『渋江抽斎』森鷗外(その二)2020-06-01

2020-06-01 當山日出夫(とうやまひでお)

渋江抽斎

続きである。
やまもも書斎記 『渋江抽斎』森鷗外
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/29/9251733

『渋江抽斎』はこれまで何度か読んできている作品である。今回読んで、気付いたことを書いておきたい。それは、時代意識である。

『渋江抽斎』は、大正五年の作品である。その時代において、明治のそのまえ江戸時代の終わりのころが、この作品の主な時代設定である。渋江抽斎は江戸の人である。

一方、鷗外の筆は、渋江抽斎の死でおわっていない。その死後までつづく。渋江抽斎は、安政五年になくなっている。が、その子孫のゆくすえをも、さらに探求することになる。そして、それは、この作品の書かれた同時代にまでおよんでいる。

この間に、明治維新があった。その後、西南戦争もあり、日清戦争もあり、日露戦争もあった。しかし、このような一般的な歴史のできごとは、この作品に登場しない。あたかも江戸の昔から大正にいたるまで、そのまま連続して時代が続いているかのごとくである。

いや、あるいは、この鷗外のような時代感覚の方が正しいのかもしれない。現代の我々は、明治という時代で、歴史を区分しがちである。明治維新の、その前と後で、時代が大きく変わったと思っている。たしかにそのような面もあるにはちがいないが、人びとは、その歴史の激動のなかで日々のいとなみを続けてきたのである。

この作品を読んで感じるのは、歴史の時代の連続性である。大正の時代になってから江戸のことを書いている。しかし、そこにあるのは、作者(鷗外)が、渋江抽斎に対していだいている、同時代人としての感覚である。ここを読みとらなければ、この作品を読んだことにはならないと言っていいかもしれない。

歴史とは何か……たしかに様々な議論のあることではある。そのなかにあって、『渋江抽斎』のような時代感覚もまた一つの歴史感覚であることは、重要なことかもしれない。

2020年5月31日記

『麒麟がくる』あれこれ「家康への文」2020-06-02

2020-06-02 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第二十回「家康への文」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/20.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月26日
『麒麟がくる』あれこれ「信長を暗殺せよ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/26/9250638

歴史を語るのに、陰謀論という視点がある。この意味では、この回はいろいろと面白かった。

今川の先鋒をつとめることになった家康を、信長は調略しようとする。その信長に、家康のことを告げたのは、帰蝶だった。だが、その帰蝶もまた、そのことを、どうやら光秀からの通信によって知ったようだ。結局は、光秀の配慮が、歴史を動かした背後にあったということになるのだろうか。

まあ、そんなことはないだろうと思うのだが、歴史の表舞台に登場することのない光秀が、どのように戦国の争乱にかかわっていくことになるのか、ここのところを、このドラマはどう描くことになるのか、この意味では、非常に興味深い。

ところで、家康を調略することになる信長は、その母(於大の方)と子との心情にはいりこむことになる。ここは、信長自身が、自分の母(土田御前)のことを思いながらも、ついにその母には愛されることのなかったという前回の展開をふまえて見るならば、なかなか巧みな脚本であったかと思うところがある。

ドラマのオープニングで、蹴鞠指導とあったので、今川義元が蹴鞠をするのかと思ったら違った。以前の『おんな城主直虎』では、今川での蹴鞠のシーンがうまく使われていた。この『麒麟がくる』で蹴鞠に興じていたのは、越前の朝倉であった。

さて、次回は、いよいよ桶狭間の合戦になるようだ。どのように信長の活躍を描くことになるのか。また、そこに光秀は、どう関係してくるのか、楽しみに見ることにしよう。(次回で、このドラマは、一端休止ということになるらしい。)

2020年6月1日記

追記 2020-06-09
この続きは、
やまもも書斎記 2020年6月9日
『麒麟がくる』あれこれ「決戦!桶狭間」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/09/9255650

ネジキ2020-06-03

2020-06-03 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はネジキである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月27日
シャガ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/27/9250986

我が家の近辺の何ヶ所かに、この木の花の咲くのを確認してある。ここに掲載したのは、そのうちで、家からもっとも近いところの木である。歩いて五分ぐらいのところだろうか。

この木の花も、季節を感じる花の一つとなっている。ちょうど、5月の終わりごろに白い花が咲く。

写真にとるのは、ちょっと難しい。この写真を写した日は、少し風があったので、枝の先が風にゆらぐ。枝の揺らぐのがおさまったときを見計らってシャッターをきる。露出はオートの設定にしておいて、現像処理のときに、少し補正をかけるようにしている。白い花なので、だいたい、-1/2EV程度の補正にしてある。

使ったのは、タムロンの180ミリ。木の茂みの奥にある花を写すには、このレンズがちょうどいい。

家の周囲を見ていると、空き地にユウゲショウの花が咲いている。ドクダミの白い花も咲きだしている。ハコネウツギの花が咲いて、これは、徐々に色が変わっていくのが観察できる。キンシバイの花がつぼみをつけている。これらの花についても、順次写真を撮っていきたいと思っている。

ネジキ

ネジキ

ネジキ

ネジキ

ネジキ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年6月2日記

追記 2020-06-10
この続きは、
やまもも書斎記 2020年6月10日
タンポポ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/10/9255997

『寒椿』宮尾登美子2020-06-04

2020-06-04 當山日出夫(とうやまひでお)

寒椿

宮尾登美子.『寒椿』(新潮文庫).新潮社.2003(中央公論社.1977 中公文庫.1979)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129316/

去年から、宮尾登美子の作品をまとめて呼んできた。そのなかで買ってはあったが、読みそびれておいたままになっていた。ようやく全編に目を通すことができた。

この本は、たぶん、昔読んでいる。書誌を書いて、中公文庫で出ていた作品であることがわかるので、おそらくそれで読んだのだろう。読んでみて、記憶にのこっているいくつかのシーンがあった。

収録してあるのは、四つの短篇。

小奴の澄子
久千代の民江
花勇の貞子
染弥の妙子

舞台は主に高知である。子方屋の松崎で育った四人の女性の、流転の人生を描いている。読んで思うことは、次の二点になるだろうか。

第一には、他の宮尾登美子の作品とも共通するが、芸娼妓の世界を描いている。花柳界と言ってもいいのかもしれない。もっとありていにいえば、人身売買と売春の世界である。そのなかで、それぞれに、人生の生きがいもあり、意地のようなものもあり、また、あきらめもある……さまざまな人間模様が、四人の女性のそれぞれの視点から描かれる。

第二には、そのような苦界とでも言うべき世界に生きる女性を描きながら、そのそこにある、人間を見る目の、やさしさと冷酷さ。あるいは、人間が生きていく上での喜怒哀楽のすべてを凝縮したような、それぞれの人生とでも言えるだろうか。

以上の二点、これまで読んできた宮尾登美子の作品に共通するところを、この作品にも感じる。そして、おそらくは、『櫂』や『岩伍覚え書』のような作品を書いた視点があるからこそ、さらに、花柳界の女性たちを描きながら、人間が生きていくうえでの様々な情感を、冷徹に、しかし、細やかな感情をこめて描き出してある。

また、この作品のなかには、戦前の満州のことも出てくる。芸娼妓という世界は、大陸にまで及んでいたということを、あらためて認識させてくれる作品ともなっている。かつての日本には、この作品に描かれたような、人びとがいた時代があったということは、忘れてはならないことだろうと思う。

2020年6月3日記

『オンブレ』エルモア・レナード/村上春樹訳2020-06-05

2020-06-05 當山日出夫(とうやまひでお)

オンブレ

エルモア・レナード.村上春樹(訳).『オンブレ』(新潮文庫).新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/220141/

ひさしぶりの村上春樹の翻訳である。

そういえば、昔は、映画でもテレビでも「西部劇」というのがあった。思い浮かぶところでは、「荒野の七人」や「荒野の用心棒」など、それから、「ローハイド」も思い浮かぶ。いったいいつごろから、「西部劇」というのが無くなってしまったのだろうか。

『オンブレ』は、「西部小説」というジャンルになるらしい。(村上春樹の解説による)。文学、小説の世界でも、「西部」を舞台にした作品が書かれた時代があった。それも、映画やテレビと同様に、今では廃れてしまったらしいが。

解説によると、『オンブレ』は、一九六一年の作ということである。私のこどものころであり、まさにこの時代、映画やテレビで「西部劇」がさかんに作られていた時代ということになる。

ともあれ、村上春樹の翻訳を読んでみようということで読んでみた作品である。もし、村上春樹が訳していなければ、手に取ることもなく終わってしまったかもしれない。そして、これは、傑作であると言っていいだろう。読んで面白い。まさに「西部劇」の面白さに満ちている。

ところで、日本では、時代小説というジャンルはいまだに健在である。現役の作家によっても書かれているし、故人となってしまったが、藤沢周平の作品なども、読まれ続けている。ただ、テレビドラマなどでは、時代劇は、もう亡んでしまったと言ってもいいかもしれない。かろうじて、NHKが細々と製作しているぐらいだろうか。

たぶん、「西部劇」「西部小説」というジャンルが衰退してしまったのは、PC(政治的な正しさ)への配慮ということもあるにちがいない。アメリカの歴史を、先住民からすれば侵略者である白人の視点から描くということは、今では流行らないことになってしまっている。

このような時代の流れを感じながらも、この『オンブレ』という小説は、エンタテイメントとしてすぐれている。このような面白い小説を発掘して翻訳してくれている村上春樹の仕事は、小説家としての仕事とは別にして、評価されてもいいのではないかと思う。

2020年6月4日記

オンライン授業あれこれ(その七)2020-06-06

2020-06-06 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月30日
オンライン授業あれこれ(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/30/9252140

週に一回(水曜日)の教材配信。それにレポートという形式で進めることにしている。第一回のレポートの提出を締め切った。

ざっと読んで思ったことなど書いておくことにする。二点ほどある。

第一には、全体として思ったよりもレベルが高いということ。

通常の授業があったときに出すのと同じ課題で出してみたのだが、例年のレポートよりもできがいい。

これは、漫然と時間割があってそれにしたがって学校に来て教室で話しを聞いているだけ、という状態から、一歩抜け出して、自分で配布された教材を読まなければならないことによるのだろう。だいたい、これまで、毎回、A4の用紙で4ページほどの分量の教材を配布してきている。通常の授業があったときの配布プリント(2ページ)に解説(2ページ)を加えたものである。

ざっと読んで採点してみた印象としては、どうにもこうにもならない、はしにもぼうにもひっかからない、というのはほとんど無かった。だいたいのレポートが、こちらの意図したポイントをはずすことなく書いてある。

この意味では、オンラインでの教材配信というのも、教育的効果はそれなりにあると言っていだろうと判断している。

第二に、しかし、そうはいっても、レポートの要件を満たしていないものが目につく。レポートの書き方を知らないのである。

全体をまったく改行なし、連続して書いてあるのがかなりある。

文体が、「です」「ます」になっているものがある。

「~~と思います」という言い方をしているものがある。これは、学生の意見を求めたものではない。配布した教材に書いてあったことを、課題の趣旨に沿って要約すればよいのである。

このあたりのことは、先週の教材配布のときに、レポートの講評として、学生に示しておいた。今回は、これらのことについては評価の対象にふくめなかった。しかし、次回からは、このようなこと、レポートの書き方の形式的なことについても、評価の対象とするとして、課題を出そうかと思う。この場合、再度、上記のような書き方をしてはいけないと、学生に示す必用がある。

多少、厳しい評価になるかもしれないが、しかし、このようなことは、勉強していく中で、どこかの段階で、指導されなければならないことである。オンライン授業で、その他の科目のレポート提出など増えていることだろうと思う。ここは、守るべきルールを示したうえで、それに沿って書くことを求めることも、必用なことであると思う。

以上の二点が、第一回のレポートの提出を見て、思うことなどである。

それにしても、レポートの課題を見ていない学生が少なからずいる。大学のLMSでは、学生がアクセスすれば、そのことが分かるようになっている。それを見ると、レポート課題を出したときのメッセージを、見ていない学生が存在する。

このような学生については、大学の事務の方に、連絡しておいた。

前期はオンライン授業、期末試験は無し、平常点評価ということになっている。あと三回のレポートである。配布した教材を読んでまとめるという方向でやっていきたいと思っている。そして、レポートの書き方の作法ということについても、おりをみて言及していくつもりでいる。

2020年6月5日記

追記 2020-06-15
この続きは、
やまもも書斎記 2020年6月15日
オンライン授業あれこれ(その八)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/15/9257669

『エール』あれこれ「響きあう夢」2020-06-07

2020-06-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第10週「響きあう夢」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_10.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月31日
『エール』あれこれ「東京恋物語」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/31/9252509

この週を見て思ったこととしては、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、裕一のレコードのヒット。

裕一は、ついにヒット曲を手がけることになった。「船頭可愛いや」である。ただ、この曲のヒットの影には、双浦環の影響力もあったことになる。

今、YouTubeを見ると、「船頭可愛いや」を聴くことができる。

三浦環
https://www.youtube.com/watch?v=lc59qlPue2M

音丸
https://www.youtube.com/watch?v=pbCRjvIOAMw

今に残っているこれらの歌もいいが、ドラマの中で、双浦環(柴咲コウ)が歌っていたのも、これはこれとして、非常によかった。

ともあれ、これで裕一は、どうにかレコード会社をくびになることもなく、作曲の仕事をつづけられることになるようだ。

第二には、音の妊娠、出産。

「椿姫」のヴィオレッタをなんとかつとめようとする音であるが、子どもができてしまう。音楽をとるか、子どもをとるかの、選択を迫られることになる。結果としては、「椿姫」はあきらめることになったのだが。

なやむ音に対して、環は厳しくプロとはなんであるかと、問いかける。

この行き先のことで悩む音に語りかける裕一の姿が印象的であったから。二人で夢をかなえていこうと、はげましていた。これから、この二人の人生は、お互いにはげましあって生きていくことになるのだろうと思う。

以上の二点が、この週を見て思ったことなどである。

さて、次週は、舞台が福島にうつっていろいろとあるようだ。まだ、あとしばらく放送がつづく。次週も楽しみに見ることにしよう。

2020年6月6日記

追記 2020-06-14
この続きは、
やまもも書斎記 2020年6月14日
『エール』あれこれ「家族のうた」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/14/9257266

『風と共に去りぬ』(一)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫2020-06-08

2020-06-08 當山日出夫(とうやまひでお)

風と共に去りぬ(1)

マーガレット・ミッチェル.荒このみ(訳).『風と共に去りぬ』(一)(岩波文庫).岩波書店.2015
https://www.iwanami.co.jp/book/b247593.html

この訳で、『風と共に去りぬ』を読むのは二度目である。これまで、『風と共に去りぬ』は、三回読んでいる。旧訳の新潮文庫版。新訳の新潮文庫版。そして、岩波文庫版である。たしか、新訳の新潮文庫版と、岩波文庫版は、同じ年の同じころに同時に刊行になったと覚えている。これは、両方とも買って、順番に読んでいった。

『戦争と平和』(トルストイ、岩波文庫)の六冊を読み終えて、さて次に何を読もうかと思って、思い浮かんだのが、『風と共に去りぬ』である。これも、岩波文庫で六冊になる。数年ぶりの再読(四回目)になるのだが、読むことにした。

第一冊目を読んで思うことは、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、すでにこの本は読んで内容は知っている。その目でさらに読むことになる。そう思って読むせいかもしれないが、この小説は、敗れた側(南部)の歴史を描いている。勝った側(北部)のことは、ほとんど出てこない。

基本的に、歴史は、戦いがあれば、勝った方の視点で描かれるものである。それを、この小説は、歴史的背景としては、敗れた南軍の方に視点をおいている。このことが、この小説を魅力的なものにしている大きな要因になっていると、改めて読んで感じるところである。

第二には、これも、これまで読んで分かっていることであるが、南部における黒人奴隷の差別を描いている。時代設定として、南北戦争の時代の南部を描くことになっているので、黒人奴隷が登場するのは、当然である。が、それ以上に興味深いのは、黒人奴隷でも、屋敷づとめをするもの(屋敷奴隷)と、野外ではたらくもの(畑奴隷)との間に、さらに差別意識のあったこと。さらに、その黒人奴隷よりも下層に位置づけられるものしてあった、貧乏な白人の存在。

これら、重層的な差別の構造を、この小説は描き出している。この小説が書かれたのは、一九三六年である。第二次世界大戦の前である。今日のような人権意識がひろまる前の作品ということになる。そのことは考慮して読む必要はあるが、それでも、この小説に描かれたような複雑な差別の構造が、かつてのアメリカ社会のなかにあったことは、改めて認識しておく必用があるように思われる。

以上の二点が、『風と共に去りぬ』を、再度、再々度、読みなおしてみて感じるところである。

さらに書いてみるならば、この小説の魅力になっているのは、何よりもヒロインのスカーレットの人物像にある。ただ、小説を読んでも、映画のイメージをどうしても強く感じてしまうところがあるのだが。

それから、随所に出てくる自然描写が美しい。南部の農園の風景、木々や花々の描写を背景として、登場人物たちが描かれる。

また、第一冊目を読んで思ったことであるが、この小説には、宗教のことがほとんど出てこない。読んでいくと、カトリックのお祈りのシーンなどはあるのだが、その宗教性が、この小説の大きな筋にからんでくるということはないように感じられる。スカーレットの人物造形のなかにも、宗教という要素は感じられない。(これは、『戦争と平和』を読んだ印象が強いから、特にそう感じるところもあるのかもしれない。)

ただ、これも、今日の日本の感覚で読むからのことである。第一冊の解説には、スカーレットがアイルランド系であること、それから、カトリックの信仰を持っていることの、歴史的、社会的な意味が詳しく解説してある。これを読むと、なるほど、そのような背景があっての描写なのであるかと気付くところがある。また、アイルランド系であるということも、社会的な差別の要因でもあったことが、理解される。

続けて第二冊目を読むことにしたい。

2020年5月24日記

追記 2020-06-12
この続きは、
やまもも書斎記 2020年6月12日
『風と共に去りぬ』(二)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/12/9256641

『麒麟がくる』あれこれ「決戦!桶狭間」2020-06-09

2020-06-09 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第二十一回「決戦!桶狭間」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/21.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年6月2日
『麒麟がくる』あれこれ「家康への文」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/02/9253305

この二十一回で、このドラマもいったん休止ということになっている。しかし、これはこれで、きりのいいところでの休止でったかもしれないと思う。この回で描いていたのは、桶狭間の合戦。織田信長が、今川義元を討ち取った、戦国時代の名だたる合戦である。

見ていた思ったことなど書けば、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、桶狭間の合戦の描き方。

これまでの通説というか、一般的なイメージとしては、織田信長がわずかな軍勢で、雨のなか今川義元に奇襲攻撃をかけ、見事に討ち取ったということかと思う。

だが、このドラマの桶狭間の合戦は、新しい解釈で見せていた。

まず、少数による大軍勢を相手の奇襲攻撃ではなかった、ということがある。今川の兵は、かなり少なかった。そこのところを読み切ったうえで、信長は自分の兵で互角に戦えると判断した上での、合戦ということであった。

また、奇襲攻撃でもなかった。今川の方では、信長の動きを確実にとらえていた。

ただ、合戦の結果としては、今川義元を討ち取ることだけに集中した織田信長の勝利ということになった。

第二には、徳川家康の存在。

今川としては、信長が出てくれば、その背後をつくように家康に要求した。しかし、家康はこれをこばんだ。それが、結果として、信長に加勢することになっていた。

この家康の判断のもとにあったのは、三河の国を自分のもとにとりもどしたいとの一念であった。そして、その判断のもとになったのは、前回描かれていた、帰蝶の動き、さらにその背景としては、光秀の帰蝶へのはたらきかけがあったことになる。

このあたりは、明智光秀を主人公としたこのドラマにおいて、戦国の時代の動乱の要所に位置するものとしての光秀の存在、判断力を描いてみせたことになる。

以上の二点が、この回の桶狭間の合戦を見て思ったことなどである。

さらに書いてみるならば、「人間五十年…………」の幸若舞を歌ったのは、帰蝶の前においてであった。このあたりも、斬新な解釈、演出であったと見るべきであろう。

さて、桶狭間の合戦が終わった後、信長はどうするのか。「天下」ということばこそつかってはいなかったものの、これからの信長は「天下」を目指して行動することになるのだろう。そして、それに、明智光秀も関係することになる。

『麒麟がくる』の再開を楽しみにして、待つことにしよう。

2020年6月8日記

追記 2020-09-01
この続きは、
やまもも書斎記 2020年9月1日
『麒麟がくる』あれこれ「京よりの使者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/09/01/9291029

タンポポ2020-06-10

2020-06-10 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日はタンポポである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年6月3日
ネジキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/03/9253721

これは、ちょっと前、春になって、四月のうちに撮影しておいた写真からである。

我が家の周囲を見ていると、タンポポの花が咲く。似た花として、ブタナ、それから、オオジシバリも咲いているのを確認できる。

タンポポには、在来種と外来種があることは知っている。さらにそのなかの細かな違いまでは、残念ながらわからない。ただ、花の外側の総苞片が、反り返っているのが外来種のタンポポと知っているだけである。我が家の近辺を見ていると、在来種と外来種と二種類のタンポポを見ることができる。ここに掲載した写真は、その違いが分かるように横から写したものである。

ジャパンナレッジで日本国語大辞典を見る。「たんぽぽ「蒲公英」」で項目がある。

キク科の多年草。世界の温帯、亜寒帯に広く分布し、日当たりの良い山野、路傍に生える。

とありさらに説明がある。その説明のなかには、

日本にはエゾタンポポ、カントウタンポポ、カンサイタンポポなど約二〇種が自生し、セイヨウタンポポが帰化している。

ともある。

用例は、古いもので、文明本節用集(室町中)、日葡辞書あたりからとなる。中世には、このことばで呼ばれていたようだ。

『言海』にもある。

たんぽぽ 蒲公英 名 〔古名、たなナリ、たんハ、其轉ニテ、ほほハ、花後ノ絮(ワタ)ノほほけタルヨリイフカト云〕 古名、タナ。又フヂナ。草ノ名、原野ニ多シ、葉ハ、冬ヨリ、盛ニ地ニ布キテ叢生ス、なづなノ葉ニ似テ大ナリ、切レバ白キ汁出ヅ、春、煮テ食フベシ、春ノ末、數圓莖ヲ出ス、高サ五寸許、内空シク、頂ニ一黄花アリ、單葉(ヒトヘ)ノ菊花ノ如シ、又、白花ナルモアリ、後ニ、絮(ワタ)トナリテ、莖頭ニ玉ヲナシ、風ニ飛ブ。略シテ、タンポ。

『言海』には、白い花のタンポポについても言及がある。だが、我が家の周囲では、白い花のものを目にすることはない。

タンポポ

タンポポ

タンポポ

タンポポ

タンポポ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年6月9日記

追記 2020-06-17
この続きは、
やまもも書斎記 2020年6月17日
綿毛
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/17/9258369