デジタル・ヒューマニティーズ(071205)版木の研究から何が見えるか2007-12-05

立命館GCOEの昨日(2007-12-04)の火曜セミナーの発表は、『版木語る』(永井一彰・奈良大学教授)の話し。今、奈良大学には、7000点以上の、版木が集まっている。

版木とは、主に江戸時代、木版による製版印刷がおこなわれていたときの、印刷のための「版」の「板」。

版木の歴史的変遷など、既に印刷された「書物」からでは得られない、近世の出版の事情が分かって、非常に有益な研究会であった。

が、問題は、これから。これを、どのように、デジタル・アーカイブするか、そして、それを、どのように、近世の出版文化史研究に役立てるか、ということ。さらには、デジタル・ヒューマニティーズとして、どのような成果を得ることが可能か。

実物を、手でさわって、人間の眼で見て・・・という研究も大事。

その一方で、デジタルならではの研究領域を、さぐる。まずは、版木の画像デジタル・アーカイブ、これも、単に正面からの画像だけではなく(これは、単に、まっくら)、多方面からの照明をつかった、文字の読めるものでなければならない。

さらには、高精細の3Dスキャン、だろう。「彫り」の痕跡から、版木を作っていく、文字を彫る、絵を彫る、そのプロセスが解明できるとよい。

私の基本的専門領域は「文字」にかかわることである。紙に書かれた、印刷された文字、だけではなく、「版木」というモノから文字を考える視点に、今後、期待したい。

デジタル・ヒューマニティーズ(071205)目録を読む2007-12-05

GCOE火曜セミナーでの永井先生の講演・・・その、冒頭で、このような趣旨のことを、おっしゃった。

芭蕉という人がいる。きわめて傑出した作者である。だが、芭蕉だけを見ていたのでは、わからないことがある。近世には、その他に、数多くの俳諧師がいた。その数多くの俳諧師の頂点に、芭蕉がいる。まず、全体の様相を把握しておかなければならない。

(講演者の永井先生の専門が、近世の俳諧、特に、蕪村、であることを、ARCの赤間先生が、最初に紹介したことをうけてのことと、思う。)

この講演、話題の中心は、あくまでも「板木」についてのものであったので、この冒頭の発言は、近世の出版文化の全体像を把握するためには、という意味での前置きであったのだろう。

デジタル・アーカイブについて考えるならば・・・

全体像が見えないと困る。画像デジタル・アーカイブ、といっても、キーワードで検索しないと何も出てこない、では、こまってしまう。また、そのキーワードも、表記の問題がある。

冊子・書物の画集などであれば、パラパラとページをめくれば、いや、それ以前に、その本の、物理的な大きさで、どの程度の画像(絵)が、収録されているか、わかる。

板木研究は、既存の研究領域の区分では、書誌学にかかわる。東洋学(中国学)では、目録学ともいう。学問の基本として、まず、この知識が必須。まず、四庫分類が、頭の中に入っていないといけない。

学生のとき、先生(太田次男先生)から、授業中におそわったこと。たしか、学部の2年か3年のときの、漢文学の講義であったと記憶する。

『内閣文庫の目録(和書・漢籍)を、読みなさい。』

内閣文庫目録は、日本における書誌学の泰斗・長沢規矩也の手になるもの。

いま、各種学術資料のデジタル・アーカイブ、図書・論文のオンライン検索が当然になった時代・・・本のかたちをした目録を読む、このようなことを、学生に指導することは、不可能だろう。逆に、いかに、インターネットで学術情報を探すか、検索テクニックを教えなければならない。

目録を読む・・・これは、われわれが、デジタルの世界で、失ってしまった「学知」の継承のあり方の一つであろう。

本の値段2007-12-05

本というものは、どれほど読まれたのだろうか?

正直に言って、大学で国文学専攻、ということでありながら、よく知らないのである。

現在の専門である、文字、という視点からとらえなおせば、リテラシ、ということになる。しかし、ただ、字が読めるということと、本が買える、ということは、また、別である。本の価格は、どれほどの社会的意味があるのか。

こんなことを、轟亭さんのブログを、読みながら考えた。

轟亭の小人閑居日記 http://kbaba.asablo.jp/blog/2007/12/05/2472565/tb

昨日は、立命館で、板木の研究会。近世、板木は、徹底的に再利用したとのこと。いわゆる「もったいない」のリサイクルではなく、板木の板(木材)のコストの問題ということになるのだろうか。

必要になったので、新しく買った『学問のすゝめ』(福澤諭吉)、岩波文庫は、560円。

最初、『学問のすゝめ』が、刊行された当時、どれほどの価格で、それは、社会的にどのような意味の値段だったのだろうか。

インターネットによる、無料、を前提とした学知の構築のなかで・・・考えてみたくなった。