『おかえりモネ』あれこれ「相手を知れば怖くない」 ― 2021-08-01
2021-08-01 當山日出夫(とうやまひでお)
『おかえりモネ』第11週「相手を知れば怖くない」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_11.html
前回は、
やまもも書斎記 2021年7月25日
『おかえりモネ』あれこれ「気象予報は誰のため?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/25/9401361
この週から、百音は気象予報士としてはたらきはじめた。そして、菅波と再会した。
見て思うこととしては、次の二点を書いてみる。
第一に、気象予報士としての仕事。
会社に採用になって、テレビ局で天気予報の番組にたずさわることになる。担当は、コサメちゃんと傘イルカくんである。が、天気予報の時間で、何を伝えるべきか、百音は考えることになる。夏である。水の事故のことを思って、その注意喚起にはげむ。しかし、それだけでは、視聴者に不満もあるようだ。
菅波と再会して後、リラックスして仕事に臨むようになった。これから<気象予報士として、何をどのように伝えていくべきなのか、さらなる試行錯誤の日々になるのだろう。
第二に、菅波とのこと。
コインランドリーで、ばったりと再会することになる。偶然にしては、できすぎているような気がしなくもない。連絡先を知っているのなら、今の自分の住まいの位置……お風呂やさんである……を教えてもいいようなものかと思うが、そうしないのが百音なのだろう。
ともあれ、久しぶりに菅波と会って話をすることができて、百音は仕事への展望が開けてきたようでもある。新人から一歩脱却することができた。
この後、菅波とのかかわりはどうなるのだろうか。
以上の二点のことなどが、思うことなどである。
それから、お風呂屋さんに住まいしている、もう一人の人物……宇田川さん……は、姿を見せることがあるのだろうか。なんとなく、家の中に妖怪がいるような雰囲気である。
次週、台風になるようだ。気象予報士として百音がどのような活躍をすることになるのか、楽しみに見ることにしよう。
2021年7月31日記
『おかえりモネ』第11週「相手を知れば怖くない」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_11.html
前回は、
やまもも書斎記 2021年7月25日
『おかえりモネ』あれこれ「気象予報は誰のため?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/25/9401361
この週から、百音は気象予報士としてはたらきはじめた。そして、菅波と再会した。
見て思うこととしては、次の二点を書いてみる。
第一に、気象予報士としての仕事。
会社に採用になって、テレビ局で天気予報の番組にたずさわることになる。担当は、コサメちゃんと傘イルカくんである。が、天気予報の時間で、何を伝えるべきか、百音は考えることになる。夏である。水の事故のことを思って、その注意喚起にはげむ。しかし、それだけでは、視聴者に不満もあるようだ。
菅波と再会して後、リラックスして仕事に臨むようになった。これから<気象予報士として、何をどのように伝えていくべきなのか、さらなる試行錯誤の日々になるのだろう。
第二に、菅波とのこと。
コインランドリーで、ばったりと再会することになる。偶然にしては、できすぎているような気がしなくもない。連絡先を知っているのなら、今の自分の住まいの位置……お風呂やさんである……を教えてもいいようなものかと思うが、そうしないのが百音なのだろう。
ともあれ、久しぶりに菅波と会って話をすることができて、百音は仕事への展望が開けてきたようでもある。新人から一歩脱却することができた。
この後、菅波とのかかわりはどうなるのだろうか。
以上の二点のことなどが、思うことなどである。
それから、お風呂屋さんに住まいしている、もう一人の人物……宇田川さん……は、姿を見せることがあるのだろうか。なんとなく、家の中に妖怪がいるような雰囲気である。
次週、台風になるようだ。気象予報士として百音がどのような活躍をすることになるのか、楽しみに見ることにしよう。
2021年7月31日記
追記 2021年8月8日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年8月8日
『おかえりモネ』あれこれ「あなたのおかげで」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/08/9406311
この続きは、
やまもも書斎記 2021年8月8日
『おかえりモネ』あれこれ「あなたのおかげで」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/08/9406311
『本当の翻訳の話をしよう 増補版』村上春樹・柴田元幸 ― 2021-08-02
2021-08-02 當山日出夫(とうやまひでお)

村上春樹・柴田元幸.『本当の翻訳の話をしよう 増補版』(新潮文庫).新潮社.2021 (スイッチ・パブリッシング.2019)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100176/
以前に『本当の翻訳の話をしよう』として出ていた本を、大幅に増補して文庫にしたものである。
村上春樹の本は、そのほとんどを読んでいるつもりだが、この本はまだ読んでいなかった。他に、翻訳で未読のものがかなりあるのだが。
手に取って、ほぼ一気に読んでしまった。この本は、気楽に読めるように編集してあるが、なかなか興味深い内容である。
第一に、翻訳論として。
柴田元幸はいうまでもなく、村上春樹もまた翻訳の仕事を多くしている。このふたりは、他の翻訳関係の本も出していたりする。が、ともに翻訳家として、現代文学、特に、アメリカの現代文学の翻訳については、重要な位置をしめることになる。
その二人の語った翻訳論として読んで、面白い。究極的には、翻訳は可能か……このような問いがどうしてもつきまとうことになるのだが、これに対しては、肯定的に考えている。言語による表現である以上、それは、他の言語におきかえることは、不可能ではないというのが、両者の立場である。
第二、村上春樹の小説論として。
無論、村上春樹は小説家である。その小説家の目で、本を読み、また、翻訳をしている。ところどころに見られる、小説家としての村上春樹ならではの発言が面白い。なるほど、このようなものの考え方で、小説家の村上春樹は作品を書いているのか。あるいは、村上春樹は、こんな本を読んできたのか、いろいろと興味のたねはつきない。
以上の二点のことを思って見る。
この本を読んで、翻訳で文学を読むのも、そう悪いものではないな……今更ではあるが……と、思うようになった。また、近代の日本文学が、翻訳から多大の影響をうけていることが、実感される内容にもなっている。
私の専門領域……国語学、日本語学ということになるが……とのかかわりでいうならば、柴田元幸の「日本翻訳史 明治編」は、よくできている。近代日本の翻訳、文体、語彙などの成立事情について、非常に分かりやすく、しかも、学問的な基本をふまえてまとめてある。このあたりなどは、日本語学を専門に勉強しようという学生が読んでも、かなり参考になるところだと感じる。
さて、前期授業も終わりである。レポートの採点はあるのだが、夏は夏でまとまって本を読みたい。ここは、新潮文庫の村上柴田翻訳堂のシリーズを読んでみようかという気がしてきている。このシリーズ、以前にそのいくつかを手にしたことはあるのだが、全部は読んでいない。この機会に、あらためて、全部を通読してみたいと思う。(他に、多和田葉子など読んでおきたいとも思っているのだが、さてどうなるか。)
2021年7月21日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/100176/
以前に『本当の翻訳の話をしよう』として出ていた本を、大幅に増補して文庫にしたものである。
村上春樹の本は、そのほとんどを読んでいるつもりだが、この本はまだ読んでいなかった。他に、翻訳で未読のものがかなりあるのだが。
手に取って、ほぼ一気に読んでしまった。この本は、気楽に読めるように編集してあるが、なかなか興味深い内容である。
第一に、翻訳論として。
柴田元幸はいうまでもなく、村上春樹もまた翻訳の仕事を多くしている。このふたりは、他の翻訳関係の本も出していたりする。が、ともに翻訳家として、現代文学、特に、アメリカの現代文学の翻訳については、重要な位置をしめることになる。
その二人の語った翻訳論として読んで、面白い。究極的には、翻訳は可能か……このような問いがどうしてもつきまとうことになるのだが、これに対しては、肯定的に考えている。言語による表現である以上、それは、他の言語におきかえることは、不可能ではないというのが、両者の立場である。
第二、村上春樹の小説論として。
無論、村上春樹は小説家である。その小説家の目で、本を読み、また、翻訳をしている。ところどころに見られる、小説家としての村上春樹ならではの発言が面白い。なるほど、このようなものの考え方で、小説家の村上春樹は作品を書いているのか。あるいは、村上春樹は、こんな本を読んできたのか、いろいろと興味のたねはつきない。
以上の二点のことを思って見る。
この本を読んで、翻訳で文学を読むのも、そう悪いものではないな……今更ではあるが……と、思うようになった。また、近代の日本文学が、翻訳から多大の影響をうけていることが、実感される内容にもなっている。
私の専門領域……国語学、日本語学ということになるが……とのかかわりでいうならば、柴田元幸の「日本翻訳史 明治編」は、よくできている。近代日本の翻訳、文体、語彙などの成立事情について、非常に分かりやすく、しかも、学問的な基本をふまえてまとめてある。このあたりなどは、日本語学を専門に勉強しようという学生が読んでも、かなり参考になるところだと感じる。
さて、前期授業も終わりである。レポートの採点はあるのだが、夏は夏でまとまって本を読みたい。ここは、新潮文庫の村上柴田翻訳堂のシリーズを読んでみようかという気がしてきている。このシリーズ、以前にそのいくつかを手にしたことはあるのだが、全部は読んでいない。この機会に、あらためて、全部を通読してみたいと思う。(他に、多和田葉子など読んでおきたいとも思っているのだが、さてどうなるか。)
2021年7月21日記
『野呂邦暢ミステリ集成』野呂邦暢 ― 2021-08-03
2021-08-03 當山日出夫(とうやまひでお)

野呂邦暢.『野呂邦暢ミステリ集成』(中公文庫).中央公論新社.2020
https://www.chuko.co.jp/bunko/2020/10/206979.html
野呂邦暢を読んでおきたくなって手にした。ミステリ……これはかなり広義にとらえた方がいいだろう……関連の作品をあつめてある。
読んで思うことは、なるほどかつてはこのような時代があったなあ、ということになる。「推理小説」という形式の文学が、戦後の日本のなかで、広く受容されるようになったころ……それを代表するのが、松本清張のころといっていいと思うが……の作品といっていいのだろう。今から読むならば、このアンソロジーの作品は、どことなく古めかしい。
今、新しい時代の小説家が、ミステリに手をつけるとなると、もうちょっと違ったアプローチをするだろうと思う。だが、これはこれで、時代のなかにおいて考えるべきことになるだろう。
そうはいっても、これはいいと思ったのが、「剃刀」という作品。小品だが、切れ味のいい作品にしあがっている。
野呂邦暢の作品は、他にも今でも読めるものがいくつかある。これから折りを見て読んでみようかと思う。
2021年7月27日記
https://www.chuko.co.jp/bunko/2020/10/206979.html
野呂邦暢を読んでおきたくなって手にした。ミステリ……これはかなり広義にとらえた方がいいだろう……関連の作品をあつめてある。
読んで思うことは、なるほどかつてはこのような時代があったなあ、ということになる。「推理小説」という形式の文学が、戦後の日本のなかで、広く受容されるようになったころ……それを代表するのが、松本清張のころといっていいと思うが……の作品といっていいのだろう。今から読むならば、このアンソロジーの作品は、どことなく古めかしい。
今、新しい時代の小説家が、ミステリに手をつけるとなると、もうちょっと違ったアプローチをするだろうと思う。だが、これはこれで、時代のなかにおいて考えるべきことになるだろう。
そうはいっても、これはいいと思ったのが、「剃刀」という作品。小品だが、切れ味のいい作品にしあがっている。
野呂邦暢の作品は、他にも今でも読めるものがいくつかある。これから折りを見て読んでみようかと思う。
2021年7月27日記
ハコネウツギ ― 2021-08-04
2021-08-04 當山日出夫(とうやまひでお)
水曜日なので花の写真。今日はハコネウツギである。
前回は、
やまもも書斎記 2021年7月28日
ニワゼキショウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/28/9402336
このところ毎日暑い。昼間はとても外に出て写真を撮る気になれないでいる。これは、撮りおきのストックからである。
ハコネウツギの花である。毎年、春から初夏にかけて花をつける。この花の特徴は、なんといっても時間の経過とともに色が変わっていくところだろう。はじめは白い。それがほんのりと赤みがさしてくる。時間がたつと、ピンク色になる。これも、さらに時間がたつと、赤紫色になってくる。
はじめは楚々としてた可憐な雰囲気であるが、時の経過とともに、爛熟したとでもいうようになってくる。
この花のシーズンは、朝起きて、カメラと三脚を持って家を出て、写真にとる。日が昇りきらない、直射日光のあたらない時間帯がきれいに撮れる。これも、ほぼ毎日写していると、同じ花が、徐々に色の変わっていくのを観察することができる。
今、外に出て咲いている花といえば、露草ぐらいである。今年は、百日紅の花の咲くのが遅い。八月になったので、もうそろそろ例年通り赤い花を見ることができるだろうかと思っている。
水曜日なので花の写真。今日はハコネウツギである。
前回は、
やまもも書斎記 2021年7月28日
ニワゼキショウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/28/9402336
このところ毎日暑い。昼間はとても外に出て写真を撮る気になれないでいる。これは、撮りおきのストックからである。
ハコネウツギの花である。毎年、春から初夏にかけて花をつける。この花の特徴は、なんといっても時間の経過とともに色が変わっていくところだろう。はじめは白い。それがほんのりと赤みがさしてくる。時間がたつと、ピンク色になる。これも、さらに時間がたつと、赤紫色になってくる。
はじめは楚々としてた可憐な雰囲気であるが、時の経過とともに、爛熟したとでもいうようになってくる。
この花のシーズンは、朝起きて、カメラと三脚を持って家を出て、写真にとる。日が昇りきらない、直射日光のあたらない時間帯がきれいに撮れる。これも、ほぼ毎日写していると、同じ花が、徐々に色の変わっていくのを観察することができる。
今、外に出て咲いている花といえば、露草ぐらいである。今年は、百日紅の花の咲くのが遅い。八月になったので、もうそろそろ例年通り赤い花を見ることができるだろうかと思っている。
Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1
2021年8月3日記
プロジェクトX「翼はよみがえった(前編)」 ― 2021-08-05
2021-08-05 當山日出夫(とうやまひでお)
プロジェクトX 「翼はよみがえった 前編 YS-11開発」
プロジェクトX 「翼はよみがえった 前編 YS-11開発」
さすがにこの企画については、一回では放送しきれないということだったのだろう、前編、後編の放送である。前編を見て思うことをいささか。
YS-11の開発された当時のことは、おぼろげに覚えている。国産の旅客機ということで、マスコミなどでも大きく取り上げられたできごとであった。
このプロジェクトについては、(前編を見たところで)思うことを二つばかり書いてみる。
第一には、戦前からの飛行機技術の継承。
ゼロから設計したということではない。そこには、戦前、戦中の、飛行機……戦闘機ということになるが……飛燕であり零戦である……の設計、開発にたずさわった人たちの力があった。中には、堀越二郎……『風立ちぬ」を思い出してしまう……も、加わっていた。
日本の近代史をふりかえるとき、昭和二〇年の敗戦ですべてゼロになったわけではない。そこには、戦前、戦中からの積み重ねの延長に、日本の復興があったことになる。
第二には、政治とのかかわり。
飛行機の開発となるとどうしても技術のことに目がむきがちかもしれないが、それ以上に重要なのが政治とのかかわりである。戦後、進駐軍のいた時代には飛行機を独自に作ることはできなかった。
また、それが可能になってからでも、巨額の投資を必要とする飛行機開発に、そう簡単に政治が動くわけでもない。そこには、政治を動かすための、また別の努力と工夫が必要である。
以上の二点のことを思ってみる。
しかし、今の日本で、YS-11の後継機となる、国産旅客機の開発は、途中でとまったままである。COVID-19による航空需要のおちこみ、さらには、世界的な潮流である脱炭素がある。はたして、国産の旅客機の開発の、さらなる夢はかなうのであろうか。あるいは、すでにもうこれは単なる夢にすぎないのかもしれない。
次回は、東條輝雄を軸とした物語になるようだ。楽しみに見ることにしよう。
2021年8月4日記
追記 2021年8月13日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年8月13日
プロジェクトX「翼はよみがえった(後編)」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/13/9409193
この続きは、
やまもも書斎記 2021年8月13日
プロジェクトX「翼はよみがえった(後編)」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/13/9409193
100分de名著「ボーヴォワール 老い」上野千鶴子 ― 2021-08-06
2021-08-06 當山日出夫(とうやまひでお)

上野千鶴子.『100分de名著 ボーヴォワール 老い』.NHK出版.2021
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000062231272021.html
このシリーズ、テレビ番組を見るということはないのであるが、テキストの方は時々買って読んでいる。二〇二一年七月は、ボーヴォワールの『老い』であった。
ボーヴォワールは、いうまでもなく『第二の性』が有名。私の学生のころ、文庫本で読めた。(ただ、手にとったことはあると思うのだが、その読者ということはなく、今にいたってしまっている。フェミニズムについては、その重要性についての認識は持っているつもりだが、自分の研究のなかで特に言及することもなく、過ぎてしまっている。)
もし、社会が成人男性を軸に構成されているとするならば……そこから疎外されているのは、女性であり、子どもあり、そして、老人だろう。『第二の性』の著者が、『老い』ということに向かうことには、それなりの必然を感じる。
次のような構成になっている。
老いは不意打ちである
老いに直面した人びと
老いと性
役に立たなきゃ生きてちゃいかんか!
このような各章のタイトルを見ると、なるほど上野千鶴子の書いた本だなという印象をうける。
ところで、私も、もう老人といっていいだろう。仕事の方は、なかば引退したような形にしている。最低限、教えに出ることはあるが、それも可能な限り少なくしている。もう、本を作ったり、論文で何かを論じたりという気もおこらない。ただ、自分の好きな本を読んで、そして、空いた時間には、外に出て草花の写真をとっている。
年を取るということは、徐々に進行するものである。と同時に、ふとしたことで、閾値を超えて、もう老人だなと実感するところもある。
昨年からのCOVID-19の影響で、大学の授業がオンラインを基本とすることになってしまった。そこで、新しいシステムを使いこなしてのオンライン授業にチャレンジすることもできたかもしれない。が、その気にならないで時間が過ぎてしまった。自分の使える時間を、新しいことのチャレンジにつかうよりは、本を読むことにつかいたいと……強いて、考えるならば、この選択のなかで、本の方を選んだことになる。(これは、たまたま、教えている科目が、日本語の文字や表記の歴史的な側面にかかわることであったので、文章に書いたものを提示して、それにレポートなどを書いてくる、この方式で、十分に対応できるものであったということもあるのだが。)
基本的に、規則正しく同じ生活を送っている。毎週、毎日、NHKの大河ドラマを見て、朝ドラを見て、思ったことなど書いてみたりしている。外に出て、花の写真を撮って、週に一回は、それをこのブログに載せるようにしている。その他は、読んだ本のことなどである。
COVID-19の影響のなかで、いつの間にか、老人への閾値を超えてしまったと実感するところがある。もう、無理に、若くあろうとする必要もないと思う。といって、老け込んでしまうこともないのであるが。老人には老人の生き方があるであろう。私の場合であれば、余生の時間をつかって、本を読むことをつづけていきたい。
どれだけ読めるか分からないが、古典、文学……広義に、歴史や哲学までをふくめて……を読むことに時間をつかって生きていきたいと思う。(それにしても、今では『第二の性』が普通に手にはいらなくなっているようだが、できればこれも再度手にしてみたい本の一つである。)
2021年7月27日記
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000062231272021.html
このシリーズ、テレビ番組を見るということはないのであるが、テキストの方は時々買って読んでいる。二〇二一年七月は、ボーヴォワールの『老い』であった。
ボーヴォワールは、いうまでもなく『第二の性』が有名。私の学生のころ、文庫本で読めた。(ただ、手にとったことはあると思うのだが、その読者ということはなく、今にいたってしまっている。フェミニズムについては、その重要性についての認識は持っているつもりだが、自分の研究のなかで特に言及することもなく、過ぎてしまっている。)
もし、社会が成人男性を軸に構成されているとするならば……そこから疎外されているのは、女性であり、子どもあり、そして、老人だろう。『第二の性』の著者が、『老い』ということに向かうことには、それなりの必然を感じる。
次のような構成になっている。
老いは不意打ちである
老いに直面した人びと
老いと性
役に立たなきゃ生きてちゃいかんか!
このような各章のタイトルを見ると、なるほど上野千鶴子の書いた本だなという印象をうける。
ところで、私も、もう老人といっていいだろう。仕事の方は、なかば引退したような形にしている。最低限、教えに出ることはあるが、それも可能な限り少なくしている。もう、本を作ったり、論文で何かを論じたりという気もおこらない。ただ、自分の好きな本を読んで、そして、空いた時間には、外に出て草花の写真をとっている。
年を取るということは、徐々に進行するものである。と同時に、ふとしたことで、閾値を超えて、もう老人だなと実感するところもある。
昨年からのCOVID-19の影響で、大学の授業がオンラインを基本とすることになってしまった。そこで、新しいシステムを使いこなしてのオンライン授業にチャレンジすることもできたかもしれない。が、その気にならないで時間が過ぎてしまった。自分の使える時間を、新しいことのチャレンジにつかうよりは、本を読むことにつかいたいと……強いて、考えるならば、この選択のなかで、本の方を選んだことになる。(これは、たまたま、教えている科目が、日本語の文字や表記の歴史的な側面にかかわることであったので、文章に書いたものを提示して、それにレポートなどを書いてくる、この方式で、十分に対応できるものであったということもあるのだが。)
基本的に、規則正しく同じ生活を送っている。毎週、毎日、NHKの大河ドラマを見て、朝ドラを見て、思ったことなど書いてみたりしている。外に出て、花の写真を撮って、週に一回は、それをこのブログに載せるようにしている。その他は、読んだ本のことなどである。
COVID-19の影響のなかで、いつの間にか、老人への閾値を超えてしまったと実感するところがある。もう、無理に、若くあろうとする必要もないと思う。といって、老け込んでしまうこともないのであるが。老人には老人の生き方があるであろう。私の場合であれば、余生の時間をつかって、本を読むことをつづけていきたい。
どれだけ読めるか分からないが、古典、文学……広義に、歴史や哲学までをふくめて……を読むことに時間をつかって生きていきたいと思う。(それにしても、今では『第二の性』が普通に手にはいらなくなっているようだが、できればこれも再度手にしてみたい本の一つである。)
2021年7月27日記
『ボロ家の春秋』梅崎春生 ― 2021-08-07
2021-08-07 當山日出夫(とうやまひでお)

梅崎春生.『ボロ屋の春秋』(中公文庫).中央公論新社.2021
https://www.chuko.co.jp/bunko/2021/06/207075.html
梅崎春生という作家は、名前は知っていたが、それと意識して作品集を読むのは、はじめてになる。
文庫本の解説(荻原魚雷)によれば、「ボロ家の春秋」という作品は、これまでに何度か文庫本で刊行されてきているらしい。この中公文庫版は、その何度目かの文庫ということになる。
読んでみて……はっきりいって、あまり感心しない、というのが正直なところ。といって、面白くないというのではない。ただ、小説の書き方として、あるいは、題材として、ちょっと古めかしいのである。このような小説が書かれ、読まれていた時代が、昔はあったのだ、という気持ちで読むことになる。
とはいえ、「ボロ家の春秋」は直木賞受賞作である。そう思って読むせいかもしれないが、それなりの面白さはある。だが、今の時代に、広く読まれる小説の面白さとは、ちょっと違うかな、という気がしてならない。
ただ、読んで損をしたという気にはならない。こういう文学もあるのだな、と思いながら読んだ。
文学史的には、どう位置づけることになるのか。市井の人びとの、ちょっと変わった日常を描き出す、とでもいうことになるのだろう。この意味では、この作品の系譜は、今につづくものであるといえるだろう。
2021年7月27日記
https://www.chuko.co.jp/bunko/2021/06/207075.html
梅崎春生という作家は、名前は知っていたが、それと意識して作品集を読むのは、はじめてになる。
文庫本の解説(荻原魚雷)によれば、「ボロ家の春秋」という作品は、これまでに何度か文庫本で刊行されてきているらしい。この中公文庫版は、その何度目かの文庫ということになる。
読んでみて……はっきりいって、あまり感心しない、というのが正直なところ。といって、面白くないというのではない。ただ、小説の書き方として、あるいは、題材として、ちょっと古めかしいのである。このような小説が書かれ、読まれていた時代が、昔はあったのだ、という気持ちで読むことになる。
とはいえ、「ボロ家の春秋」は直木賞受賞作である。そう思って読むせいかもしれないが、それなりの面白さはある。だが、今の時代に、広く読まれる小説の面白さとは、ちょっと違うかな、という気がしてならない。
ただ、読んで損をしたという気にはならない。こういう文学もあるのだな、と思いながら読んだ。
文学史的には、どう位置づけることになるのか。市井の人びとの、ちょっと変わった日常を描き出す、とでもいうことになるのだろう。この意味では、この作品の系譜は、今につづくものであるといえるだろう。
2021年7月27日記
『おかえりモネ』あれこれ「あなたのおかげで」 ― 2021-08-08
2021-08-08 當山日出夫(とうやまひでお)
『おかえりモネ』第12週「あなたのおかげで」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_12.html
前回は、
やまもも書斎記 2021年8月1日
『おかえりモネ』あれこれ「相手を知れば怖くない」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/01/9403537
さて、菅波にはどんな過去があるというのだろうか。
この週のポイントとしては、次の二点かと思う。
第一に、台風。
百音の故郷の東北に、太平洋側から台風が上陸することになった。きわめて希なケースである。その予報に、百音はちからをつくす。故郷の亀島のみんなも、協力してくれたようで、なんとか台風を乗り切れたようだ。このことに百音は安堵する。
第二に、スポーツ気象。
車椅子マラソンランナーの鮫島が、百音たちの会社にきて、サポートを要請する。それを、朝岡は引き受けることになる。このことの背景には、かつての朝岡の学生時代の苦い思い出があってのことである。
スポーツにも気象情報が重要な意味を持つことを認識することになった。
以上の二つのことを思ってみる。
そして、何よりも気がかりなのは、菅沼のいったことば……あなたのおかげで助かりました、このことばは、麻薬である、と。そもそも、人のために何かをするということには、どういう意味があるのであろうか。ここのところに菅沼は、根本から疑問を投げかけているようである。
オリンピックにも関係なく、BSモネ、朝モネは、いつもどおりの放送であった。8月6日に、放送時間が変わるのは、これは毎年のことである。ただ、昼モネが、時々放送時間が変更になったりするので、見損ねている場合があったりする。それも、この週で終わりである。
次週、車椅子マラソンのことで話題は展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。
2021年8月7日記
『おかえりモネ』第12週「あなたのおかげで」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_12.html
前回は、
やまもも書斎記 2021年8月1日
『おかえりモネ』あれこれ「相手を知れば怖くない」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/01/9403537
さて、菅波にはどんな過去があるというのだろうか。
この週のポイントとしては、次の二点かと思う。
第一に、台風。
百音の故郷の東北に、太平洋側から台風が上陸することになった。きわめて希なケースである。その予報に、百音はちからをつくす。故郷の亀島のみんなも、協力してくれたようで、なんとか台風を乗り切れたようだ。このことに百音は安堵する。
第二に、スポーツ気象。
車椅子マラソンランナーの鮫島が、百音たちの会社にきて、サポートを要請する。それを、朝岡は引き受けることになる。このことの背景には、かつての朝岡の学生時代の苦い思い出があってのことである。
スポーツにも気象情報が重要な意味を持つことを認識することになった。
以上の二つのことを思ってみる。
そして、何よりも気がかりなのは、菅沼のいったことば……あなたのおかげで助かりました、このことばは、麻薬である、と。そもそも、人のために何かをするということには、どういう意味があるのであろうか。ここのところに菅沼は、根本から疑問を投げかけているようである。
オリンピックにも関係なく、BSモネ、朝モネは、いつもどおりの放送であった。8月6日に、放送時間が変わるのは、これは毎年のことである。ただ、昼モネが、時々放送時間が変更になったりするので、見損ねている場合があったりする。それも、この週で終わりである。
次週、車椅子マラソンのことで話題は展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。
2021年8月7日記
追記 2021年8月15日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年8月15日
『おかえりモネ』あれこれ「風を切って進め」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/15/9410166
この続きは、
やまもも書斎記 2021年8月15日
『おかえりモネ』あれこれ「風を切って進め」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/15/9410166
『姫君を喰う話』宇能鴻一郎 ― 2021-08-09
2021-08-09 當山日出夫(とうやまひでお)

宇能鴻一郎.『姫君を喰う話-宇能鴻一郎傑作短篇集-』(新潮文庫).新潮社.2011
https://www.shinchosha.co.jp/book/103051/
宇能鴻一郎の名前は若くより知っていた。芥川賞を取ったことも知ってはいた。が、その読者ということもなく、今にいたっている。それは、私が読む本の範囲に、いわゆる官能小説がないということもある。
この文庫本には、次の作品を収録する。
姫君を喰う話
鯨神
花魁小桜の足
西洋祈りの女
ズロース挽歌
リソペディオンの呪い
このうち、「鯨神」は芥川賞作品である。(この作品名、「くじらがみ」と読むらしい。私の感覚としては、作品名としては「げいしん」と読みたい気がする。)
どれも面白い。読み始めてすぐに、その作品世界の中にはいっていく。ひきずりこまれる。圧倒的な文章力とでもいえばいいのだろうか。とにかく、いっきに作品のなかに没入する感覚がある。
そして、描かれるのは、「生」と「死」、それから「性」である。どれも人間の最も根源的なところに位置する何かである。それを、これらの作品はえぐり出している。そして、しいていうならば、土俗性とでもいうのだろうか、人間が大地と自然のなかで生きている息づかいが聞こえてくるようである。傑作ぞろいといってよい。
ただ、はっきりいって、この文庫本が出て手にするまで、宇能鴻一郎が存命の作家であることを知らなかった。かなりの高齢になるのだが、それでも創作の意欲は衰えないようだ。収録の作品のなかには、近年まで手を入れたものもふくまれている。
夏の暑い日、思わず読書にのめりこむという体験を久々にした。文章の迫力にひきこまれる体験のできる本である。これぞ文学といっていいだろう。
2021年8月8日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/103051/
宇能鴻一郎の名前は若くより知っていた。芥川賞を取ったことも知ってはいた。が、その読者ということもなく、今にいたっている。それは、私が読む本の範囲に、いわゆる官能小説がないということもある。
この文庫本には、次の作品を収録する。
姫君を喰う話
鯨神
花魁小桜の足
西洋祈りの女
ズロース挽歌
リソペディオンの呪い
このうち、「鯨神」は芥川賞作品である。(この作品名、「くじらがみ」と読むらしい。私の感覚としては、作品名としては「げいしん」と読みたい気がする。)
どれも面白い。読み始めてすぐに、その作品世界の中にはいっていく。ひきずりこまれる。圧倒的な文章力とでもいえばいいのだろうか。とにかく、いっきに作品のなかに没入する感覚がある。
そして、描かれるのは、「生」と「死」、それから「性」である。どれも人間の最も根源的なところに位置する何かである。それを、これらの作品はえぐり出している。そして、しいていうならば、土俗性とでもいうのだろうか、人間が大地と自然のなかで生きている息づかいが聞こえてくるようである。傑作ぞろいといってよい。
ただ、はっきりいって、この文庫本が出て手にするまで、宇能鴻一郎が存命の作家であることを知らなかった。かなりの高齢になるのだが、それでも創作の意欲は衰えないようだ。収録の作品のなかには、近年まで手を入れたものもふくまれている。
夏の暑い日、思わず読書にのめりこむという体験を久々にした。文章の迫力にひきこまれる体験のできる本である。これぞ文学といっていいだろう。
2021年8月8日記
『歴史が後ずさりするとき』ウンベルト・エーコ ― 2021-08-10
2021-08-10 當山日出夫(とうやまひでお)

ウンベルト・エーコ.リッカルド・アマディ(訳).『歴史が後ずさりするとき-熱い戦争とメディア-』(岩波現代文庫).岩波書店.2021 (岩波書店.2013)
https://www.iwanami.co.jp/book/b577711.html
エーコの本であるが、単行本が出たときに買いそびれていたものである。岩波現代文庫版で出たので、買って読んでみた。
読んで思うことは、次の二点を書いてみたい。
第一には、PCということ。
PC(政治的な正しさ)については、さまざまに議論がある。一律に、こうすればよいと結論を得ることはむずかしい。いや、PCというのは、むしろそのような精神、知性のあり方の問題かもしれない。ただ、こうすればよいという正解を求めるのではなく、どのように生きてゆきたいのか、どのような社会であるべきか、反省と希望をこめた、人間社会のいとなみそのものであるのかとも思う。
この本は、エッセイ集というべき編集になっているのだが、その編集された章のいくつかは、PCについて言及がある。読んで、なるほど、このような知性のあり方が、PCというものなのかと納得するところがある。ただ、こうすればよいという答えがあるのではなく、なぜそうしなければならないのか、そのよってきたるところを、根源的に問いかけるところがある。
第二には、科学と技術ということ。
日本語で「科学技術」ということばで、ひとまとりにしてしまうことが多い。それを、著者は、厳格に区別してる。「科学」と「技術」は別物であると明確にいいきっている。これは、日常的に「科学技術」という概念で日本語のなかで生活しているものにとっては、かなりインパクトのある発言である。
科学と技術を分けて考えることこそ、科学的なものの考え方につながるといってもいいのだろう。
以上の二点のことを思って見る。
総合的な読後感としては、強靱な、そしてしなやかであり、また、緻密な知性のあり方というものを、強く感じる本である。この本はエッセイ集として、時評という側面もある。中近東の紛争、また、EUにおける移民の問題、このような時事的な問題をふまえながらも、時として、視線は第二次世界大戦、ヒトラーやムッソリーニのことにまでおよぶ。大きな歴史のながれを、良心的かつ冷静に見る姿勢には、思わず読んでいて襟を正す、あるいは、読みふけってしまうところがある。
今の日本で、このような知性の持ち主がいるだろうか。(私の読んだことの範囲では、少し古くなるが、林達夫のことなどを思い出すことになる。)文庫本としては、ちょっと分量があるが、しかし、じっくりと読む価値のある本である。
2021年7月21日記
https://www.iwanami.co.jp/book/b577711.html
エーコの本であるが、単行本が出たときに買いそびれていたものである。岩波現代文庫版で出たので、買って読んでみた。
読んで思うことは、次の二点を書いてみたい。
第一には、PCということ。
PC(政治的な正しさ)については、さまざまに議論がある。一律に、こうすればよいと結論を得ることはむずかしい。いや、PCというのは、むしろそのような精神、知性のあり方の問題かもしれない。ただ、こうすればよいという正解を求めるのではなく、どのように生きてゆきたいのか、どのような社会であるべきか、反省と希望をこめた、人間社会のいとなみそのものであるのかとも思う。
この本は、エッセイ集というべき編集になっているのだが、その編集された章のいくつかは、PCについて言及がある。読んで、なるほど、このような知性のあり方が、PCというものなのかと納得するところがある。ただ、こうすればよいという答えがあるのではなく、なぜそうしなければならないのか、そのよってきたるところを、根源的に問いかけるところがある。
第二には、科学と技術ということ。
日本語で「科学技術」ということばで、ひとまとりにしてしまうことが多い。それを、著者は、厳格に区別してる。「科学」と「技術」は別物であると明確にいいきっている。これは、日常的に「科学技術」という概念で日本語のなかで生活しているものにとっては、かなりインパクトのある発言である。
科学と技術を分けて考えることこそ、科学的なものの考え方につながるといってもいいのだろう。
以上の二点のことを思って見る。
総合的な読後感としては、強靱な、そしてしなやかであり、また、緻密な知性のあり方というものを、強く感じる本である。この本はエッセイ集として、時評という側面もある。中近東の紛争、また、EUにおける移民の問題、このような時事的な問題をふまえながらも、時として、視線は第二次世界大戦、ヒトラーやムッソリーニのことにまでおよぶ。大きな歴史のながれを、良心的かつ冷静に見る姿勢には、思わず読んでいて襟を正す、あるいは、読みふけってしまうところがある。
今の日本で、このような知性の持ち主がいるだろうか。(私の読んだことの範囲では、少し古くなるが、林達夫のことなどを思い出すことになる。)文庫本としては、ちょっと分量があるが、しかし、じっくりと読む価値のある本である。
2021年7月21日記
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