「世紀の歴史裁判 事実か?ねつ造か?〜歴史学者たちの闘い〜」2024-08-12

2024年8月12日 當山日出夫

ダークサイドミステリー
「世紀の歴史裁判 事実か?ねつ造か?〜歴史学者たちの闘い〜」

再放送である。二〇二二年の放送。

ナチによるユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストは、あったと考えるのが、まあ、普通の感覚だろう。その詳細や個別の具体的事情については、史料によって判断が分かれるところがあるかもしれないが、根本的に覆ることはないと思っている。

これが無かったことであるという主張をする人が現れるのは、見方によっては当然のことかもしれない。それについては、無視するか、あるいは、反論するか、ということになる。この番組の場合は、裁判で争ったというケースになる。

日本においても、『マルコポーロ』の廃刊の事件として、私の年代なら記憶していることだろう。

ただ、一般論になるが、専門的な知識や考え方を、どのように普通の人びとに伝えることができるか、ということになると難しい問題がある。専門家の専門知は尊重すべきであるという考え方のある一方で、そこに一般の市民の感覚を考慮しなければならない、という考え方もある。ただ、専門家は正しいことを言うからそれにしたがっているべきだ、では納得しない世の中になってきている。

これは、歴史学でもそうだろうし(最近の話題では、日本の中世の黒人の問題がある)、憲法についての問題もそうだし(憲法学者の言うことに従っていればいいというわけではないだろう)、経済の問題、さらには、COVID-19とか、原子力発電所、地震予知の問題など、その専門家の意見を聞くだけでは、なかなか社会的に合意の形成が難しい問題がある。

私が専門的に分かる範囲……日本語の歴史、そのなかでも文字とか表記の問題になるが……においても、通説、俗説が、世の中にたくさんある。いちいち反論するなど、面倒というのが、専門家として思うことなのである。そのうち淘汰されてなくなるだろうとは思っていても、しつこく残っている。まあ、漢字についての俗説など、特に社会に害悪をおよぼすようなものではないから、ほうっておいてもいいようなものかもしれないけれど。

時々、忘れたころに起こる現象として、古代の日本語は朝鮮語で理解できる、『古事記』や『万葉集』は本当はこんなことが書いてあった……という類いの珍説が出ることがある。若いころ、その一つを買って読んでみて、その当時の私の知識としても、間違ったことが書いていないページが無かった、と憶えている。どこが間違っているか、大学院生とでも一緒に読んでみると面白いかもしれないと、感じたものである。

なお、言論の自由とのかねあいでは、かなり難しい問題でもある。いわゆる歴史修正主義という発言について、言論弾圧のようなことはさしひかえるべきだと私は思う。公的な権力による弾圧だけではなく、出版社に対する脅迫なども、懸念される。(これは、つい最近も日本であったばかりである。)それから、図書館における禁書(これは日本ではあまりないことかと思うが)も、考えなければならないことかとも思っている。

今日、インターネット、特にSNSで、デマ情報が拡散する時代である。表現のあり方が、非常に難しくなってきていることは確かである。それでどうすべきかということについて、確たる考えがあるわけではないのだけれど。

この番組の趣旨に沿って確認するならば、ホロコーストがあったということが、「歴史的に真実」であるとするとして、では、何故わたしたちはそれをそのような知識として知っていて、信じているのだろうか、その根底を考えてみる必要はあるにちがいない。これは、歴史学というよりも、哲学の問題になるだろうが。

2024年8月8日記