心おどる「あの人の本棚 (4)クリス智子(ラジオパーソナリティー)」 ― 2026-08-28
2026年8月28日 當山日出夫
心おどる「あの人の本棚 (4)クリス智子(ラジオパーソナリティー)」
今の生活では、ラジオを聞くということがなくなってしまっている。若いころは、ラジオだけがあった、という生活だったのだが。さらにその前になると、「日曜名作座」はかなり聞いていた。森繁久彌の時代のころのことである。
出てきていた本は、その装丁をふくめて、モノとしての本ということであつかってある。こういう本の見方が、本来のことなのだとは思う。だが、私にとって本とは、そういう面もあるのだが、何よりも、国語学研究者としての商売道具であるので、とにかく書庫には本をおいておく、ということである。それから、どういう活字で印刷してあるかということも、文字や表記ということを、考えてきたこともあって、重視することではある。
だが、このごろは、紙の本は基本的に買わなくなった。読む本は、Kindle版があれば、それを買う。理由の一つは、老眼になって、小さい字を読むのがつらくなったということがある。それから、純然とテキストということを考えると、本や活字から離れたところにある、ことばということを考えるようになったということもある。こういうことを強く考えるきっかけになったのは、市川沙央のことがある。
中原中也の詩を読むのに、紙の本、しかも、オリジナルの復刻版ということも、一つの選択肢であるが、同じように、純然とテキストだけを読むとなると、Kindle版でも同じことである。中原中也の詩を朗読するとして、それを耳で聞いている人には、音声としてのことばが聞こえるだけで、どんな本で、どんな活字で、ということは、まったく関係ない、捨象されてしまう。だが、それでも、オリジナルに近い紙の本で読みたくなる……これも、また、理解できることである。
番組を作った人が意図的にそうしたかどうかであるが……中原中也の詩の朗読の部分で、画面に字幕で表示されるテキストは、旧字旧仮名、つまり、オリジナルの表記を残している。これは、一般に、学校教科書(国語)において、詩歌が教材として掲載される場合でも、小説などは、現代仮名遣いに改めるが、詩歌については、もとの表記を尊重するという、よく考えてみると、なんだかわけのわからない慣習のようなものがある。
料理の本は、時代とともに、その作り方が変わっていく。同じレシピを掲載するとしても、その説明のしかた、図版や写真のいれかたなど、時代とともに変遷がある。
どうでもいいことかと思うが……昨年、NHKが放送100年で、いろんな番組を作ったなかで、私が見て一番面白かったのは、「きょうの料理」の100年。昔のラジオでの料理番組のときのことが、非常に興味深かった。ラジオのことば(音声)だけで、料理の作り方を伝えるというのは、とても難しいことだと思えるが、その歴史があって、今の時代にいたっているということを考える。さかのぼれば、江戸時代の料理本の数々にまでたどり着くことになるが。
2026年8月26日記
映像の世紀バタフライエフェクト「特攻 若者たちの絶望と祈り」 ― 2026-08-28
2026年8月28日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト「特攻 若者たちの絶望と祈り」
最後まで見て、名前が出ていたのは、一ノ瀬俊也、菊月俊之、柴田武彦。
特攻については、これまでに多くのことが語られてきている。その中で、この番組で目新しかったことは、いくつかある。
アメリカ軍のVT信管の開発の映像。これは、マリアナ沖海戦で、マリアナの七面鳥撃ちといわれたことになるが、その後、沖縄戦で威力を発揮することになる。アメリカ軍の技術としては、まず、レーダーでまさり、MT信管、そして、VT信管を実用化した。こういうことの技術力の差、というべきだろう。
それから、安藤昇のこと。特攻くずれ、ということは、かつてはいろいろと目にするこがあったが、このごろは、ほとんど使われなくなった。生き残った特攻隊員たちが、戦後の日本で、どのように生きてきたか、その総合的な調査、研究ということが、必要だろう。
ただ、いくつかの事例をとりあげて……関行男であったり、上原良司であったり、千玄室であったり……その心情をおもんぱかるのはいいのだが、その一方で、特攻くずれといわれた人たちがいたことも、重要なことである。
出てきていたのは、飛行機による特攻の他には、震洋、伏龍、だった。回天は出てきていなかった。また、マルレも、生還を期しがたい特攻兵器である。他にも、桜花のこともある。これは、搭乗した時に、すでに生還することは不可能である。(かなり以前、靖国神社の遊就館ではいったすぐのところに、桜花が展示されていたのを憶えている。これを展示していた意図はいった何だったのだろうと、今になっても思う。どう考えても、日本軍の勇猛果敢ということにはつながらない。太平洋戦争末期の無謀としか思えないことになるのだが。)
特攻隊員であった人たちのその後にも、いろいろとある。私が実際に会ったことのある人物としては、回天の搭乗員だった人がいる。戦後は、国文学の分野、いくつかの仕事を残した人であるが。また、回天の整備員をしていて、戦後は、その技術で、自動車の整備工場を作って経営したという老人にあったこともある。
吉田満のことばを出さなかったのは意図的にそう作ったのだろう。そのかわりに、伊藤整一が出てきていた。戦艦大和の艦長であったこの軍人のことは、吉田満の『提督 伊藤整一』を読んで憶えた。
今の時代に必要なことは、特攻の言説史である。それは、特攻くずれがどう思われていたかということをふくみ、また、例えば、『紫電改のタカ』(ちばてつや)などをふくむものとして、総合的に資料をあたり、考えるべきだろう。
2026年8月25日記
ドキュメント72時間「横浜 港のマンション今昔物語」 ― 2026-08-28
2026年8月28日 當山日出夫
ドキュメント72時間「横浜 港のマンション今昔物語」
横浜の港の近くのマンションである。というよりも、そこの一階にテナントとしてはいっている食べ物屋さんと、そこに来るお客さんということがメインだった。
港の近くに、港湾労働者向けの住宅がある、というのは、これはもっともなことである。昔は、港街というと、船員とか港湾労働者とか、昔風の言い方をするならば、あまりがらのよくない人たちの集まるところ、というイメージがあった。一方、港街として、ハイカラな雰囲気も、形成されてきた。この相反するイメージの歴史ということを、まず思ってみることになる。
職住接近で作られたマンションとして、建物の中には、小規模ながら商店街もあったらしいが、今では、しまってままである。こういうことは、郊外の団地などでも、昔は団地内に商店街があったが、もう今では消えてしまった、ということはある。これも、時代の流れである。
陸の孤島と言っていた。港には近いかもしれないが、鉄道の駅には遠い。昔の人だったら歩いた距離ということになるだろうか。現代なら、自動車か、自転車か、ということだと思うが、見ていて、それに見合った駐輪場とか駐車場とかは、映っていなかった。ここに住んでいる人たちは、いったいどういうふうに生活しているのだろうか。
飲食店の場面を見ると、とにかく量が多い。港湾での仕事をする人が相手ということだろうから、どうしても量が多くなるのかと思う。そして、値段もリーズナブルなようである。
今の港での仕事という、どんなふうになっているのだろうか。昔だったら、はしけがあったり、沖仲仕の仕事があったり……もう、今では、こんなことばを使うことはないのだが……であった。現代では、ガントリークレーンがあって、コンテナ輸送のトラックがあって、ということの他にも、いっぱい関連する仕事があるのはずだが。
このマンションの歴史は、おそらく日本の戦後の歴史に重なる部分が多くあるのだろうと思いながら見ていた。ここで働いてきた人の仕事があって、戦後の日本があった。
興味深かったのは、無線機を売るお店があったこと。おそらく、港湾の仕事では、今でも使われているということなのだろう。
2026年8月17日記
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