3か月でマスターする西洋美術「(1)人間美を追求〜ギリシャ・ローマ〜」 ― 2026-04-13
2026年4月13日 當山日出夫
3か月でマスターする西洋美術「(1)人間美を追求〜ギリシャ・ローマ〜」
西洋美術、というくくりで、ギリシャ・ローマから現代美術まで考えるというのは、無謀かもしれないが、しかし、一つのものの見方だと思う。思想史とか文化史、宗教史というような視点からは、どうかなという気もしないではないが、今の日本で、常識的に西洋美術としてイメージするものとしては、こうなるだろう。
はじまってすぐに、作品の大きさ、ということを話題にしていたのは、非常に重要なことである。物理的なサイズというのは、絵画や彫刻にとってきわめて重要な要素である。どういう作品を、どこにおいて、どう見るのか、ということとも関係してくる。(こういうことは、文献や史料をあつかう分野の研究でも、書物の大きさとか、古文書の紙の大きさとか、書いてある文字の大きさとか、実部を見て経験的に身につける知見というものがある。)
これは美術史の専門家にとっては常識的なことなのかとも思うが、絵画と彫刻を同列に並べるというのは、普通にあることなのだろうか。疑問といえば疑問である。
古代ギリシャの彫刻で、どのような表現があったのか、ということは、ざっくりとよく分かる内容だったと思う。美を神様があらわしていて、その神様は、人間にそっくりの形をしている……強引かと思うが、こう思って見ると、なるほどという気になる。
ミロのヴィーナスはねじれている、といわれると、たしかにそうである。
この番組でこういうことに言及することになるのかどうかと思っているのだが、ギリシャ彫刻の人間像は、裸体像が多い。ありていにいえば、ミロのヴィーナスも女性のヌードである。では、ここで表現されているのは、美、であるということはいいとしても、それ意外に、エロティシズムを感じることは、どうなのだろうか。
西洋美術の流れの中で、女性の裸体像は多く描かれてきたのであるが、タテマエとしては、それは人間ではないもの(神様や天使や妖精など)の姿であった……ということがあるかと思っている。だから、許されてきた。しかし、本物の人間の女性をモデルにして裸体像を描いたらスキャンダルになったということは、普通の歴史の本の中に書いてあることだと思っているのだが、さてどうなのだろうか。
人間そっくりにつくれば、それが男性像であれ、女性像であれ、性的な何かを感じるのが普通だと私には思えるが、だが、これは日本における発想であって、昔のギリシャの人は、そうは思わなかったということでいいのだろうか。発想が下卑ているといわれればそれまでなのだが、なんとなく気になっている。
ねじれているということで、ミロのヴィーナスを見ると、なるほど左右の胸で乳首の高さが違っているなあ、と見てしまうのだが、そういうことでいいではないかとも思う。
ところで、古代ギリシャでは、絵画はどうだったのだろうか。それから、パルテノン神殿が映っていたが、その建築には、抽象的な美もあるかと感じるが、どうなのだろうかと思ったところである。
2026年4月9日記
ドキュメント72時間「大雪の3日間 金沢レンタカー日記」 ― 2026-04-13
2026年4月13日 當山日出夫
大雪の3日間 金沢レンタカー日記
見ていて、レンタカー屋さんよりも、同じ建物のなかにはいっている、コインランドリーとカラオケのお店では、こんな雪の日にはどんなだったのだろうかと、気になってしかたがなかった。特に、コインランドリーは、雪国ならではの事情があって面白いことがあったかと思う。(こういうのを、是非、見てみたい。)
今の日本で、自動車がなければどうにもならない生活の状況であり、特に、地方都市の事情ということが、見てとれるかなと思った。だが、これも、まだ、金沢という都市部であるから、何かのときに、レンタカーという選択肢があるのであって、もうちょっと地方の方にいけば、こういうレンタカー自体が存在しないということになる。そういう地域では、また、それなりの工夫で、雪が降った日には、なんとかするしかない。
このお店は、金沢の中心部から少し離れたところにあるようで、このお店にくるまでに自動車で来なければならない、ということがあるようだ。だが、駅からはそう遠くないので、バスやタクシーなどで来て、レンタカーを借りて、というお客さんもいるのかもしれない。このお店まで来る人は、どうやって来ているか、ということも気になる。こういうことも、レンタカーのお店の立地条件として、重要なことだろう。
番組を見ていると、自動車を借りて、会社に行って帰って、そこからは、徒歩で帰るという人がいたが、こういうお客さんは少ないかと思う。
それにしても、いろんな事情で、レンタカーを借りる人がいる。乗る人数が多いからワゴン車というのは、理解できる。また、ちょっと遠出するのに軽自動車ではなく、普通乗用車がいいというのも、そういうことはあるだろう。だが、最近の軽自動車は、十分に遠出でも使えると思うが。
アルファードか、ハイエースか、ヤリスか、というあたりが、このお店の主力商品(?)のようである。乗っている人が多いメーカの方が、慣れていて乗りやすいということもあって、トヨタ車ということなのだろうか。同じメーカであれば、操作のボタン類の配置が同じように作ってあるはずである。とにかく、今の自動車は、ボタンだらけである。それから、私見としては、ナビの性能、操作性、ということも自動車の性能の一部と感じる。
2026年4月11日記
『豊臣兄弟!』「絶体絶命!」 ― 2026-04-13
2026年4月13日 當山日出夫
『豊臣兄弟!』「絶体絶命!」
この回は、面白かったのだが、それでも、肝心の主人公(たち)のことが、今ひとつ分からない。
金ヶ崎からの撤退戦である。軍事の常識として、撤退戦の難しさは、当然のことである。これをやってのけたことが、藤吉郎と小一郎にとって、おおきな軍功であった、ということになる。
だが、この撤退戦がうまくいったのは、半分以上は、竹中半兵衛の事前の調査によっている。この部分から見ると、戦国の時代を、これから生きのびた藤吉郎と小一郎の、戦略ということが見てとれることになる。
ここから、京から戦場への兵站ということを常に考えている、藤吉郎と小一郎ということになるといいかなと思うが、どうだろうか。特に、小一郎が、それを深く考えて、今後は、ロジスティクス重視、その担当ということになる、こういう展開だと面白い。(最終的に、秀吉の、朝鮮出兵が失敗した理由の一つは、ロジスティックスを考えていなかったから、ということもあるはずであり、このときには、小一郎(秀長)の助言がなかったから、ということになるかなと思っているのだが。)
引き返す戦い、ということでは、後の本能寺の変において、備中高松城からとって返して、光秀を討ち取ったことにつながるので、このときのための伏線として見ておくと、意味のある回だった。
この回で、良かったと感じるのは、やはり周辺の人物。竹中半兵衛であり、織田信長であり、将軍義昭であり、ということかなと感じる。主人公の二人(藤吉郎と小一郎)は、特に何をしたという印象がないし、策があったということでもない。とにかく、頑張っていたことは分かるが、それ以上ではない。
このドラマは、見ていて、「太閤記」として見ると、何かものたりない。藤吉郎と小一郎は、叫んでいるばかりで、具体的にどんなことを考えているのか、実際にどのような仕事をしているのか、ということが描かれない。信長への忠誠心と、兄弟のおたがいを思う気持ちだけはある、ということでしかない。意図的に、このような人物造形にしているのかとも思うが、やはり「太閤記」としては、自分の才覚で時代を切り拓いていった物語ということを、期待するところがある。
年号が、元亀になる。年号を、将軍の意向を反映して決めるとしても、その手続きは、ただ、将軍がこれがいいだろうというアイデアを出して決まるというものではなかったはずである。これは、今の令和の年号に決まる過程が、かなり明らかになってしまっていることもあるし、また、過去の年号がどうやって決まったかについての、歴史的な研究もある。ここのところは、ちょっと現代風の感覚で描きすぎているところかと感じる。
しんがりの戦いで、藤吉郎と小一郎たちは、刀を持っていた。槍を持った足軽はいなかった。これは、足軽たちは、とっくに逃げ出してしまっていなくなっていて、刀を持つ武士階級のものしか残っていなかったということの演出かなと思って見ていたのだが、どうだっただろうか。
2026年4月13日記
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