ワールド・トラックロード「インド編」 ― 2025-09-13
2025年9月13日 當山日出夫
ワールド・トラックロード インド編
テレビのHDに残っていたので、見ることにした。調べてみると、最初の放送は、2024年12月7日。
映像がいいし、音楽がいい。なんとなく、何にも考えずに見ているのがいいのだろうが、しかし、見ながらいろいろと考える。
インドだから自動車が左を走る。大英帝国の植民地だったのだから、こうなっているのだろうと思う。そうなら、日本で自動車が左側通行なのは、どうしてかという気もする。
インドの道路は、牛が優先である。堂々と道のまんなかを占領して歩いている。牛飼いの人も、平然と、牛たちを道路を横切らせる。
デコトラというのは、日本では最近では減ったかと思うが、インドでは基本的にデコトラ主流のようである。(余計なコストと思うこともできるが、それなりの事情というか理由があってのことなのだろう。)
食事のシーンが興味深い。旅の途中のレストランなど、テーブルと椅子という場合もあるようなのだが、多くは、床の上に大きめの縁台(といって分かる人は少ないかもしれないが)が置いてあって、その上にテーブルがあって、そこを床として座る。食事は、原則的に床に置くようである。手で食べるのが基本。食器が基本的に金属製なのは、どこでもそうなのだろうか。ドライブインの食堂だから、そうなのだろうか。
料理を作るところを見ると、どれもかなりの強い火力で鍋に具材を入れて調理している。中華料理のような感じである。これと比べると、日本料理というのは、そんなに強い火力を使わない。天ぷらぐらいだろうか。無論、お魚の刺身は火を使わない。映っていた限り、インドでは、強い火力で鍋を使いようだ。これも地方によって違うかと思うが。
カレーがたくさんある、というよりも、なんでもかんでも料理をカレーと言っているような気もする。(これは偏見かとも思うけど。)
チャイの作り方も豪快というべきであろうか。
州をまたぐときに、検問があるのはいいとして、そこで税金を払うというのは、どういう税制なのだろうか。
インドの内陸部の運送というと、どうしてもトラックになる。これは、どの国や地域であっても同じである。
自動車のEV化とはいうが、トラックやバスのEV化については、あまりニュースで見ない。乗用車の話しばかりである。しかし、世界の物流や人の交流を考えるならば、EVトラック・バス、ということが必要だろうし、自動運転も、都市部よりも、だだっぴろい大陸の真ん中をほとんどまっすぐに走るような道路でこそ、物流の効率化に意味があるように思える。はたして、こういうことは、どの程度、進んでいるのだろうか。
GPSに頼らなくても、中国とかなら、自前の衛星でもって、なんとかやってのけそうだし、それで、ユーラシア大陸を横断する一帯一路を、自動運転のトラックやバスが走るようになると、はたして世界はどう変わるだろうか。これは、もう時間の問題かもしれない。そのためには、EVトラックの開発と同時に、充電設備などのインフラ整備が必要になるが、こちらの方が問題かもしれない。また、その電気をどうやって作るかとなると、原子力発電ということになるだろう。
だが、ともあれ、今のところは、トラック運転手というのは、社会にとって必要な職業の一つであることは確かである。少なくとも、かなりの程度を自動化できたとしても、ラスト1マイルは、人間の手に頼ることになるかとも思う。日本の場合は、そうだろう。
さらっと言っていたのだが、村にはカーストがあるが、みんな仲よくくらしている……そういうものかと思う。現代の日本の感覚だと、カーストは、インドの宿痾であって、なんとしても根絶せねばならない絶対悪として語られることが多い。しかし、その中で古くから生活してきた人々にとっては、カーストはあってあたりまえで、社会の安定のためには、強いて否定するというほどのことはない、ということなのかとも思う。一方、子どもには教育を受けさせたいという。いわゆる、学歴メリトクラシーといってもいいかもしれない。教育による社会階層の上昇が可能であるならば、今あるカーストも、自分の生活に不満が無い限り許容できると理解できようか。人間の社会とはこういうものだといってしまえば、それまでかもしれないが。
どうでもいいことかもしれないが、今や、地球のどこに行っても、CocaCola の文字を目にすることになる。
インドの村でも、ウクライナの戦場でも、携帯電話(スマートフォン)が通じる世界になっているということを、改めて感じた。
2025年9月5日記
ワールド・トラックロード インド編
テレビのHDに残っていたので、見ることにした。調べてみると、最初の放送は、2024年12月7日。
映像がいいし、音楽がいい。なんとなく、何にも考えずに見ているのがいいのだろうが、しかし、見ながらいろいろと考える。
インドだから自動車が左を走る。大英帝国の植民地だったのだから、こうなっているのだろうと思う。そうなら、日本で自動車が左側通行なのは、どうしてかという気もする。
インドの道路は、牛が優先である。堂々と道のまんなかを占領して歩いている。牛飼いの人も、平然と、牛たちを道路を横切らせる。
デコトラというのは、日本では最近では減ったかと思うが、インドでは基本的にデコトラ主流のようである。(余計なコストと思うこともできるが、それなりの事情というか理由があってのことなのだろう。)
食事のシーンが興味深い。旅の途中のレストランなど、テーブルと椅子という場合もあるようなのだが、多くは、床の上に大きめの縁台(といって分かる人は少ないかもしれないが)が置いてあって、その上にテーブルがあって、そこを床として座る。食事は、原則的に床に置くようである。手で食べるのが基本。食器が基本的に金属製なのは、どこでもそうなのだろうか。ドライブインの食堂だから、そうなのだろうか。
料理を作るところを見ると、どれもかなりの強い火力で鍋に具材を入れて調理している。中華料理のような感じである。これと比べると、日本料理というのは、そんなに強い火力を使わない。天ぷらぐらいだろうか。無論、お魚の刺身は火を使わない。映っていた限り、インドでは、強い火力で鍋を使いようだ。これも地方によって違うかと思うが。
カレーがたくさんある、というよりも、なんでもかんでも料理をカレーと言っているような気もする。(これは偏見かとも思うけど。)
チャイの作り方も豪快というべきであろうか。
州をまたぐときに、検問があるのはいいとして、そこで税金を払うというのは、どういう税制なのだろうか。
インドの内陸部の運送というと、どうしてもトラックになる。これは、どの国や地域であっても同じである。
自動車のEV化とはいうが、トラックやバスのEV化については、あまりニュースで見ない。乗用車の話しばかりである。しかし、世界の物流や人の交流を考えるならば、EVトラック・バス、ということが必要だろうし、自動運転も、都市部よりも、だだっぴろい大陸の真ん中をほとんどまっすぐに走るような道路でこそ、物流の効率化に意味があるように思える。はたして、こういうことは、どの程度、進んでいるのだろうか。
GPSに頼らなくても、中国とかなら、自前の衛星でもって、なんとかやってのけそうだし、それで、ユーラシア大陸を横断する一帯一路を、自動運転のトラックやバスが走るようになると、はたして世界はどう変わるだろうか。これは、もう時間の問題かもしれない。そのためには、EVトラックの開発と同時に、充電設備などのインフラ整備が必要になるが、こちらの方が問題かもしれない。また、その電気をどうやって作るかとなると、原子力発電ということになるだろう。
だが、ともあれ、今のところは、トラック運転手というのは、社会にとって必要な職業の一つであることは確かである。少なくとも、かなりの程度を自動化できたとしても、ラスト1マイルは、人間の手に頼ることになるかとも思う。日本の場合は、そうだろう。
さらっと言っていたのだが、村にはカーストがあるが、みんな仲よくくらしている……そういうものかと思う。現代の日本の感覚だと、カーストは、インドの宿痾であって、なんとしても根絶せねばならない絶対悪として語られることが多い。しかし、その中で古くから生活してきた人々にとっては、カーストはあってあたりまえで、社会の安定のためには、強いて否定するというほどのことはない、ということなのかとも思う。一方、子どもには教育を受けさせたいという。いわゆる、学歴メリトクラシーといってもいいかもしれない。教育による社会階層の上昇が可能であるならば、今あるカーストも、自分の生活に不満が無い限り許容できると理解できようか。人間の社会とはこういうものだといってしまえば、それまでかもしれないが。
どうでもいいことかもしれないが、今や、地球のどこに行っても、CocaCola の文字を目にすることになる。
インドの村でも、ウクライナの戦場でも、携帯電話(スマートフォン)が通じる世界になっているということを、改めて感じた。
2025年9月5日記
所さん!事件ですよ「突撃!となりの多国籍タウン」 ― 2025-09-13
2025年9月13日 當山日出夫
所さん!事件ですよ「突撃!となりの多国籍タウン」
いわゆる多文化共生ということを言わなければならないNHKとしては、こういう内容になるのかとは思う。強いていえば、今の時代の多文化共生は、かつての大アジア主義、が言い過ぎなら、五族協和ぐらいのところかと思う。(理念としては必ずしも間違いだとはいいきれないところもあるが、しかし、それをどう実現するかとなると、非常に大きな問題があったことになる。)
日本に外国から人がやってきて、仕事をしたりする、留学もある、ということは決して否定しない。いや、実際に、日本の産業や経済は、外国人労働者の存在なしにはなりたたないのが実情である。
そのうえで、あえて言う。
日本に来るならば、もし日本で死ぬことがあったら、火葬になりますが、それでいいですか……このことを周知徹底する。なぜ、このことが言えないのだろうか。
日本でも土葬がかつては一般的であり、現在でも、ごく一部で可能である。だが、だからといって、昔にもどすということは、不可能だろう。現代の日本の社会は、人間の死を可能な限り、いわば清潔なもの(けがれとはしない)として見るようになってきている。そのように見ようとしてきている。この大きな流れのなかで、土葬は姿を消し、火葬ということになった。葬送儀礼も多様化している。散骨も普通のことになっている。これが、昔の土葬に戻るということは、かなりハードルが高い。
イスラムの信仰を持つ人びとを、日本社会が受け入れるためには、土葬の墓地を許容するか、さもなくば、上述のように、日本で死ねば火葬ですがそれでいいですね、ということなるか、という議論になるだろう。ここのところにふみこまないで、ただ多文化共生というだけでは、あまりにも欺瞞がすぎる。
なお、次の本があることは、もっと知られていいと思う。
高橋繁行.『土葬の村』.講談社(講談社現代新書).2021
2025年9月8日記
所さん!事件ですよ「突撃!となりの多国籍タウン」
いわゆる多文化共生ということを言わなければならないNHKとしては、こういう内容になるのかとは思う。強いていえば、今の時代の多文化共生は、かつての大アジア主義、が言い過ぎなら、五族協和ぐらいのところかと思う。(理念としては必ずしも間違いだとはいいきれないところもあるが、しかし、それをどう実現するかとなると、非常に大きな問題があったことになる。)
日本に外国から人がやってきて、仕事をしたりする、留学もある、ということは決して否定しない。いや、実際に、日本の産業や経済は、外国人労働者の存在なしにはなりたたないのが実情である。
そのうえで、あえて言う。
日本に来るならば、もし日本で死ぬことがあったら、火葬になりますが、それでいいですか……このことを周知徹底する。なぜ、このことが言えないのだろうか。
日本でも土葬がかつては一般的であり、現在でも、ごく一部で可能である。だが、だからといって、昔にもどすということは、不可能だろう。現代の日本の社会は、人間の死を可能な限り、いわば清潔なもの(けがれとはしない)として見るようになってきている。そのように見ようとしてきている。この大きな流れのなかで、土葬は姿を消し、火葬ということになった。葬送儀礼も多様化している。散骨も普通のことになっている。これが、昔の土葬に戻るということは、かなりハードルが高い。
イスラムの信仰を持つ人びとを、日本社会が受け入れるためには、土葬の墓地を許容するか、さもなくば、上述のように、日本で死ねば火葬ですがそれでいいですね、ということなるか、という議論になるだろう。ここのところにふみこまないで、ただ多文化共生というだけでは、あまりにも欺瞞がすぎる。
なお、次の本があることは、もっと知られていいと思う。
高橋繁行.『土葬の村』.講談社(講談社現代新書).2021
2025年9月8日記
NHKスペシャル「1兆円を託された男 〜ニッポン半導体 復活のシナリオ〜」 ― 2025-09-13
2025年9月13日 當山日出夫
NHKスペシャル 1兆円を託された男 〜ニッポン半導体 復活のシナリオ〜
ものづくり……いいかえると工学の視点からの番組であることは分かる。だが、天邪鬼な世捨て人としては、理学からのアプローチがあってもいい。つまり、そもも半導体とはどういうもので、それを作るにはどうすればいいのか、ということの説明なのだが、これがまったくなかった。これは、意図的にこういう視点を排除して作ったということだと理解している。
だが、半導体製造のテクノロジーをささえるのは、基礎的なサイエンスの分野のことだと思う。また、とりあえず、ラピダスが2ナノ半導体の量産ができたとしても、問題は、その次の、さらには、その次の次の半導体技術……場合によると、もはや半導体という概念を越えるものかもしれないが……のための基礎的な研究が、どれぐらいの体制や規模で進められているのか、あるいは、いないのか、ということである。そのために、日本の大学や企業の研究組織は、どう動いているのだろうか。
ラピダスに1兆円、場合によると、それを越える国費を投じることは、その妥当性があるとして、私としては、その次の、その次の次の、さらに次の、技術開発のための研究資金として、同じぐらいの資金の投入がないといけないと思う。所詮、技術的優位など追い越されるのは時間の問題である。2ナノ半導体で世界の先端に立てる期間が、どれぐらいと予想できるのだろうか。常に優位に立ち続けるというのなら、未来への投資を惜しむべきではない。
いうまでもないと思うが、最新鋭の半導体を量産する技術も大事であるが、それと同時に、そのような半導体を必要とするような、新しい産業……それは、世界の社会の構造変革につながる……を、日本から生み出せなかったということも、考えるべきだろう。
2025年9月12日記
NHKスペシャル 1兆円を託された男 〜ニッポン半導体 復活のシナリオ〜
ものづくり……いいかえると工学の視点からの番組であることは分かる。だが、天邪鬼な世捨て人としては、理学からのアプローチがあってもいい。つまり、そもも半導体とはどういうもので、それを作るにはどうすればいいのか、ということの説明なのだが、これがまったくなかった。これは、意図的にこういう視点を排除して作ったということだと理解している。
だが、半導体製造のテクノロジーをささえるのは、基礎的なサイエンスの分野のことだと思う。また、とりあえず、ラピダスが2ナノ半導体の量産ができたとしても、問題は、その次の、さらには、その次の次の半導体技術……場合によると、もはや半導体という概念を越えるものかもしれないが……のための基礎的な研究が、どれぐらいの体制や規模で進められているのか、あるいは、いないのか、ということである。そのために、日本の大学や企業の研究組織は、どう動いているのだろうか。
ラピダスに1兆円、場合によると、それを越える国費を投じることは、その妥当性があるとして、私としては、その次の、その次の次の、さらに次の、技術開発のための研究資金として、同じぐらいの資金の投入がないといけないと思う。所詮、技術的優位など追い越されるのは時間の問題である。2ナノ半導体で世界の先端に立てる期間が、どれぐらいと予想できるのだろうか。常に優位に立ち続けるというのなら、未来への投資を惜しむべきではない。
いうまでもないと思うが、最新鋭の半導体を量産する技術も大事であるが、それと同時に、そのような半導体を必要とするような、新しい産業……それは、世界の社会の構造変革につながる……を、日本から生み出せなかったということも、考えるべきだろう。
2025年9月12日記
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