3か月でマスターする人体「(11)生まれか育ちか」2026-04-07

2026年4月7日 當山日出夫

3か月でマスターする人体「(11)生まれか育ちか」

この番組のテーマも、ここまで来ると、サイエンスという領域では、とらえられないところまできているという印象がある。しかし、それでも、サイエンスの方法論で分かることとして、エピジェティックス、ということになる。

人間が、産まれてから成長して、それから、年をとっていくまでに、遺伝子によってきまる部分はかなりあるのだが、いつ、その遺伝子が、どのように働くことになるか、ということは、かなりの偶然的な要因がある……ということでいいだろうか。最終的には、長生きするためには、養生訓、というところに落ち着く。

見ていて、一番、面白かったのは、三毛猫の話し。しばらく前に、どうして、三毛猫がメスにしかいないのかということについて、読んだかと覚えているのだが、具体的にどんなだったか忘れてしまっている。三毛猫はメスだけであるのは、毛の色を決める遺伝子……白になるか、黒になるか、茶色になるか……が、オスとメスで、そろいかたが違ってくるから、ということでいいのだろうか。そして、メスの三毛猫でも、具体的にどんな模様の三毛になるかは、偶然的要因で決まる。

ただ、猫の体の模様がどうなるかは、他にもいろんな要因があるかもしれない。体全体にしましまの模様がある……茶トラとかキジトラとか……は、どういう要因なのだろうか。

今、我が家で飼っているキジトラのネコ(オス)の毛を見ると、白っぽいところと、黒っぽいところとが、グラデーションがあって別れていて、一本の毛でも同じ色ではない。ただ、毛の色が、白・黒・茶、というわけではないことが分かる。

数年前まで、二匹の黒猫(メス)を我が家で飼っていた。拾った(としかいいようがないが)ときの状況から考えて、姉妹である。一見すると、両方ともまっ黒の猫だが、毛の色とか、しましま模様の入り方とか、微妙に違っていた。黒ネコにはちがいないが、一匹の方は、微妙な縞模様があったし、他の一匹の方は、非常に艶のある黒色だった。だが、目の色は同じだったが。

ところで、人間の場合、どういう遺伝子を持って生まれるかは自分で選択できないことである。だから、そのことによって、不利益を被ることがあってはならない。これは、現代の人間についての基本的な考え方だろうと思う。

男性に生まれるか、女性に生まれるかは、自由に選ぶことができることではないので、いずれの性であるかによって、不利益があってはならない。これは、納得できる。

しかし、現代では、人間の性別も、人間の自由意志で決めることができる、その個人の自由意志は、最も尊重されなければならない……ということになると、私としては、どうかなと思うところである。

どのような人間であるかは、その多くは、自分がどのような人間でありたいと思って生きているか、ということの反映である。この意味では、生まれか育ちかという問題設定自体が、あまり意味のないことだとは思っている。

ネコは、自分がどんな色や模様であるかを選択できない。しかし、どんな模様の猫でも可愛いのである。

2026年4月3日記

クラシックTV「謎多き先駆者 エリック・サティー」2026-04-07

2026年4月7日 當山日出夫

クラシックTV「謎多き先駆者 エリック・サティー」

私が、音楽……具体的には、CDを買うかどうかということになるが……の規準の一つとしてあるのは、それを、自動車を運転しながら聞くのに適しているかどうか、ということがある。(昔だったら、CD-Rにコピーしていたが、今では、MP3に変換して、SDカードか、USBメモリ(タイプC)、ということになっている。)

サティの音楽を、自動車の中で聴きたくなるかどうか……これは、微妙かなと感じる。運転の邪魔になるような曲ではないのだが、思わず聞き惚れてしまうということでもない……かもしれない。

ともあれ、サティというのは、変わった人だったらしい。芸術家というのは、多かれ少なかれ変わった人が多いというのは、まあ、経験的にもそうかなと思う。変人だから芸術家になったのか、芸術家だから変人でもなんとか生きていくことができるのか。

変人ではあっても、その変人ぶりがドラマチックということではなかったらしい。このあたりが、変わった変人(?)といっていいだろうか。

番組を見て感じることの一つは、サティの曲を演奏するときの、演奏者の表情である。ベートーベンや、モーツアルトを演奏するときとは、なんとなくイメージが異なる。強いていえば、世紀末に悩んでいる……とても言っていいかもしれない(もう、今では21世紀になって、四半世紀たっているけれど。)

2026年4月3日記

英雄たちの選択「天下人・秀吉を生んだ長浜」2026-04-07

2026年4月7日 當山日出夫

英雄たちの選択「天下人・秀吉を生んだ長浜」

戦国武将や、合戦のことを語るのに、その軍勢が強かったからとか、斬新な戦法をとったから、という発想だけでものをいうのは、そろそろ止めにしたほうがいいと思っている。それよりも、今でいう、インテリジェンス、ロジスティックス、ということ。諜報とか、輜重とか、兵站とか、あるいは、工兵の働き、こういうことから、戦国武将の戦略や、合戦を見ることの方が、より面白いと思うのだが、あまりそうはならないようである。

秀吉が長浜に居城を作ったのは、琵琶湖水運を制するためである、ということはたしかだろう。北国と京との間において、琵琶湖の水運は、きわめて重要である。それから、(番組では言っていなかったが)瀬戸内海の海運も、とても重要な意味があっただろう。

秀吉が天下人になった……多くの戦に勝ってきた、というのは、中国攻めは工兵の仕事であるし、小田原城の攻略も、工兵あってのことである。そして、畿内から、その戦地までの兵站を確保していたということが、また、重要なことである。

戦国時代ドラマによくあるように、弓矢と鉄砲だけで、戦争ができたはずはない。

こういう軍事についての感覚は、今の世界で軍事力を見せつけようと、ミサイルや戦車を並べて見せる軍事パレードと大差ない。本当の軍事力は、そういう装備だけで、はかれるものでないことは、現代の戦争でも経験済みのことであると思うが。兵器の性能や数量は、重要であるが、それだけで勝敗は決まらない。

そして、また、領地を治めるには、領民の利害ということも、考えなければならない。武力を持っていたから支配できた、経済的に搾取できた(古風な言い方だが)、というだけではないだろう。年貢を納める「百姓」(稲作の農民に限定しないで、幅広く考えるべきだと思うが)にとって、その領主の領民であることのメリットが、まったくのゼロでは、あるいはマイナスでは、気に入らない領主のもとから逃げ出すということも選択肢としてあったはずである。

一向宗のことが出てきていたが、中世における、いわゆる宗教勢力というのは、いったいどんなものだったのだろうか。一向宗だからといって、あるいは日蓮宗でもいいのだが、ただ純粋にその宗教・信仰だけの集団であったとは思えない。経済的、政治的、社会的な、利害打算ということもあったにちがない。

封建社会=戦国武将=暴力=権力=支配=搾取、という昔ながらの図式で、歴史を語れる時代では、もはやなくなってきているということを、思うことになる。これが、分かっているのだが、完全に脱却できないということかとも思う。(こういう番組を見ても、どこか、昔の歴史の感覚をひきずっているところを感じてしまう。)

2026年4月2日記