映像の世紀(1)「20世紀の幕開け」2021-04-02

2021-04-02 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKが「映像の世紀」を再放送しているので、録画しておいて見た。デジタルリマスター版である。

もとは、一九九五年の番組である。二〇世紀の終わりにこの番組がつくられたことになる。その当時、どんな時代だったろうか。一九九五年といえば、神戸の震災の年であり、地下鉄サリン事件の年である。むろん、Windows95の発売の年でもあった。バブル景気の破綻ということはあったが、世の中そんなにまだ悪くなっているという印象はなかったと覚えている。(その後、平成の時代となり、二一世紀になって、世の中ろくなことになっていない、と思うのだが。まあ、確かにインターネットの発達、スマホの普及ということはその後のこととしてあるのだが、それで、生きていくのに良い時代になったという印象を私はあまり持っていない。)

この番組が放送された当時、私は、これを全部は見ていないが、時々見ていたと記憶している。語りが山根基世であったことは、覚えている。

再放送を見てまず一番に感じたことは、語りの山根基世アナウンサーの声の若さと、その語りのスピードである。今、時々、放送のある「映像の世紀プレミアム」でも語りを担当しているが、その口調は、もっとゆるやかである。ゆっくりとしゃべっている。

この語りのスピードの違いが、一九九五年から、二〇数年たった時間の流れを象徴しているように感じたというのが、まずは正直なところである。

そして、番組について語るならば……やはりNHKがちからをいれた作った番組であるということであり、まさに、二〇世紀という時代が「映像の世紀」であったことを実感する。明治の日本をはじめとして、中国、ヨーロッパ、ロシア、アメリカなど、さらには、植民地であった地域の映像が残っている。そこには、映像の語る迫力というものを感じずにはいられない。

百聞は一見に如かずというが、映像そのものが語るちからには圧倒されるものがある。

ただ、これは、今日(二〇二一)の目で、一九九五年の番組を見るということもあるのだが、映像を発掘してきたということのインパクトで作った番組という印象をどうしてももってしまう。無論、ところどころに、歴史の流れへの批判を見てとることはできるが、そう強いものではない。(この意味では、今の「映像の世紀プレミアム」は、非常に歴史に対して批判的である。)

それにしても、よくこんな映像が残っていたものだと感心することしきりである。素朴な印象であるが、一般的な歴史として知っている知識や感想を、一つの映像で強固にうらづける、あるいは、打ち砕いてみせるというところがある。

ところで、あらためてこの番組を見て思うことの一つに、残された映像を映したのは、やはり、世界の支配者の側の人間の目である、ということがある。植民地の映像など、その植民地支配を正当化するために作成され、残されたものである。ロシアのロマノフ王朝の映像なども、その王家の繁栄を誇示するためと見ていいものだろう。

興味深かったのは、映像の記録という手段を手に入れた人間は、すぐに、面白い動画撮影にもとりくんでいることである。今では、YouTubeに投稿するようなものだろう。それを、映画というものの登場してすぐの段階でやっている。

この番組の再放送は、ここしばらく続くようだ。COVID-19で居職の生活である。録画しておいて、後日の昼間にゆっくりと見ることを続けられたらと思っている。この回は、二〇世紀になって歴史が映像にとどめられるようになった始めのころのことだった。次は、第一次政界大戦がはじまって、映像に残る戦争の時代ということになるはずである。

2021年4月1日記

追記 2021-04-09
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月9日
映像の世紀(2)「大量殺戮の完成」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/09/9365370

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