『べらぼう』「間違凧文武二道」 ― 2025-09-15
2025年9月15日 當山日出夫
『べらぼう』 間違凧文武二道
歌麿の妻となるきよ(藤間爽子)がいい。現在のことばでいえば、聴覚障害、という女性のことを見事に演じていた。そして、音の無い世界に生きる人間の見せる姿や表情を絵に写し取ることで、人物画家としての歌麿の才能が開花する、という筋は、おそらく芸術というものの本質をとらえていることになる。
絵画は音が出ない。当たり前のことなのだが、これを自覚したときに、絵で何が表現出来るのかということをさぐりあてることになる。ここから先、日本美術史上に残る傑出した美人画家、人物画家としての歌麿の誕生は、すぐさきのことであろう。
人間の本質にかかわることが何であるのか、特に、生きていることを実感することが分かったときに、(ドラマの中で使った用語でいえば)笑い絵、これは、今日でいう春画といっていいはずだが、これを描くこともできるようになる。そこに描かれているのは、人間の性であり、喜びである。
トンチキというのは、たしかにそのとおりなのだが、しかし、なぜそれがトンチキになるのかを解説するとなると、まさに、野暮、でもある。パロディや風刺を説明することぐらい、面倒というか、馬鹿馬鹿しいことはない。それが分かる人は分かればいいし、分からない朴念仁はだまって本を閉じればいいだけのことなのである。(昔、本屋さんで、「週刊朝日」を手に取って裏表紙を開いて立ち読みしていた私としては、このように思う。このことの意味が分からない人に、説明しようとは思わない。)
しかし、今の時代のドラマとしては、視聴者のみんなが分かるように描いておかないとクレームがくる。そして、こういうこと自体に、制作の側から言うことも、禁じられている。受信料を払ってくださる視聴者の皆様に対するサービスが、第一なのである。番組を作る側としては、せいいっぱいの抵抗であった、というべきかもしれない。
松平定信を、少し愚かに描きすぎのような気もする。非常に了見の狭い、融通のきかない人物ということになっている。たしかに、そういう面もあったのだろうが、為政者としてもうすこしおおらかな面があってもいいようにも思える。せいぜい、理想をいそぎすぎた、というぐらいでもよかったかもしれない。
実は、松平定信も黄表紙が大好きだった。これはいいのだが、ここは、さらに人間の持つ多面性ということで、人物像を深めてあった方がいいかと、私は思う。黄表紙の面白さも分かるということと、いや、分かるからこそ、そのことが政治家としての行動とすぐには結びつかない、思考や感情の次元の異なることだとして、よく分からない人間というものを描くことになるかと、私は思う。黄表紙に笑い転げる定信であると同時に、文武を奨励する謹厳実直な為政者でもある、この二つが、自分でも気のつかないうちに同居している、ということでいいのかもしれない。
そして、これまで、このドラマで、黄表紙と吉原細見ぐらいしか、江戸時代の書物を複製して小道具で使ってこなかったということが、無理を生じているとも思う。この時代、『論語』を始めとして、四書、経書の類いがどれほど売れていたのか、読まれていたのか、街中の漢学塾などの様子、旗本御家人の子弟の教育の様子、こういうことがまったく無視されている。登場人物に「学而」の一部を科白で言わせるだけというのは、はっきりいってものたりない。
現在、経書の類は、圧倒的に多数が残っている。むしろ、黄表紙などの方が貴重である。読み捨てにされる廉価な本だったので、残りにくかった。四書五経など、画面に映すことぐらい、そう難しいことではないと思うが。(無論、厳密な書誌学的な考証ということは、別のことであるが。)
見ていて気になった場面がある。蔦重が、歌麿の描いた絵(原稿)を畳の床のうえにおいてひろげて、その横で酒を飲んでいたことである。演出上の画面の構成からこうなったのだろうが、これは絶対にやってはいけない。うっかりとっくりを倒してこぼれて絵を汚したりしたら大変である。どうしてもなら、絵は、机の上におき、とっくりなどを畳の上におく、ということぐらいでないといけない。こういうことは、プロは絶対にしないものである。
2025年9月14日記
『べらぼう』 間違凧文武二道
歌麿の妻となるきよ(藤間爽子)がいい。現在のことばでいえば、聴覚障害、という女性のことを見事に演じていた。そして、音の無い世界に生きる人間の見せる姿や表情を絵に写し取ることで、人物画家としての歌麿の才能が開花する、という筋は、おそらく芸術というものの本質をとらえていることになる。
絵画は音が出ない。当たり前のことなのだが、これを自覚したときに、絵で何が表現出来るのかということをさぐりあてることになる。ここから先、日本美術史上に残る傑出した美人画家、人物画家としての歌麿の誕生は、すぐさきのことであろう。
人間の本質にかかわることが何であるのか、特に、生きていることを実感することが分かったときに、(ドラマの中で使った用語でいえば)笑い絵、これは、今日でいう春画といっていいはずだが、これを描くこともできるようになる。そこに描かれているのは、人間の性であり、喜びである。
トンチキというのは、たしかにそのとおりなのだが、しかし、なぜそれがトンチキになるのかを解説するとなると、まさに、野暮、でもある。パロディや風刺を説明することぐらい、面倒というか、馬鹿馬鹿しいことはない。それが分かる人は分かればいいし、分からない朴念仁はだまって本を閉じればいいだけのことなのである。(昔、本屋さんで、「週刊朝日」を手に取って裏表紙を開いて立ち読みしていた私としては、このように思う。このことの意味が分からない人に、説明しようとは思わない。)
しかし、今の時代のドラマとしては、視聴者のみんなが分かるように描いておかないとクレームがくる。そして、こういうこと自体に、制作の側から言うことも、禁じられている。受信料を払ってくださる視聴者の皆様に対するサービスが、第一なのである。番組を作る側としては、せいいっぱいの抵抗であった、というべきかもしれない。
松平定信を、少し愚かに描きすぎのような気もする。非常に了見の狭い、融通のきかない人物ということになっている。たしかに、そういう面もあったのだろうが、為政者としてもうすこしおおらかな面があってもいいようにも思える。せいぜい、理想をいそぎすぎた、というぐらいでもよかったかもしれない。
実は、松平定信も黄表紙が大好きだった。これはいいのだが、ここは、さらに人間の持つ多面性ということで、人物像を深めてあった方がいいかと、私は思う。黄表紙の面白さも分かるということと、いや、分かるからこそ、そのことが政治家としての行動とすぐには結びつかない、思考や感情の次元の異なることだとして、よく分からない人間というものを描くことになるかと、私は思う。黄表紙に笑い転げる定信であると同時に、文武を奨励する謹厳実直な為政者でもある、この二つが、自分でも気のつかないうちに同居している、ということでいいのかもしれない。
そして、これまで、このドラマで、黄表紙と吉原細見ぐらいしか、江戸時代の書物を複製して小道具で使ってこなかったということが、無理を生じているとも思う。この時代、『論語』を始めとして、四書、経書の類いがどれほど売れていたのか、読まれていたのか、街中の漢学塾などの様子、旗本御家人の子弟の教育の様子、こういうことがまったく無視されている。登場人物に「学而」の一部を科白で言わせるだけというのは、はっきりいってものたりない。
現在、経書の類は、圧倒的に多数が残っている。むしろ、黄表紙などの方が貴重である。読み捨てにされる廉価な本だったので、残りにくかった。四書五経など、画面に映すことぐらい、そう難しいことではないと思うが。(無論、厳密な書誌学的な考証ということは、別のことであるが。)
見ていて気になった場面がある。蔦重が、歌麿の描いた絵(原稿)を畳の床のうえにおいてひろげて、その横で酒を飲んでいたことである。演出上の画面の構成からこうなったのだろうが、これは絶対にやってはいけない。うっかりとっくりを倒してこぼれて絵を汚したりしたら大変である。どうしてもなら、絵は、机の上におき、とっくりなどを畳の上におく、ということぐらいでないといけない。こういうことは、プロは絶対にしないものである。
2025年9月14日記
『八重の桜』「二本松少年隊の悲劇」 ― 2025-09-15
2025年9月15日 當山日出夫
『八重の桜』「二本松少年隊の悲劇」
この時代は、まだ黒色火薬を使っていて、基本的には、「種子島」のころとそう変わっていない、ということでいいのだろうか。木炭と硝石と硫黄があれば出来る。問題は、それぞれの品質と、配合の割合である。硝石は国産ではまかなえなくて、輸入が主だったと思っているのだが、この時代、どうだったのだろうか。
ドラマとしては面白いのだが、しかし、軍事的に見ると、鉄砲を戦術兵器としてしか使っていない。幕末のころになれば、戦略兵器としての利用ということが、言われているかと思うのだが、そういうことにはなっていない。(一般的な歴史の智識としては、鉄砲を戦略兵器として認識して使ったのは、織田信長、ということになるだろう。)
特に大砲の使用は、戦術、作戦に大きな影響があったはずだが、見ていると、その性能のことだけが出てきていて、実際にどうつかうかという軍事的なことが、出てきていない。これは、ちょっとものたりない気がする。
この回で、時代の流れの大局を見ることが出来ているのは、松平春嶽と山本覚馬である。幕末を舞台にしたドラマは、やはり、時代の大きな流れを見ることの出来る人物が出てこないと面白くない。この意味では、新島八重は、戊辰戦争においては、ただの一兵卒の視点しか持っていない。これは、これで悪いことではないのだが。
2025年9月14日記
『八重の桜』「二本松少年隊の悲劇」
この時代は、まだ黒色火薬を使っていて、基本的には、「種子島」のころとそう変わっていない、ということでいいのだろうか。木炭と硝石と硫黄があれば出来る。問題は、それぞれの品質と、配合の割合である。硝石は国産ではまかなえなくて、輸入が主だったと思っているのだが、この時代、どうだったのだろうか。
ドラマとしては面白いのだが、しかし、軍事的に見ると、鉄砲を戦術兵器としてしか使っていない。幕末のころになれば、戦略兵器としての利用ということが、言われているかと思うのだが、そういうことにはなっていない。(一般的な歴史の智識としては、鉄砲を戦略兵器として認識して使ったのは、織田信長、ということになるだろう。)
特に大砲の使用は、戦術、作戦に大きな影響があったはずだが、見ていると、その性能のことだけが出てきていて、実際にどうつかうかという軍事的なことが、出てきていない。これは、ちょっとものたりない気がする。
この回で、時代の流れの大局を見ることが出来ているのは、松平春嶽と山本覚馬である。幕末を舞台にしたドラマは、やはり、時代の大きな流れを見ることの出来る人物が出てこないと面白くない。この意味では、新島八重は、戊辰戦争においては、ただの一兵卒の視点しか持っていない。これは、これで悪いことではないのだが。
2025年9月14日記
『母の待つ里』(3) ― 2025-09-15
2025年9月15日 當山日出夫
『母の待つ里』 第三回
この回も、アルゴス(のこ)が登場していた。この村のスタッフとして仕事をしている。
第三回だが、原作の小説よりも、かなりふみこんで、この村の舞台裏を描いている。ドラマとして映像的に見せるには、これぐらいでいいのかもしれないが、あまりはっきりと映してしまわない方がいいような気もする。
見ながら感じることだが、浅田次郎の作品には、故郷として帰る場所がある、ということが重要なモチーフになっている場合が多い。『壬生義士伝』のラストなど印象的であるし、「プリズンホテル」シリーズもある意味では擬似的な故郷を描いた作品といえる。最終的に人間の居場所となる故郷とは何であるか、というのは、古くよりのテーマであると同時に、やはり、近年になって大きく問題になってくることでもある。
人間には、最終的に帰る場所がある、それは故郷である、さらにいえば、そこには母が待っている……非常にステレオタイプな発想ではあるのだが、しかし、それでも人を引きつける魅力がある。これは、近代になってからの日本の社会が、地方から都市(特に東京)に出てきた人たちによって形づくられた部分が大きい、ということと無関係ではない。その一方で、昔からの都市在住の人びとのこともある。だが、そのような人びとであっても、帝国主義の時代からグローバリズムの時代になって、外国にたくさん出ていくようになれば、日本というものを故郷として意識するようになる。そういう故郷を象徴的に表現したのが、このドラマの村、そして、桜、ということになると、理解していいだろうか。
浅田次郎の作品にある幻想性ということも重要なのだが、それを、文楽の人形と、ジオラマで、うまく映像として表現している。桐竹勘十郎がいなけば、このドラマはつまらないものになっていたかもしれない。
実際には、もうちょっと季節が移っていってもいいはずなのだが、三回目になっても、村では桜の花が咲いている。不自然な感じもするのだが、しかし、故郷をイメージするとき、満開の桜の花であり、花吹雪というのは、似つかわしい。そして、満開の桜は、死のイメージにもつながる。例えば、坂口安吾や梶井基次郎、古くは、西行法師。次の最終回としては、桜の花が満開であってこそ、ということで作ったのだろうと思う。
2025年9月14日記
『母の待つ里』 第三回
この回も、アルゴス(のこ)が登場していた。この村のスタッフとして仕事をしている。
第三回だが、原作の小説よりも、かなりふみこんで、この村の舞台裏を描いている。ドラマとして映像的に見せるには、これぐらいでいいのかもしれないが、あまりはっきりと映してしまわない方がいいような気もする。
見ながら感じることだが、浅田次郎の作品には、故郷として帰る場所がある、ということが重要なモチーフになっている場合が多い。『壬生義士伝』のラストなど印象的であるし、「プリズンホテル」シリーズもある意味では擬似的な故郷を描いた作品といえる。最終的に人間の居場所となる故郷とは何であるか、というのは、古くよりのテーマであると同時に、やはり、近年になって大きく問題になってくることでもある。
人間には、最終的に帰る場所がある、それは故郷である、さらにいえば、そこには母が待っている……非常にステレオタイプな発想ではあるのだが、しかし、それでも人を引きつける魅力がある。これは、近代になってからの日本の社会が、地方から都市(特に東京)に出てきた人たちによって形づくられた部分が大きい、ということと無関係ではない。その一方で、昔からの都市在住の人びとのこともある。だが、そのような人びとであっても、帝国主義の時代からグローバリズムの時代になって、外国にたくさん出ていくようになれば、日本というものを故郷として意識するようになる。そういう故郷を象徴的に表現したのが、このドラマの村、そして、桜、ということになると、理解していいだろうか。
浅田次郎の作品にある幻想性ということも重要なのだが、それを、文楽の人形と、ジオラマで、うまく映像として表現している。桐竹勘十郎がいなけば、このドラマはつまらないものになっていたかもしれない。
実際には、もうちょっと季節が移っていってもいいはずなのだが、三回目になっても、村では桜の花が咲いている。不自然な感じもするのだが、しかし、故郷をイメージするとき、満開の桜の花であり、花吹雪というのは、似つかわしい。そして、満開の桜は、死のイメージにもつながる。例えば、坂口安吾や梶井基次郎、古くは、西行法師。次の最終回としては、桜の花が満開であってこそ、ということで作ったのだろうと思う。
2025年9月14日記
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