100分de名著「フッサール“ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学” (3)現象学的還元によって見えるもの」2025-07-31

2025年7月31日 當山日出夫

100分de名著 フッサール“ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学” (3)現象学的還元によって見えるもの

録画してあったのをようやく見た。

見ながら思ったこととしては……では、なぜ、人間は意識を持つものとして進化してきたのだろうか、ということである。人間の意識というものも、生物としての人間の進化の結果として生じたものであることはたしかだろう。ならば、人間が意識を持つように進化するための必然性というようなものを考えることができるだろうか。そして、他の生物、イヌでもいいしネコでもいいが、が持っている(であろう)意識と人間の意識とは、どう区別する、あるいは、できないものなのだろうか。

現代で考えることとしては、さらに、生物によって還世界が異なるということがある。人間の知覚と、他の生物はことなる。人間が聞く音の世界と、イヌが聞く音の世界はちがっている。モンシロチョウの見る色彩の世界は異なる(紫外線の領域まで見ることができる)。鳥などは、地磁気を感じることができる。

これらをふくめて、進化の筋道ということを視野にいれて、人間の意識とは何であると考えるべきなのだろうか。

いや、そうではなく、人間の意識を完全に所与のものとして考えると、こうなる、ということでいいのだろうか。

人間の意識も、DNAと脳の化学的反応に還元して考えることが、普通の考え方になってきている現代において、そのうえで、人間が意識をもつこと、そして、それは、他の人間と、かなりの部分(完全にとはいかないが)共有可能なものであること、これは、疑いようのないことになるだろう。

2025年7月30日記

BS世界のドキュメンタリー「外国に“売られた”養子たち-暴かれる偽りの構造-」2025-07-31

2025年7月31日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「外国に“売られた”養子たち -暴かれる偽りの構造-」

2024年、フランスの制作。

昔、まだ人類がDNAというものを発見する前の方が、幸せに生きることができたのかもしれない……ということが、見て思うことである。

自分の出自を知りたい、これは納得できる気持ちなのだが、それが、人間を個人として決定づけるものがDNAである、という科学的な知識にもとづくものであるして、さて、このようなDNA至上主義という考え方は、人間を幸せにするものなのだろうか。

ヨーロッパの国の人びとが、多くの国際養子縁組を望んでいるというのは、どういう心情にもとづくものなのだろうか。差別的な見方になるかとも思うのだが、西欧の人が、アジア人の子どもを、養子に欲しがる、というのは、どういう気持ちからなのだろうか。普通に考えて、同じ国内で、同じ人種、同じ民族、同じ宗教、という人からもらうということを選択することになるのだろうと思うのだが、そうではないらしい。

以前に、アメリカに渡った子どもが、成長して故国(?)の本当の親(遺伝的な親?)を探すということで、NHKが番組を作っていた。これは、かなり好評だったようで、なんどか再放送していた。アメリカだから、アジア(この場合、中国)からの養子ということも、選択肢にあったことかと思って見ていた。いわゆる人種的な多様性に寛容ということである。無論、これは、中国の一人っ子政策の犠牲者という面もある。

西欧の国々については、アメリカほど、人種的多様性に寛容という印象は持っていなかったのだが(むしろ、近年では、外国からの移民に厳しい)、養子として育てるとなると、また違った考え方になるのだろうか。このあたりの説明がほしいところであった。(フランスの制作の番組だから、こういうことは、自明のことだったのかとも思うが。)

韓国から多くの子どもが養子としてもらわれていったということは、はじめて知った。婚外子、シングルマザー、ということで生きていくのが厳しい社会ということなのだが、現在ではどうなのだろうか。世界で最も少子化の進んでいる国であるが、どのような出自の子どもでも、社会全体であたたかく育てるという方向になっているのだろうか。

自分の親を探すということで、DNAのデータベースを検索、と出てきていた。自分のDNAをインターネット上で公開しているということが、にわかには信じがたいことなのだが、これは、今の世界では、どのようになっているのだろうか。おそらく日本では、自分のDNA情報をインターネットで公開する、ということは、まずありえないことだと思える。

国際的な養子ということ自体は、決して悪いことではないと思うのだが、そこに人身売買のようなビジネスがからんでくるとなると、いろいろと問題がある。また、子どもを選ぶときに、おそらくDNAの検査ということはあるにちがいないが、これは、優生思想ということになるはずである。

子どもが産まれるのも、産まれないのも、それもそれぞれの人間の運命である、という昔の考え方にもどることは、世界的にみて、もう不可能になっているということはいえるだろう。

2025年7月21日記

ブラタモリ「魅力度No.1函館の町▼なぜハイカラに?人気観光都市のヒミツ」2025-07-31

2025年7月31日 當山日出夫

ブラタモリ 魅力度No.1函館の町▼なぜハイカラに?人気観光都市のヒミツ

函館には行ったことはあるのだが、街の印象はほとんど記憶にない。今から何十年も前のことであり、函館山の夜景こそ観光地だったが、それ以外あまり有名な(?)ものはなかったように覚えている。

街の中に、洋風の建物が残っている。海から見て、洋館が建ち並んでいるような街にしたかったということなのだが、これは、行政が指導してということなのだろうか。北海道の街の多くは、かなり計画的に作られたかと思っているのだが、函館の都市計画というのは、どのような変遷をたどってきたものなのかと思う。

外観は洋風だが、内部は和風というのは、外から見ればおよそ分かる。二階の窓の位置が低い。一階部分の屋根のひさしの位置で、だいたい二階の床の高さは分かるかと思うが、二階の窓が低い位置にある。これは、二階が和風の造りになっていて、床に座るように作ってあるからだろう。そのため、窓の位置が、床に近い高さになる……私は、このように思って見ていたのだが、建築史の観点からはどうなのだろうか。

火事が多かったということなのだが、昔の、日本の都市というのは、どれぐらいの火事があったのだろうか。江戸の街など、なんども燃えている。江戸城も燃えている。日本の火災史というような研究はあるのだろうが、どんなことが分かっているのだろうか。

坂の上に建てられた公会堂が立派である。こういう立派な建物を建てることができたということは、この時代の函館は、お金持ちの街であった、ということになるのだろう。その財産は、どうやってかせいだものだったのだろうか。

コンクリートで作った電柱が残っているのは、とても面白い。四角に作ってあるのだが、この内部はどうなっているのだろうか。そして、なぜ、丸くではなく、四角く作ってあるのだろうか。(そういえば、今の日本では、電柱はみんなコンクリート製になってしまった。木の電柱があった時代のことを、私は記憶しているが、これは、いったいいつごろまでのことだったのだろうか。)

昔のコンクリート造りの建物が残っているのは、貴重といえば貴重である。しかし、見方によっては、都市の再開発の流れに取りのこされて、残ってしまっただけのことであり、それが、逆に幸いして、今では観光資源になっている、ということになるのかもしれない。

一番面白かったのは、地下の貯水池とダムである。人が生活するには、水が必要である。その水を、どのように供給するかは、都市計画の基本であろう。また、(番組の中では言っていなかったが)幕末から貿易港として開かれたということは、船に飲料水を供給できる港である、ということも必要なことであったにちがいない。

バットレスダムというのは、初めて見たかと思う。コンクリートを少なく使い、しかも、工期が短いというのは、いいことづくめのようだが、普及しなかったのは何故なのだろうか。

函館の市内から見える場所に、ヒグマが出るというのは、これも今の時代のことである。

エマニエル夫人といって覚えている人も、少なくなったのではないかと思うが、どうだろうか。

2025年7月27日記