映像の世紀(2)「大量殺戮の完成」 ― 2021-04-09
2021-04-09 當山日出夫(とうやまひでお)
「映像の世紀」第2集「大量殺戮の完成-塹壕の兵士たちはすさまじい兵器を見た-」
「映像の世紀」第2集「大量殺戮の完成-塹壕の兵士たちはすさまじい兵器を見た-」
月曜日に放送のあったのを録画しておいて、翌日の昼間にゆっくりと見た。
第2集は、第一次世界大戦。
第一次世界大戦については、今の時点……二〇二一年、あるいは、番組の放送された一九九五年……からは、いろいろということができるだろう。ただ、この番組の作られた一九九五年の時点においては、何よりも、二〇世紀初頭の世界大戦が、映像に記録される戦争であったことを、強く物語るものであった。
騎兵による突撃からはじまった戦争は、やがて、塹壕戦になり、各種の新兵器を戦場に投入することになる。戦車であり、飛行船・飛行機であり、機関銃であり、毒ガスであったり。まさに、これらの兵器は、後の第二次大戦でつかわれることになり、戦争が軍隊、軍人によるものから、国家の総力戦へと変貌することになる。番組のなかで、これ以前の戦争の事例として、ナポレオンのことに言及があった。二〇世紀になって、戦争のあり方自体が大きく変わってきたことになる。
ところで、番組のなかでも言及のあった『西部戦線異状なし』(レマルク)であるが、これは、たしか高校生か大学生のころに読んだと覚えている。これは、今でも読もうと思えば読める。読みかえしてみたくなった。
それから、読んだ本で覚えているのが、『ヴィンター家の兄弟』という作品。たしか新潮文庫だったろうか。第一次大戦から第二次大戦にかけての、ドイツと英国に暮らした一家の物語であった。
ともあれ、戦争は歴史とともにある。どのような戦争を戦うことになるのか……国家の総力戦というものになってから、逆に、戦争のあり方が国家のあり方を決めるようになってきたといってもいいのだろう。それは、その後の第二次大戦を経て、今日の世界まで続いていることである。
戦争とメディアということであるならば、第一次世界大戦は、映像に残された戦争であった。同時に、それは、検閲ということも同時にともなっていた。さらには、その映像記録を今に残す努力というものもある。番組が、フランスにおける、フィルムアーカイブの紹介からはじまっていたのは、印象に残る。
この再放送は、次週も続く。続けて見ることにしよう。
2021年4月7日記
追記 2021-04-16
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月16日
映像の世紀(3)「それはマンハッタンから始まった」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/16/9367699
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月16日
映像の世紀(3)「それはマンハッタンから始まった」
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