、文学史の知識ということになっている。これも、この時代にどのように報道されたか、特に女性のことをどう報じたか、という観点では、フェミニズムの立場から、いろいろと言うことがあるだろう。
太宰治の文学について、特に深入りすることなく、心中の事件の周辺をあつかった番組としては、てぎわよくまとまっていたとは、感じるところである。
「富岳百景」とか「斜陽」とか、また読みなおしてみようかと思う。できれば、斜陽館には一度は行ってみたい気がしているのだが、これはどうなるだろうか。
2026年1月15日記
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