『青年』森鷗外2020-05-25

2020-05-25 當山日出夫(とうやまひでお)

青年

森鷗外.『青年』(新潮文庫).新潮社.1948(2010.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102002/

文学史的には、漱石の『三四郎』と並ぶ名作ということになる。かなり若いころに読んだかと思うのだが、今になってはすっかり忘れてしまっていた。改めて読みなおしてみることにした。

『青年』は、明治43年(1910)である。(なお、漱石の『三四郎』は、明治41年(1908)である。)

読んで感じたところを書けば次の二点になる。

第一には、やはりこの作品は、『三四郎』をかなり意識して書いているな、と感じさせる。いや、『三四郎』のみではなく、漱石という小説家を意識していると言った方がいいかもしれない。

地方出身の青年が、東京に出てきて、いろんな人物と出会う。そして、成長していく。恋(のようなもの)もあれば、芸術もある。まさに、『三四郎』の世界である。

第二には、『三四郎』と比較してのことになるが、次のような箇所が気になる。

田舎から出てきた純一は、小説で読み覚えた東京詞を使うのである。p.6

『三四郎』でも、三四郎は、九州から上京して東京にくると東京語をつかっている。だが、そのことに作者(漱石)は、何の断り書きもしていない。東京に出てきた人間は東京のことばを使うのが当たり前のごとくに書いている。これは、漱石が東京の出身だからこのような小説の書き方ができているのだろう。

しかし、森鷗外はそうではない。鷗外にとって、東京のことばは、学習して覚えるべきものであったにちがいない。その面が、この『青年』という小説にも反映していると見るべきであろう。

以上の二点が、読んで思ったことなどである。

新潮文庫版の解説を書いているのは、高橋義孝。解説によると、『青年』は「教養小説」であるとのこと。そして、時間をかけて読まれるべき小説であるとある。なるほど、そう思ってみるならば、この『青年』という小説は、ストーリーの展開の面白さで読ませるという作品ではない。主人公である小泉純一によりそって、その人生をたどっていく作品である。

ただ、小説として面白いかどうかとなると、私の判断は微妙である。小説的な面白さという点では、『三四郎』の方が面白い。『青年』の魅力は、むしろ、その文章にあるといっていいだろう。端正な鷗外の文章で書かれた「教養小説」、そのなかには、鷗外の人生観、芸術観、世界観とでもいうべきものが凝縮されている。

起承転結のあるストーリーのある小説ではなく、「教養小説」として書かれた鷗外の文学として理解しておくべきかと思う。これは、再度、時間のあるときにさらに読みなおしてみたい作品である。

2020年5月24日記