『とと姉ちゃん』「常子、商品試験を始める」2025-10-26

2025年10月26日 當山日出夫

『とと姉ちゃん』「常子、商品試験を始める」

実際、「暮しの手帖」の商品試験ということは、重要なことだったとは思う。広告を掲載しない雑誌だから出来たことであり、その意義は大きいといえる。

だが、ドラマを見ていて感じることは、常子たちの視野にはいっている人びとの生活は、都市部の中間層の生活を考えていることである。これは、別に悪いことだとは思わないし、雑誌の読者として、そういう人びとを想定するのは、当然のことではある。とにかく、書店で雑誌を買ってくれる人が、常子たちにとってのお客様なのである。

しかし、この時代、まだまだ、地方の農村部と都市部とでは、生活の開きが大きかった時代でもある。地方から集団就職などで、大勢の若者たちが都市にやってきていた時代である。こういう時代のことを思ってみると、地方の農村部の生活が、常子たちには見えていなかったということが、なんとなく気になることでもある。

商品試験についても、どういうユーザのための、どういう視点から、それをおこなうのか、考えるべきことが多い。これは、ドラマの中で、花山が言っていたことである。この問題提起はあるというものの、最終的に、常子たちが、どういう立場から商品試験をおこなうことになるのか、という着地点、目標、というところが見えてこない。このあたりのことは、実際の「暮しの手帖」ということがあるので、ドラマとしても描きにくいことかもしれないとは思うのであるが。

2025年10月25日記

『どんど晴れ』「ひとりぼっちの旅立ち」2025-10-26

2025年10月26日 當山日出夫

『どんど晴れ』「ひとりぼっちの旅立ち」

どうしても柾樹と結婚したい夏美は、家を出て盛岡に行って、加賀美屋で旅館の女将になるための修業をするという。これは、このドラマのメインの筋になるので、こうなることだと思って見ているから、何の意外性もない。

ドラマが、2007年に作られているので、岩手の格式有る老舗旅館ということを、なんとか描くことができた時代かなと思うことになる。近年だと、加賀美屋のような格式有る老舗旅館といえども、諸々のサービスの近代化(といっていいだろうか)は、避けられないことである。まず、人手不足で、仲居さんのなり手がいないだろう。働いてくれるのは、外国人ばかり、ということになっていてもおかしくない。

おそらく現代だと、建物を建て替えて近代的に合理的な(?)サービスに舵をきるか、あるいは、超豪華なインバウンド向け高級旅館としてやっていくか、ということになるのかもしれない。見ていて、このドラマの時代は、老舗旅館の格式という意識と、そこでうけつがれてきた昔からの生活の感覚を、なんとか肯定的に、リアルタイムのこととして、描くことのできた時代だったのだなあ、と感じるところである。今、昔からの生活の感覚ということを肯定的に描こうとすると、『ばけばけ』のように明治のころに時代設定するしかなくなっている。でなければ、『母の待つ里』(浅田次郎原作)のようにファンタジーになる。

2025年10月25日記

『ばけばけ』「フタリ、クラス、シマスカ?」2025-10-26

2025年10月26日 當山日出夫

『ばけばけ』「フタリ、クラス、シマスカ?」

この週でトキは東京に行って帰ってきた。

銀二郎が出奔してしまう。松野家に借金があることは分かっていたはずだが、これほど働くことになるとは予想していなかったのだろう。最終的には、長屋の隣の遊廓の客引きまですることになる。これについて、勘右衛門は、松野家の格が下がると怒る。松野家のために働いているのに、それを、家の格が下がると批難されたので、銀二郎も可哀想である。とうとう、家を出てしまう。

東京にいる銀二郎を探してトキも旅だつ。この時代のルートとしては、(私の想像だと)ともかく瀬戸内海側に出て、そこから陸路か、あるいは、船旅、ということだろうと思うが、どうだったのだろうか。鉄道はまだそんなに開通してはいないはずであるし、貧乏なトキとしては、ともかく歩いたようである。

東京の本郷で、銀二郎のいる下宿を見つける。そこは、松江から東京に出た学生たちが集まるところでもあった。近年まで、東京などには、地方出身者のための施設が作られたりしていた。(ちなみに、漱石の『三四郞』は、明治41年の作品だが、大学生になって上京する三四郞は、とりあえずは国(故郷)の寮にでもやっかいになろうかと、汽車の中で広田先生に言っている。)

銀二郎は、人力車夫をしていた。地方から東京に流れてきて、とりあえず仕事をするとなると、こういう仕事だろうとは思うが、しかし、東京の地理を知らなければならないので、体力勝負だけの仕事ではない。といって、貧民窟に住んで、日雇い労働ということだと、ちょっとドラマの設定として難しいかもしれない。

本郷の下宿にたどりついたら、部屋には、錦織がいた。秀才帝大生ということのようだったのだが、実は、苦学して、教師の資格を取ろうと、猛勉強していたということである。たぶん、これから、ヘブンが来日して、松江の中学の英語の先生になるということで、かかわりがあるかと思っている。

同じ下宿の帝大生が言っていたが、旧松江藩の松平伯爵家から、奨学金が出ていたとのことである。昔は、お金持ちが、貧乏だが優秀な若者のために学費を提供するということがあった。三菱の岩崎家など、将来そのことを絶対に秘密にするということを条件にして、学費を補助していたということがあったかと憶えているのだが、はたして実際はどうだったのだろうか。

この週の終わりで、トキは、銀二郎と別れて、松江に帰る決心をする。その理由はふたつあったことになる。

第一には、錦織の言ったことで、これからは西洋文明の時代である、怪談など、目に見えないものを云々する時代ではない、と。典型的な明治の近代主義である。それに、トキはついていけないものを感じたのだろう。トキは、松江の怪談をみんなの前で話そうとしていた。それを完全に否定する考えに、東京で出会ったことになる。

第二には、松江の家族のことを思い出したからである。英国式ブレックファースト(パン、ベーコン、スクランブルエッグ)、そして、紅茶ではなくて、牛乳だった。牛乳を飲んで、上唇が白くなったみんなの表情を見て、松江の家族のことを思い出した。実の娘ではないが、松江には家族がいる。このところの描写は、科白による説明はなかったし、また、松江の回想シーンもなかった。下手なドラマなら、そうするところである。ただ、牛乳を飲んだ後の、トキの表情の変化で、その心情のゆれを表現していた。

こういうところを見ると、このドラマのヒロインのトキを、高石あかりが演じていることの価値が、十分に発揮されたと感じることができる。

明治という時代になって、近代をめざす若い人びと、その象徴である、東京という都市、帝国大学。それに対して、古くからの生活を残している松江の人びとと、松野の家族。「坂の上の雲」の時代と「忘れられた日本人」の世界である。このふたつの世界の中で、トキは、自分が古い側にいることを自覚することになる。

ドラマの中で「牡丹灯籠」が出てきていた。明治になって、三遊亭円朝が演じたことで有名であり、近年では、NHKもドラマにしている。源孝志の脚本演出。「牡丹灯籠」は落語の速記本が流行ったということもあり、近代の日本語、特にいわゆる言文一致体の文章の成立には、重要な資料でもある。ドラマの中で、席亭での「牡丹灯籠」があるかと思っていたが、これは無かった。ちょっと残念な気もする。

それから、たぶん松江では、人の数よりもシジミの数の方が多いだろう。

出雲蕎麦は、私が学生のころは、神保町にお店があったが、なくなってひさしい。

2025年10月25日記