未解決事件「File.13 新宿 歌舞伎町ビル火災」2026-03-04

2026年3月4日 當山日出夫

未解決事件「File.13 新宿 歌舞伎町ビル火災」

火災のこととは関係ないことなのだが……4階にあったお店について、女性が接客する飲食店、という言い方をしているのは、なんとなく歯切れが悪い。別に、この番組で、その営業の内容がどんなであったか詳しく説明する必要はまったくないとは思うが、しかし、そういう店で働いていること自体が悪いと、被害者が言われることになった背景としては、ちょっと気になるところである。(Wikipediaを見ると、項目があって、説明はあるのだが。)

火災の原因が分からないということで、漏電などでなければ、おそらくは放火かもしれないということになるのだが、しかし、放火であるとしても、はっきりそうだと断定することはできないのかもしれない。

番組としては、犠牲者の死因が一酸化炭素中毒によるものであったということだが、これは、防火扉を閉めることができれば、防ぐことができた……ということを強調した構成になっていた。

その後も、都市の繁華街での火災はある。近年では、道頓堀のビル火災のことが記憶に新しい。

階段などにものを置かない、防火扉を確保する、そして、基本的な火の用心、ということになるだろうか。また、きちんと作動する火災報知器ということだろう。

そうはいっても、意図的に放火しようとする犯罪に対しては、建物の構造上、どうしようもないということはある。大阪の精神科クリニックの放火事件のことは、どうしても忘れることはできない。

もうリタイアして、都市の繁華街など行くこともない生活を送っているのだが、都市部の火災については、もう不運としかいいようがない、という印象を持つことになる。

2026年3月2日記

地球ドラマチック「ヒューマン 後編 〜そしてホモ・サピエンスが残った〜」2026-03-04

2026年3月4日 當山日出夫

地球ドラマチック「ヒューマン 後編 〜そしてホモ・サピエンスが残った〜」

後編である。イギリス、2025。

イギリスのBBCの作った番組ということもあるのだろうが、ヨーロッパにおける、ネアンデルタール人と、ホモ・サピエンスのことが中心である。

アフリカを出たホモ・サピエンスが、ヨーロッパの地域に進出するようになる。そのころのヨーロッパは、現代よりもはるかに寒冷な地域であった。以前から住んでいたネアンデルタール人は、その環境に適応した身体であったが、新しくやってきたホモ・サピエンスは、そうではなかった。

しかし、ホモ・サピエンスは、布を作るという文化を持っていた。それによって、寒冷な気候のヨーロッパで、居住する範囲をひろげていった。

一般には、ネアンデルタール人の滅亡と、ホモ・サピエンスの繁栄、ということで対比的に語られるストーリーになる。このとき、ネアンデルタール人と、ホモ・サピエンスとの間で、交雑が起こっていたことが分かっている。現在の人間の中にには、昔のネアンデルタール人に由来する遺伝子が含まれている。このことは、今では、常識であると思っている。

ここで想像することは、いろいろとある。遺伝子の交雑があるということは、ネアンデルタール人と、ホモ・サピエンスの間で、相互に相手を、性の対象として見ていたことを示すものだろう。

ここでさらに気になるのは、両者は、仲よく暮らすことがあったのだろうか、それとも、やはり違う種類の人間として対立することがあったのだろうか。ネアンデルタール人の最後が、人口が少なくなって近親婚が多くなったことによる滅亡だっとして、これは、ネアンデルタール人にとって、ホモ・サピエンスは、自分たちの仲間として受け入れて、全体として生きのびるという道を選択しなかったということになるかと思う。つまり、自分たち、われわれ、という意識がかなり強かったのだろう。

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは、お互いにセックスの対象ではありえたことはたしかなのであるが、同じ仲間として一緒になって、異なる文化を受け入れて融合して、生き抜いていく、ということではなかった……こう考えていいのだろうか。

あまりいいたとえではないと思うが、かつてのアメリカの白人が黒人奴隷を見ていたようなことであった、のかもしれない。ここは、もう想像するしかない。

また、考古学の立場で作ってあることもあるのだが、言語とか宗教とか、そして、それに基づく、自分たちという意識の共同体の成立とか……これらのことは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』が、そういうことが歴史上あったと書いただけで、その詳細にはふれずに、ふっとばして記述したところである。こういうことを、欺瞞と見るか、あるいは、逆に知的誠実さと見るか、別れるところだろう。だが、少なくとも著者は、このことにかなり自覚的ではある。

それから、どうでもいいこかと思うが、ヨーロッパで古代の遺跡の発掘現場で作業をする人は、裸足だった。これは、理由があってのことだと思うが、日本だと普通は靴を履いて仕事する場面だろうと思って見ていた。あるいは、足もとの遺跡を壊さないために、足場を組んで板の上で作業するだろう。

2026年3月3日記

新日本風土記「流氷オホーツク」2026-03-03

2026年3月3日 當山日出夫

北海道には、何度か行ったことはあるのだが、流氷は見たことがない。一度、見てみたいと思うが、さて、これから行くことがあるだろうか。

近年では、流氷は観光の対象でもある。だが、これは、新しいことである。流氷を、美しいものとして感じるようになったのは、おそらくは戦後かなりたってからのことになるだろうか。雪の山岳や沙漠の風景が、美的に感じられるようになってきたこと……これは、近代になってからのことだと思うが……この、流れの中に流氷の光景もあるのだろうと思う。

屯田兵、ということは知識としては知っていることである。おそらく、その開拓の苦労は、とんでもないものだっただろう。(視点を変えて、アイヌの側から見れば、ということはあるとしても。)

(もう今では憶えている人はほとんどいないだろうが、むか~し、NHKが『あいうえお』というドラマを作ったことがある。北海道の開拓地の小学校を舞台にしたドラマだった。未開の北海道にやってきた人たちが、まず作ったのが子どもたちの教育のための小学校だったということは、きわめて印象深く憶えていることである。)

オホーツク文化については、あまり広く語られることがないかと思っている。この番組では言及していなかったが、擦文文化についても、同様である。北海道を語るときは、和人(日本人)とアイヌという関係で語ることが、決まり事になってしまっている。アイヌ以外にも、北海道からオホーツク、サハリンにかけて、いろんな人びとが、いろんな文化を持った生活をおくってきた、こういう視点で、極東東アジアの北方の歴史を考えることが、必要なのだろうと思うが。アイヌが北海道の先住民であることは確かだが、そのアイヌも、歴史をふりかえれば新参者であるということになるだろうか。そこでどのような歴史……ただ融和だけではなく、対立抗争の歴史でもあったかもしれないが……であったのか、総合的に考えることが必用であろう。

稚内とサハリンの関係は出てきていたが、かつて樺太の南半分が日本の領土であった(日露戦争の結果)ということは、言っていなかった。当たり前すぎることだから言わなかったのか、言いたくなかったのか。樺太の過去のことに言及するなら、北方領土のことについても、触れておかないといけなくなるだろうから、ギリギリのところで妥協したということかなと思って見ていた。

昔のアザラシ猟の映像は、今となっては、きわめて貴重なものである。

流氷がやってくると、海の上を氷がフタをしてしまうことになるので、海が凪ぐ。ウニ漁ができる。これはこれで、合理的なことではある。しかし、流氷の海でのウニ漁は、寒いだろうなあ、と思う。

牛を飼うのに、近辺で育てた牧草だけを使うというのは、リスクのあることかもしれない。美味しい牧草しか食べない……という、一種の贅沢に慣れてしまった牛は、飼育しにくいだろう。だが、こういう飼育のやりかたも、あっていいことだろう。(ただ、経済的なことを考えるならば、食べてくれる飼料の種類が多くあった方が楽であるということになる。)

韓国から日本に流氷を見にくる観光があってもいい。では逆に、流氷のみなもとになっているロシアの方では、どんなになっているのだろうか、ということも気になったことである。

ロシアとの関係については、日本はロシアと交戦しているわけではないので、可能な限り交流のチャンネルは持っておいた方がいいというのが、私の考えである。(それから、あまり言われないが、日本にいるロシア人の保護ということが、日本政府のつとめであることは、重要なことである。)その一方で、対ロシア経済制裁ということで、輸出入に制限がかかることは、やむをえないことではあろう。

長い目で見れば、そう遠くない将来、北極海の氷がとけて、北極海が通商路となった場合、その覇権をめぐって、日本・ロシア・中国・アメリカ・EU、その他をふくめて、非常に複雑な情勢になることは、たしかだろう。

今でも、オホーツクの冬の流氷の下に、いくつかの国の原子力潜水艦が潜んでいるとしても、そういうことだろうと思うのだが。それにこれから中国が加わり、場合によると日本も加わることになるだろうか。

2026年2月23日記

BS世界のドキュメンタリー「潜入:欧州 極右勢力の実態を暴く」2026-03-03

2026年3月3日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー「潜入:欧州 極右勢力の実態を暴く」

前後編を録画しておいて、続けて見た。

こういう活動があってもいいとは思うのだが、しかし、ジャーナリズムとしては、かなり危ないことをしているかと感じる。潜入調査ということだが、要するに、相手をだましていることになる。これはこれで、取材の一つの手法といえば、それまでなのだが、見終わってあまりいい印象はない。自分たちの主張が正義で、相手(極右)が悪である、という価値観が、あまりに露骨である。

悪であるかどうかは、見る人の判断にまかせるとして、とにかく、どういう事実関係があるのかをつきとめてみたい……いわば、好奇心にもとづくようなところが感じられない。悪であるに決まっている連中の正体をあばく、という正義感は伝わってくるのだが、なぜ、それが悪なのかということを、自省するところが全くない。

欧米に極右というべき人びとの動きがあることは確かなことだし、それについては、私はあまり賛同する気にはなれない。しかし、そういう主張が(フェイクであるとしても)、なぜ、多くの人びとにとどくのか、ということを考えることがあってよい。この部分を欠いて、ただひたすら悪と、それにまどわされる愚かな大衆という構図で、世の中の動きを語っても、あまり建設的ではないだろう。

人種による知能の差……これは、あるともないともいえない、といういあたりが妥当なところかと思っている。身体能力の違いがあるということは、いってもかまわないことなのか、いけないことなのか。

仮に知能にちがいがあったとしても、そのことで、その人たちを低く見ることがいけないことなのである。人間の人権として平等である。(もし知能や身体能力などに違いがあるとしたなら、それが証明されたとしたなら、それで、いったい人権に違いがあるというのだろうか。)

極右とされる人たちを悪として断罪する、これはこれで一つの立場なのであるが、これだけで、世の中がよい方向にむかうとは、私は思えない。なぜ、人は、異なる人たち(それを、人種といってもいいし、文化といってもいいし、宗教といってもいい)に対して、不寛容になるのか、忌避感を感じるのか、ここのところについて、人間とはどういうものなのか、ではどうすればいいのか、深く広く静かに考えることが必要だと思う。

移民について違和感を感じる普通の生活をしている人びとに対して、悪にだまされている、バカである、というだけのことに終わっている。

私見としては……移民については、適度な制限があってしかるべきだと思っている。どの程度が適度なのかは、いろいろと議論はあるだろうが。少なくとも、ある限度を超えて短時間のうちに進むと、排外主義ということは、必然的に起きる。端的にいえば、人間とはそういうものなのだから、である。ここで、過激な排外主義を生み、社会を崩壊させない、国民国家としての枠組みと秩序を維持するためには、極右的な排外主義を生まないようにする必要がある。そのためには、人間の生活には、歴史と文化があり、またその背景には時間というものがある、という認識が必要である。ただ、移民を受け入れない、同化を拒否する人びとを、バカだといい、それをあおる極右を悪だといえばすむという問題ではない。根本的な人間観の問題なのである。

2026年2月27日記

歴史探偵「七支刀と蛇行剣 「謎の4世紀」に挑む」2026-03-03

2026年3月3日 當山日出夫

歴史探偵「七支刀と蛇行剣 「謎の4世紀」に挑む」

富雄丸山古墳は、我が家から30分ぐらいのところにある。ただ、自動車で行っても、駐めるところがないので、まだ行っていない。

蛇行剣が発見されたときのことは、ニュースで見ている。考古学的には大発見である。

しかし、このニュースを見たときから気になっていることがある。それは、なんであんなにくねくねと曲がっているのだろうか。わざと曲げて作ったとすれば、かなり高度な技術になるだろう。どうやって作ったのか気になる。しかし、その一方で思ったことは、本当はまっすぐに作りたかったのだが、技術的に未熟だったのだ、曲がりくねったものになってしまったのかもしれない、という気がする。はたして、どっちなのだろうか。

もし、玉鋼のようなものから作ったとすると、かなり大量で大きな鉄のかたまりが必要になるが、どうやって調達したのだろうか。それとも、部分的に作っていって、継いでいったのだろうか。これは、いくつかサンプルをとって、鉄の成分を分析する、鉄の剣の内部を高精細に分析することが可能になれば、分かることかもしれない。

古代の技術で、ピカピカに光る鉄器を作ることができて、さびさせずに維持するにはどうしていたのだろうか。

七支刀は、類例が無いことは確かなことだろうし、彫ってある文字から、朝鮮半島と古代日本の関係を考えることは妥当だろうと思う。

どうしても気になるのは、こういう番組で、日本の起源というような方向に話題を持っていくのは、どうだろうか。3世紀の卑弥呼のいた邪馬台国がどこにあったかということとも関連するが、それと、古代の古墳時代のヤマト王権とが、連続するのか、しないのか、あまり意味のあることとは思えないのだが。(少なくとも私にとっては。)

2026年2月26日記

『豊臣兄弟』「墨俣一夜城」2026-03-02

2026年3月2日 當山日出夫

『豊臣兄弟』「墨俣一夜城」

墨俣一夜城……これは、伝説の領域のことなので、ドラマとしてあつかってもいいとは思うが、この回は、成功したといえるのだろうか。まあ、迫力あるシーンだったが。

この時代に、油をつかった、このドラマのような戦術がありえたかどうか、というのは、ヤボということなのだとは思う。ここを割りきって見れば、面白いと思う人もいるだろう。(揮発性のあるガソリンなどだったら、つまりこの時代の油では無理、ということぐらいは、思ってもいいだろう。)

しかし、私には、ここを割りきって、フィクションだからいいとするとしても、全体の流れが、今ひとつしっくりとこない。

墨俣一夜城がどうやって作ったものなのか。
実は、それはおとりであって、作戦の目的は別のところにあった。
しかし、その作戦の本命というところは、敵に見抜かれていた。(ここで、竹中半兵衛が登場。)

こういうことになるのだろう。

私が見ていて納得いかないのは、この時代を生きた人間としての、秀吉と秀長を、どんな人間として描きたいということなのか、ということが、伝わってこないからである。

従来の「太閤記」であれば、秀吉一人のこととして描くことを、弟の秀長をふくめて二人のこととして描くということになっている。二人の基本的な人間の違いがあり、そうであっても、兄弟の関係ということがあってと、錯綜するところがある。ここの部分が、なるほどそういうことがあってもいいと、納得できる描き方になっていない。

秀吉は、農民出身で、織田信長につかえて武士になり、今は侍大将ということになっている。農民出身ということで農民のことをどう思っているのか、武士とはどんな存在だと思っているのか、今ひとつ分かりにくい。現代だと、この時代の農民と武士の関係を、支配者と被支配者ということだけで考えることは、無理かもしれない。(歴史の結果として、検地があり、刀狩りがあるのだが、それにいたる布石が今から用意してあって描かれているとは、感じられない。)

秀長については、史料が少ない。だから、ウソはいくらでも書ける。しかし、このドラマの脚本は、ウソのつきかたが下手である。

ドラマの展開として、いわゆるドンデン返しが繰り返されても、それはそれでいいのだが、しかし、最後にはカタルシスがなければならない。それが、このドラマには、決定的に欠如している。

2026年3月1日記

『八重の桜』「残された時間」2026-03-02

2026年3月2日 當山日出夫

『八重の桜』「残された時間」

時代としては、憲法制定のころになる。同志社を大学とするために新島襄が奮闘することになる。

だが、これを描くとするには、もうちょっと周辺のことを説明しておく必要があるかとも感じる。明治のころの教育としては、小学校から始まっての政府の決めた教育制度の外側に、一般の私塾などが多くあった時代である。また、教育の制度は、単線的ではなく、複線的である。例えば師範学校などがあったし、軍の士官学校や兵学校もあった。女子教育は、ごく一部を除いては、普及していたとは言いがたいだろう。

そのなかに、国のつくった大学があり、私立の慶應義塾や同志社や東京専門学校があったことになる。

ドラマとして、近代における教育、特に高等教育ということにしぼって描くことはあってもいいかと思うが、それにしても、時代背景や周囲のことがらが、希薄であると感じる。

とはいえ、京都の山本の家、新島の家の、家族の物語として見ているぶんには、そこそこ面白い作り方になっているとは思う。

それにしても、ドラマなどでは、大隈重信は比較的よく登場する。教育という観点では、一番よく出てくるのは、吉田松陰である。(教育者であると同時に、幕末の志士である)。しかし、福澤諭吉は、ほとんど登場しない。これは、どういうことなのだろうかという気もしている。

それから、福澤諭吉が慶應義塾を成功させた(とは、簡単にいえないかもしれないが)のは、その経営の基盤を整えたことと、後継者の育成をきちんとやったこと、だと思っている。この観点で見ると、同志社はどうなるかということはあるのだが。

2026年3月1日記

ビストロボイス「伝統芸能と声の神髄「神田伯山×山寺宏一×尾上右近」EP2」2026-03-02

2026年3月2日 當山日出夫

伝統芸能と声の神髄「神田伯山×山寺宏一×尾上右近」EP2

再放送である。最初は、2025年12月13日。

芸談義として、とても面白い。

講談も歌舞伎も、いわゆる伝統芸能である。しかし、席亭で一人で演じる講談と、劇場で大勢の役者やスタッフと作りあげる歌舞伎とでは、それぞれに、思うところが違っている。見ていて、なるほどなあ、と感じるところがあった。

講談も落語も、一人で観客に向き合わなければならない孤独というのは、あるのだろう。

一方、舞台の上で、相手となる役者がいる歌舞伎では、その相手とのやりとり(役者同士の舞台の上での暗黙のコミュニケーションとでもいっていいだろうか)がある。

声優という仕事については、いろいろと考えることがある。

私ぐらいの年代だったら、アメリカのテレビドラマの日本語吹き替えというのを、子どものころに見てきている。『コンバット』『奥様は魔女』『スパイ大作戦』などである。どうしても、その延長で、アニメの声優ということを考えることが多い。いかに自然に、(すでにある、映像としての)ドラマの中の役者の科白を言うか、ということになってしまう。

これも、アニメの声優ということで考えると、また違ったものになるだろう。だが、アニメは、基本的に見ないので、今ひとつ自分なりにイメージできない。

アメリカのアニメの制作では、声を先に録音しておいて、それに合わせて後から絵を作っていく。日本は、逆になる。このことも、日本のアニメの特徴ということになるだろうか。このあたりは、アニメについて知識のある人は、いろんなことを思うことになるかもしれない。

舞台に立つ講談師でも、役者でも、観客はすぐに見抜く。見巧者というのは、そういうものだろう。今の時代、見巧者というようなことは、世の中であまり言わなくなったかもしれない。しかし、これは、演劇などに限らず、テレビドラマなどについても言えることだと思う。時として、このドラマのスタッフは、手を抜いているな、などと感じるところがある。

日常的な稽古があってこその舞台である。これは、そのとおりだろう。

歌舞伎には、演出家というものが存在しない。当たり前のことなのだが、改めて考えてみると、これで舞台がなりたっているのだから、すごいことである。伝統的な舞台芸能は、基本的にそうなのだが。

2026年2月27日記

『ばけばけ』「カク、ノ、ヒト。」2026-03-01

2026年3月1日 當山日出夫

『ばけばけ』「カク、ノ、ヒト。」

熊本編の二週目である。

熊本に来てから、ちょっと面白くなくなった。といって、嫌になるほどつまらないということはない。だが、これまでの松江編ほどのクオリティではなくなってきたという印象はある。

セットと登場人物が限定的ということもあるかもしれない。熊本の町の風景が出てこない。松江編だったら、花田旅館の窓の外を通る人の姿があったりして、松江の町で作ったドラマということになっていた。それが、熊本編になると、ヘブンさんたちの家と学校ぐらいで、その他が少ない。この週では、本屋さんがあったり、ロバートの家があったりしたが、それで、ドラマが魅力的になるかというと、そうでもない。

小泉八雲は、明治の中頃の日本に残る、古くからの人びとの心性というものを描いている。熊本については、近代化した都市として嫌っていたようなのだが、それでも、そこに生活する人々の生活の感性としては、まだまだ古いものを残していただろう。明治に年号が変わって、ようやく一世代になるかどうかの時代である。

古くからの言い伝えを残している人間として、おイセさんが登場してきたことになる。ちょっと不気味というか、変な印象の女性である。女中のおクマといい、おイセといい、熊本の女性は変わっている。

おイセさん、それから、茂吉に、熊本に古くから残る言い伝えを、ヘブンさんは聞く。これは、ドラマの作り方としてこうなっているのかと思うが、ちょっと問題がある。時代として、民俗学などの聞き取り調査の方法論が出来上がる前のことであるし、今日的な視点から批判的に見るのはどうかは思うが、しかし、話しの聞き方としては、下手である。

一般的には、インフォーマントに対しては、まずリラックスしてもらい、信頼関係があって、その上で、自由に話してもらう……ということが重要なのだが、そういうことになっていない。街中のヘブンさんの屋敷に呼び出して、緊張した状態で話すことを強要するようなことは、一番避けなければならないことである。

これも、次週からの展開で、どうなるかなとは思うところである。

熊本の高等中学校が無くなる、かもしれない、ということで慌てる。一番あわてたのは、司之介である。せっかく小豆相場で稼いだお金を、無理矢理にさらに増やそうとして、パーにしてしまう。やはり司之介は、司之介であった。そして、荒金九州男も、快男児というべきか、あるいは、怪男児というべきか、うさんくさいところはあるのだが、登場人物としては魅力的でもある。

もし、高等中学校が無くなったとして、ヘブンさんだったら、他の学校の先生として十分にやっていけるだろう。小泉八雲としては、熊本の後は、神戸に一時期いたが、その後は、東京帝国大学で教えている。高等中学校がなくなるからといって、そう心配することはなかっただろうと思える。

このあたりのことも、日本での生活が不安定なので、イライザからの要請もあって、アメリカへの帰国を考える、ということの伏線になっているのかとも思うが。

前近代の人びとの心性としては、呪い、ということは本当にあったこととして考えた方がいいだろう。近代的な感覚としては、迷信として信じないが、そういう近代的な合理的感覚だけで、この時代を描くのは無理かもしれないし、しかし、リアルに前近代的な感性を描くことも、難しい。ここは、現代の目で見て、なんとなくコミカルな感じで描くことになったところかと思っている。

ヘブンさんの部屋にあるボードに貼られている紙が、徐々に増えている。書くことの材料が、だんだんたまってきているということなのだろう。

この週を見ていて、細かく作ってあると感じたのは、ヘブンさんが原稿を書く場面。机の上のインク壺にインクが半分ほど入れてあって、ヘブンさんはそれをペンにつけて、原稿に文字を書いている。机の上のランプの光に照らされて、インク壺の中の液体が光って見える。

意図的にこのように演出したのかどうかとは思うところもあるが、実際に人が手を動かしているシーンが作ってあることは、ドラマとして説得力がある。

しかし、ロバートとおランさんの屋敷での食事の場面。テーブルの上の照明が蝋燭なのだが、どう見てもLEDランプである。この時代は、まだ和蝋燭の時代かとも思うが、実際に蝋燭を使うのは、難しかったのだろうか。

2026年2月28日記

『どんど晴れ』「女将の決断」2026-03-01

2026年3月1日 當山日出夫

『どんど晴れ』「女将の決断」

この週で、夏美の女将修行の結果として、若女将となることになり、柾樹と結婚することとして、横浜で、結納の式があった。そして、伸一は納得しないものの、柾樹が加賀美屋の後継ぎとなる、ということになった。

ドラマとしては、自然な展開である。

ただ、見ていて、ちょっと説明不足かなと感じるのは、地方都市の老舗旅館として、将来的にどのような経営を目指すのか、この具体的ビジョンが見えてこない、というか、こういうことに立ち入った内容の脚本になっていない。

これはまあいいとしても、伸一が、これまでに旅館経営の勉強のために外国のホテルに勉強に行っていた、というようなことが、この週で初めて出てきた。

伸一は、加賀美屋を立て替えて、近代的なリゾートホテルにしようと思っていたらしい。

だが、その一方で、伸一は地元の業者との関係を大事にする、旅館の経営を考えているということもある。

伸一が、加賀美屋の将来を具体的にどう考えているのか、それが、柾樹とどう違うのか、ということは、少しぐらい説明があった方がいいかと思う。おそらくは、夏美が感じているように、昔ながらのおもてなしのこころを大切にした旅館としてやっていくという方向になるのかなとは、思うのだけれど。

2026年2月28日記