「フロイト“夢判断” (3)エディプス・コンプレクスの発見」2024-04-21

2024年4月21日 當山日出夫

100分de名著 フロイト“夢判断” (3)エディプス・コンプレクスの発見

この回の内容については、いろいろと考えるところがある。セクシュアリティをめぐる議論は、難しい面がある。思うことを書いてみる。

世の中の人びとのなかに一定数は、ちょっと変わった性的な傾向の人がいる。これは、理解できることである。(それが何に起因するものなのか、生得的なものなのかどうか、この点についていろいろ議論があると思うが。)

だが、それが、一般の社会的規範意識のなかで抑圧され、表面に出ないようにということで、どうにかなっているという側面もある。この場合、制度的に抑圧されているということが重要になる。理不尽な歴史ということになる。どのようであれ、人権は守らねばならない。

それが、そのような性的傾向の人がいてあたりまえなのだという言説がひろまり、社会が許容するようになると、自らそう判断するひとが表面化してくる。だからといって、社会的な偏見がまったくなくなるかというとそうでもないし、そのような人びとの権利は守られなければならない。

このあたりまでは、今日の人権感覚として普通に理解できることであろう。どのような立場にたつにせよ。

問題と思うのは、人間の性的な傾向というのは、まったく生まれつきのものであって、本人の意志や生育環境ではどうにもならないものなのか、あるは、場合によってはある程度はその影響を受けるものなのか……今、議論となるべきは、ここのところをめぐることだと思う。はたして全くグレーゾーンは無いと言っていいのだろうか。たぶん、ここのところの議論が、どのような立場にたつにせよ、一番避けているところのように思えてならない。

自己のセクシュアリティは、自分の自由意志で自由に判断して決めることが可能なものなのか、あるいは、なにかしら文化的、社会的な要因が関係するものなのか。そもそも、人間にまったっくの、文化や歴史や社会から独立した自由な意志とはありうるものなのか。人間は自身の性からまったく影響を受けることなく、自由意志を持ちうるのだろうか。

セクシュアリティをめぐる議論が多くあるなかで、私が、歯切れの悪さを感じるのは、ここのところにふみこんで論じようとしないからかもしれない。あるいは、このところの議論がタブー視されているとも感じる。

もし文化的、社会的要因を認めるとしても、人は、どのような文化や社会に生まれ育つかを、自分で選択できない。この意味では、それによる偏見や差別は容認されるものではない。

少なくとも、自分が責任をとることのできないこと、それがマイノリティとなる性的傾向であるとしても、それによる偏見や差別があってはならない。これは、多くの人が納得するところだろう。この主張は明快である。しかし、そのなかに小児性愛をふくめて考える人は、いないだろう。それは何故か。

現代の性のあり方の多様性というとき、おそらく暗黙の前提になっているのは、近代西欧社会であったり、家父長制的家族制度であったりであろう。フロイトをめぐる議論でも、近代のヨーロッパ社会のことが前提にある。だが、これも、近代以前の社会、あるいは、世界の多くの国々、民族などを視野にいれて考えるならば、また違った側面が見えてくるかもしれないと思っている。

性のあり方というのは、生物学的な側面と、文化的な側面と、この両方の面から考えなければならないと、私は思っている。問題は、総合的に考えるとして、そのバランスだろうか。

エディプス・コンプレックスについていえば、それが女性の場合にどうなるのかということは興味深い。また、この概念が、人間に普遍的に、地域、歴史、文化、民族などを問わず、見られるものだろうか、ということも気になることである。

2024年4月16日記

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