异体字の昿埜2011-09-15

2011-09-15 當山日出夫

しばらくこのブログも中断(夏休み???)になっていたが、再開である。まずは、京大人文研の研究会から。京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センターで、人文研連続セミナーの開催。

异体字の昿埜=異体字の曠野、である(いわゆる普通の漢字の字体で書けば。)

案内のメールから、プログラム(予定)転記する(まあ、いいだろう。Facebookにも掲載になっている行事であるし。)

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・㐧一夜「国」字攷 9月15日(木)18:30~20:00
・㐧二夜「𦁪」字攷 9月22日(木)18:30~20:00
・㐧三夜「葛󠀀」字攷 9月29日(木)18:30~20:00
・㐧四夜「⿳宀癶山」字攷 10月6日(木)18:30~20:00

各回の内容、およびサブタイトルの正確な字体は

 http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2011/09/itaiji_no_koya.pdf

をごらん下さい。

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9月でこの時期だと、かろうじて、前半の二回ぐらいは出席できそう。後の方になると、後期の授業がはじまってしまうので、ちょっと京都にいく方法を考えないといけなくなる。

まあ、ともあれ、今日(今晩)は、第一回に参加してみる予定でいる。

當山日出夫(とうやまひでお)

异体字の昿埜 㐧一夜 「国」字攷2011-09-16

2011-09-16 當山日出夫

ともあれ、昨日は、都合がついたので、京大まで行ってきた。

この前の国立国語研究所の

第4回 NINJALフォーラム 「日本語文字・表記の難しさとおもしろさ」
2011年9月11日 一橋記念講堂

のときにも感じたことであるが、このような会合に出ての興味はふたつある。一つは、もちろん、そこで話しをする話題についての興味。そして、もう一つは、そこに集まる人たちがどんな人たちで、どんな質問とかをするかの興味である。(ひょっとすると、私の場合、後者の興味の方がつよいかもしれない。)

で、今回の人文研の「异体字の昿埜」であるが・・・内容としては、「国」という文字(現在の常用漢字体)の成立のプロセスの話し。で、ありながら、同時に、日本の戦中から戦後にかけての、言語政策(特に、漢字政策)についての、いきさつの話しとしてきいた。

このあたりの事情は、話しをした安岡さんの本、

安岡孝一.『新しい常用漢字と人名用漢字』.三省堂.2011

のはじめの方に書いてあることでもある。

「日本」において使用する文字は、いったい誰が、どのような議論、価値判断のもとに決められたのか。そこには、漢字制限論に対する、さまざまな立場がある。このあたりを、たとえば「国」という漢字の成立を、題材に話しをしたというのが、昨夜の話しということになるであろうか。

これは、USTREAMで、中継されている。

http://www.ustream.tv/recorded/17284330

資料は、
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/publications/2011-09-15.pdf

となっている。

話しをもとにもどして・・・この種の講演会などを、一般向けに開催して、どうしても、集まるのは、どちらかといえば、年配の人たち。しかも、価値観としては、漢字をつかいたい、と思っている人たち、という気がする。

これはこれで、改めて考えてみたい問題である。とにかく、次週も、都合がついたら、出席することにしよう。

なお、次回以降の内容をふくめての案内は、

http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2011/09/itaiji_no_koya.pdf

當山日出夫(とうやまひでお)

异体字の昿埜 㐧二夜 「𦁪」字攷2011-09-27


2011-09-27 當山日出夫

http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2011/09/itaiji_no_koya.pdf

週末、いろいろあって、書くのがおくれた。京大人文研の連続のセミナーの第二回である。今回は、人名用漢字の話し。

前回が、当用漢字の制定、漢字制限にかかかわる話しであった。今回は、それのつづきで、人名の漢字における制限(する/しない)にかかわる、「攻防」の話しと理解した。

本でいえば、だいたい16ページの「氏名等を平易にする法律思案」のあたりあたりから、37ページの「琉球政府の人名用漢字と当用漢字表」ぐらいに、あたるであろうか。

ここで、個人的感想をのべておくと・・・であるが、人名用漢字によって、当用漢字の制限がなしくづしにされようとしていたときの、エピソード。剱木亨弘の話。本では、33-34ページ。

ちょっと、孫引きで引用しよう、

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私は、とっさに「剱木亨弘」の名刺を差し出して「私の名前をお読みいただけますか。読めたら引き下がります」とつけ加えた。

「ケンノキ、は分かる」「いや下の名前です」「分からんなあ」--ここまで問答が進んだところで、私は開き直った。

「私の父がつけた名前ですが、今日まで一度も正確によんでもらったことがありません」

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このようなやりとりの結果、戸籍法第50条改正案は、廃案になるのである。

これは、漢字制限の問題であると同時に、その読み方(音訓)の問題でもある。ただ、漢字の字種だけに限った議論ではない。私の感覚では、「亨」「弘」も、そう難しい漢字ではない。人名としては、ごく普通につかう漢字。問題は、その読ませ方だろう。

このあたりの問題は、現代の、子供の名づけの問題にも、かかわってくる。とにかく、最近の、子供の名前は、「読めない」のである。しかるべき、由来・典拠のある「なのり」の読みなら、まだ理解できるのであるが。

人名用漢字の問題は、その使用字種の問題だけではなく、読み方にまで踏み込んで議論する必要があるだろう。いや、すくなくとも、名前には、ふりがなをかならずつける習慣を一般化するというような方向の議論がもっとなされてもよいのではないか。

「よみ」の問題にまで人名用漢字について踏み込むと、大混乱になるので、字種の制限の問題にとどまっているというのが、現状とみてよいであろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)