BSスペシャル「国家に刻まれた“トラウマ”〜シリア 再建への日々〜」 ― 2025-07-16
2025年7月16日 當山日出夫
BSスペシャル 国家に刻まれた“トラウマ”〜シリア 再建への日々〜
見ていて、作り方がなんだか姑息だなあ、と感じた。
なんでもかんでも、シリアの問題は、アサド政権が悪かったからである、ということで、善悪を二分して考えて、それで説明してしまう、その結果として、今現在困った側にいる人のことを、それを正義の主張としてとりあげる……これは、たしかに分かりやすくはあるのだが、人間というもの、歴史というものへの深い洞察があってのこととは感じられない。
もちろんアサド政権のもとでの、拷問や虐殺は批判されなければならない。
だが、密告はどうなのだろうか。そんなに単純に、密告者=悪者、と言っていいのだろうか。(おそらく今の世界で、密告者の存在を気にしなくて生きていけるのは、日本をふくめてかなり少数の国や地域といっていいのかもしれないとさえ思うのだが、はたしてどうだろうか。)
ここでジャーナリズムが問いかけるべきは、では、なぜ、その人物は密告ということをしたのか、その社会的、歴史的、文化的な、いろんな背景についてであるはずである。
取材していたのが、ダマスカスの大学ということに限定的であった。これは、取材のときの安全ということを考えてのこともあるだろうが、本当に知りたいと思うのは、大学生というこの国のエリートたちではなく、普通の人びとの生活の感覚である。そこには、多様な、宗教や、民族や、人種など、いろんな要素がいりまじった世界があるはずである。それを、ただ、昔は、みんな仲よくしていたのに、アサド政権のせいで戦乱になってしまった、というのは、いくらなんでもストーリーとして単純すぎる。
シリアという国民国家を前提として考えることが、将来的にどれだけ妥当なのか、ということもあるはずだが、これを言いだすと、シリアという国をふくめて周辺の地域の歴史を広範囲にさかのぼって考えなければならなくなるので、わざと無視したということだろう。
NHKの国際報道は、こんなレベルの番組しか作れなくなった、とは思いたくないのであるけれど。
2025年7月12日記
BSスペシャル 国家に刻まれた“トラウマ”〜シリア 再建への日々〜
見ていて、作り方がなんだか姑息だなあ、と感じた。
なんでもかんでも、シリアの問題は、アサド政権が悪かったからである、ということで、善悪を二分して考えて、それで説明してしまう、その結果として、今現在困った側にいる人のことを、それを正義の主張としてとりあげる……これは、たしかに分かりやすくはあるのだが、人間というもの、歴史というものへの深い洞察があってのこととは感じられない。
もちろんアサド政権のもとでの、拷問や虐殺は批判されなければならない。
だが、密告はどうなのだろうか。そんなに単純に、密告者=悪者、と言っていいのだろうか。(おそらく今の世界で、密告者の存在を気にしなくて生きていけるのは、日本をふくめてかなり少数の国や地域といっていいのかもしれないとさえ思うのだが、はたしてどうだろうか。)
ここでジャーナリズムが問いかけるべきは、では、なぜ、その人物は密告ということをしたのか、その社会的、歴史的、文化的な、いろんな背景についてであるはずである。
取材していたのが、ダマスカスの大学ということに限定的であった。これは、取材のときの安全ということを考えてのこともあるだろうが、本当に知りたいと思うのは、大学生というこの国のエリートたちではなく、普通の人びとの生活の感覚である。そこには、多様な、宗教や、民族や、人種など、いろんな要素がいりまじった世界があるはずである。それを、ただ、昔は、みんな仲よくしていたのに、アサド政権のせいで戦乱になってしまった、というのは、いくらなんでもストーリーとして単純すぎる。
シリアという国民国家を前提として考えることが、将来的にどれだけ妥当なのか、ということもあるはずだが、これを言いだすと、シリアという国をふくめて周辺の地域の歴史を広範囲にさかのぼって考えなければならなくなるので、わざと無視したということだろう。
NHKの国際報道は、こんなレベルの番組しか作れなくなった、とは思いたくないのであるけれど。
2025年7月12日記
時をかけるテレビ「魔性の難問〜リーマン予想・天才たちの闘い〜」 ― 2025-07-16
2025年7月16日 當山日出夫
時をかけるテレビ 魔性の難問〜リーマン予想・天才たちの闘い〜
科学番組を面白く作るということは、かなり難しいと思っている。エンタテイメントとして味付けすればいいというものではなく、見ている人の知的好奇心……そういうものを持っている人を相手にしてということにはなってしまうが……に、強く訴えかけるところが必要である。
自然科学、特に、宇宙や野生生物などについての番組であれば、映像で見せることもできる。しかし、映像の美しさの向こうにいったい何があるのか……さらにその先への想像力をかきたてることこそ、本当に必要なことかと思っている。(この意味では、NHKの動物をあつかった番組では、「ウチのどうぶつえん」が一番面白い。身近な動物園のなかから、動物たちの世界、そして、人間とのかかわりを考えることになっている。)
この番組について思うことは、究極的に人間の知性が追求していく先にあるのは、この世界の根源、それは、宇宙の真理ともいうことができるかもしれないが、そこへ向かっていく飽くなき探究心である、ということになる。この番組のなかでは、おそらく意図的に使っていなかったのが、それは、神、であるのか、ということになる。数学者や宇宙物理学者が、絶対の神の存在を信じることは、その知的ないとなみと、けっして矛盾するものではない。
何よりも、人間の知的冒険心、探究心、これを描くと同時に、数学の世界の探究心は、論理と直感の世界であり、時として自分自身の精神の奥底まで見つめることになるものである、おそらくこれは、あらゆる人間の知的営為に共通するものであると思う。芸術であり、人文学であり、人間の精神の深いところから生まれてくるものである。数学もまたそうである。
いわゆる難しいとかということではなく、学問や芸術といった人間のいとなみが、精神の奥深くに響くものである、ということがまず何よりも大事なことである。そういう人間のあり方を尊重することが、基本である。これは、言いかえれば、テストの点数でははかることのできないものである。人間の知的探究心を試験で序列をつけようとするぐらい愚かなことはない。
自分はどう考えるのか、これは大事である。さらに、なぜ自分はそう考えるかと説明することもとても大切である。だが、もっとふみこんで、なぜ自分はそれを知りたいと思うのかは、その根源はおそらく語ることができないかもしれない。その知のみなもとこそ、もっとも重要なものである。
2025年7月13日記
時をかけるテレビ 魔性の難問〜リーマン予想・天才たちの闘い〜
科学番組を面白く作るということは、かなり難しいと思っている。エンタテイメントとして味付けすればいいというものではなく、見ている人の知的好奇心……そういうものを持っている人を相手にしてということにはなってしまうが……に、強く訴えかけるところが必要である。
自然科学、特に、宇宙や野生生物などについての番組であれば、映像で見せることもできる。しかし、映像の美しさの向こうにいったい何があるのか……さらにその先への想像力をかきたてることこそ、本当に必要なことかと思っている。(この意味では、NHKの動物をあつかった番組では、「ウチのどうぶつえん」が一番面白い。身近な動物園のなかから、動物たちの世界、そして、人間とのかかわりを考えることになっている。)
この番組について思うことは、究極的に人間の知性が追求していく先にあるのは、この世界の根源、それは、宇宙の真理ともいうことができるかもしれないが、そこへ向かっていく飽くなき探究心である、ということになる。この番組のなかでは、おそらく意図的に使っていなかったのが、それは、神、であるのか、ということになる。数学者や宇宙物理学者が、絶対の神の存在を信じることは、その知的ないとなみと、けっして矛盾するものではない。
何よりも、人間の知的冒険心、探究心、これを描くと同時に、数学の世界の探究心は、論理と直感の世界であり、時として自分自身の精神の奥底まで見つめることになるものである、おそらくこれは、あらゆる人間の知的営為に共通するものであると思う。芸術であり、人文学であり、人間の精神の深いところから生まれてくるものである。数学もまたそうである。
いわゆる難しいとかということではなく、学問や芸術といった人間のいとなみが、精神の奥深くに響くものである、ということがまず何よりも大事なことである。そういう人間のあり方を尊重することが、基本である。これは、言いかえれば、テストの点数でははかることのできないものである。人間の知的探究心を試験で序列をつけようとするぐらい愚かなことはない。
自分はどう考えるのか、これは大事である。さらに、なぜ自分はそう考えるかと説明することもとても大切である。だが、もっとふみこんで、なぜ自分はそれを知りたいと思うのかは、その根源はおそらく語ることができないかもしれない。その知のみなもとこそ、もっとも重要なものである。
2025年7月13日記
知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?「AIは人間を超えるか」 ― 2025-07-16
2025年7月16日 當山日出夫
知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!? AIは人間を超えるか
AI研究の現状と問題点を、肯定的な立場からになるが、よくまとめてあったと思う。見ながら思ったことを、思いつくままに書いてみる。
番組のなかで、ヘレン・ケラーのことがちょっとだけでてきていた。私は、世の中でパソコンというものが使われ始めたころから使っている。具体的には、NECのPC-9801である。このときから思っていたこととして、もし、ヘレン・ケラーの時代に、コンピュータがあったならば、彼女の活躍の場はもっとひろがっただろう。しかし、サリバン先生がいなければ、どうだっただろうか。そして、コンピュータがあっても、幼い目の見えない耳の聞こえない少女に、WATER、というものを教えることができるのだろうか。このことは、現在のAIの時代になっても変わらない。現在のAIで、同じような障害のある子どもに、WATER、を教えることができるだろうか。
これは、人間がものを知る、学ぶ、その感覚や知識と、身体性にかかかわる根本的な問題につながることだと思っている。
エピソードとして言及してあった、盲目の人が美術館に行くのが楽しみ、と言っているというのは、人間の感性と知性とはなんであるか、深く考えねばならないことになると思うことになる。
今から数十年前のことになるが、いわゆる脳死移植ということが世の中で話題になっていたことがある。このとき、人間が生きているということは何であるのか、という議論がさかんだった。議論のポイントとなったのが、意識があるかどうか、ということだった。脳死の人間は意識がない。意識の有無が、人間が生きていることのあかしである。意識のない人間は死んでいるのと同じである。だから、脳死の人から、臓器を取り出して移植しても、別に問題はない。こういう論理の是非をめぐるものだった。
これは、今、多くの人びとにはどう考えられているのだろうか。もし、AIが意識をもつということを想定できるならば、それは、人間と同じように生きているものと見なすことになる。そのAIを動かしている電源を切ることは、人間に対する殺人と同じことになる。こういう論理をうけいれざるをえなくなる。でなければ、AIの意識と人間の意識は違うものであると考えるか、あるいは、人間が生きていることの基盤を意識とは別のところにもとめることになるのか、である。そうなれば、根本的な、人間観の変革が迫られる。そのための準備、あるいは、覚悟を、今からしておくべきことになるだろう。
言語について、ただ、次に出てくることばを予測しているだけ、これが生成AIの基本である。ここで、LLMやディープラーニングについての簡単な説明があったことになる。
言語が人間の知性を作った。このように考えることもできることになる。だが、同時に、これは古風な構造主義的な言語観ではあるが、言語が世界を分節するという機能(あるいは、そのような現象というべきか)を、どう考えることになるのだろうか。よく知られた例では、言語によって虹の色は違って見える。ある色について、どういう色の名称でいうのかも異なる。物理的、生理的(眼のはたらき)には、色は人閒にとって同じであっても、言語や文化が違うと(これは脳のかかわる)、違った分け方で色を認識している。では、AIは、どのように色を認識しているのだろうか。
知能や意識と身体性ということは、これからさらに考えられていくことになるにちがいない。そして、これは、新しい人間観を生み出すことになる。それが、どういう方向にむかっていくかは、まだ分からないとすべきであるが。
人間について究極的な問いをつきつめていくならば、生命とは何かという問いであり、またそれは、遺伝子、あるいは、脳、というところにいきつくことになるはずである。それをサイエンスの方法論で研究することは可能であるが、では、そのサイエンスの方法論で考えている、その自分自身は、いったい何故そういうことを思っているのか、考えているのか、問いかけなおされるというところがあるにちがいない。
対話AIについて思うことであるが、ことばをかわすということではたしかにハイレベルのものになっている。だが、ここで、私が思っていることは、人間と人間のコミュニケーションでは、沈黙、ということがある。沈黙することによって、相手に伝えることができる、こういうことはたしかにある。では、AIは沈黙によって、何かを伝えるということができるようになるだろうか。
2025年7月13日記
知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!? AIは人間を超えるか
AI研究の現状と問題点を、肯定的な立場からになるが、よくまとめてあったと思う。見ながら思ったことを、思いつくままに書いてみる。
番組のなかで、ヘレン・ケラーのことがちょっとだけでてきていた。私は、世の中でパソコンというものが使われ始めたころから使っている。具体的には、NECのPC-9801である。このときから思っていたこととして、もし、ヘレン・ケラーの時代に、コンピュータがあったならば、彼女の活躍の場はもっとひろがっただろう。しかし、サリバン先生がいなければ、どうだっただろうか。そして、コンピュータがあっても、幼い目の見えない耳の聞こえない少女に、WATER、というものを教えることができるのだろうか。このことは、現在のAIの時代になっても変わらない。現在のAIで、同じような障害のある子どもに、WATER、を教えることができるだろうか。
これは、人間がものを知る、学ぶ、その感覚や知識と、身体性にかかかわる根本的な問題につながることだと思っている。
エピソードとして言及してあった、盲目の人が美術館に行くのが楽しみ、と言っているというのは、人間の感性と知性とはなんであるか、深く考えねばならないことになると思うことになる。
今から数十年前のことになるが、いわゆる脳死移植ということが世の中で話題になっていたことがある。このとき、人間が生きているということは何であるのか、という議論がさかんだった。議論のポイントとなったのが、意識があるかどうか、ということだった。脳死の人間は意識がない。意識の有無が、人間が生きていることのあかしである。意識のない人間は死んでいるのと同じである。だから、脳死の人から、臓器を取り出して移植しても、別に問題はない。こういう論理の是非をめぐるものだった。
これは、今、多くの人びとにはどう考えられているのだろうか。もし、AIが意識をもつということを想定できるならば、それは、人間と同じように生きているものと見なすことになる。そのAIを動かしている電源を切ることは、人間に対する殺人と同じことになる。こういう論理をうけいれざるをえなくなる。でなければ、AIの意識と人間の意識は違うものであると考えるか、あるいは、人間が生きていることの基盤を意識とは別のところにもとめることになるのか、である。そうなれば、根本的な、人間観の変革が迫られる。そのための準備、あるいは、覚悟を、今からしておくべきことになるだろう。
言語について、ただ、次に出てくることばを予測しているだけ、これが生成AIの基本である。ここで、LLMやディープラーニングについての簡単な説明があったことになる。
言語が人間の知性を作った。このように考えることもできることになる。だが、同時に、これは古風な構造主義的な言語観ではあるが、言語が世界を分節するという機能(あるいは、そのような現象というべきか)を、どう考えることになるのだろうか。よく知られた例では、言語によって虹の色は違って見える。ある色について、どういう色の名称でいうのかも異なる。物理的、生理的(眼のはたらき)には、色は人閒にとって同じであっても、言語や文化が違うと(これは脳のかかわる)、違った分け方で色を認識している。では、AIは、どのように色を認識しているのだろうか。
知能や意識と身体性ということは、これからさらに考えられていくことになるにちがいない。そして、これは、新しい人間観を生み出すことになる。それが、どういう方向にむかっていくかは、まだ分からないとすべきであるが。
人間について究極的な問いをつきつめていくならば、生命とは何かという問いであり、またそれは、遺伝子、あるいは、脳、というところにいきつくことになるはずである。それをサイエンスの方法論で研究することは可能であるが、では、そのサイエンスの方法論で考えている、その自分自身は、いったい何故そういうことを思っているのか、考えているのか、問いかけなおされるというところがあるにちがいない。
対話AIについて思うことであるが、ことばをかわすということではたしかにハイレベルのものになっている。だが、ここで、私が思っていることは、人間と人間のコミュニケーションでは、沈黙、ということがある。沈黙することによって、相手に伝えることができる、こういうことはたしかにある。では、AIは沈黙によって、何かを伝えるということができるようになるだろうか。
2025年7月13日記
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