美の壺スペシャル「昭和レトロ」 ― 2025-09-18
2025年9月18日 當山日出夫
美の壺スペシャル 昭和レトロ
再放送を録画したのがHDに残っていた。最初の放送は、2022年7月30日である。
先日、「映像の世紀バタフライエフェクト」で昭和の時代、特に、高度経済成長の時代のことをとりあげていた。その光の面と影の面を、対照的に編集してあった。ただ、私が、「映像の世紀バタフライエフェクト」を見て、なんとなくもの足りなく思ったこととしては、この時代を生きた人びとの生活の感覚ということが、今ひとつ伝わってこなかった、ということがある。生活の感覚というのは、「記録」(映像であれ、ことばであれ)には残りにくいものである。
しばらく前に読んだ(読みかえした)本に『明治大正史 世相編』(柳田国男)がある。これは、昭和6年の作品である。その始めは、近代における色彩の解放、ということからである。また、着るものが木綿が広く使われるようになり、さらに化学繊維製品が使われるようになって、衣服の着心地が変わってきた、ということも語られている。
戦後の高度経済成長期に、例えば、カラー写真、カラーテレビが普及し、映画もカラーが普通になって、印刷物・出版でもカラー印刷が増えた……このことによって、人びとは、世界の色をあらためて認識するようになった、こう思ってみることは、そうまちがっていないだろう。しかし、こういうことを、記録、史料、資料にもとづいて論じるとなると、とても難しい。
花柄の食器や調理器具など、憶えている。探せば、家のなかに眠っているかもしれない。そして、今、私が、この文章を書いているのは、リビングのテーブルの上だが、花が花瓶に活けてある。普通の生活のなかに、花がこのように置かれるということは、いつごろからのことになるだろうか。
トランジスタラジオ、ラジカセの普及は、音楽を、個人の楽しみにした。それまで、ラジオは、居間におかれてみんなで聴くものだったのが、個人の部屋で聴くものなり、野外でも聴くようになった。その後、この流れを決定づけたのが、Walkmanだったことになるだろうが。
昭和歌謡のことも出てきていたが、いわゆる古い歌謡曲の流れのなかにあって、私の経験として、非常に斬新で新しかったのは、「17才」(南沙織)だったり、「神田川」(かぐや姫)だったり、「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)だったり、ということかと思っている。(そして、大学生なったのだが、同じ慶應義塾大学の文学の同学年には、竹内まりやがいたことになる。)
生活の感覚ということでいうと、この時代は、まだエアコンが普及していない時代でもあった。気候変動ということで、今の時代は、夏は暑い(さらに猛暑)ということが普通になっているが、昭和50年代ぐらいまでは、エアコンのない夏が都市部でも普通だった。
六本木の喫茶店のことがでてきていた。昔のメニューが映っていたが、コーヒーが150円だった。このメニューでは、飲み物のコーヒーが、食べ物などの次に書いてあった。普通は、喫茶店、というぐらいだから、飲み物がまず書いてあるかと思うのだが、この店はちょっと違っていたようだ。
喫茶店も無くなった。最近の都市部に多くできたカフェは、客を長居しないように作ってある。
気になることとしては、こういう番組の趣旨からしてそうなるのだろうが、どうしても、都市部の生活が中心になる。だが、昭和の高度経済成長期は、農村部から都市部への人口移動の時代でもあり、農村部での生活のスタイルも大きく変化した時代でもある。私が小さかったころは、家のなかに囲炉裏があり、牛や馬が普通にいた。それが、耕運機、トラクターに変わっていった時代でもある。
電話の普及も、人びとの生活の感覚を大きく変えた。家に電話がないのが当たり前だった時代から、電話のある時代になり、携帯電話になり、スマートフォンになり、そして、いわゆる固定電話が減少していっている……こういう時代の流れを経験してきていると、さて、この間の人びとのつながり、通信手段の変化が、人びとの関係や社会をどう変えていったのか、みずからかえりみて、どのように記述することができるのかと思う。これは、民俗学などの分野の研究ということになるのだろうか。あるいは、新しい研究領域として構築することになるのだろうか。
その他、思うことはいろいろとある。これを、老人の回顧譚ではなく、人びとの生活の感覚の歴史として記述するにはどうすべきか……これは、これからの若い人たちの仕事にまかせることになるかと思っている。このごろのものとしては、生活史、生活誌という方法論で、集合的な生活の感覚の変化を記述するということも、一つの方法だろう。
今、読んでいるのは、『夕陽が丘三号館』(有吉佐和子、Kindle版)であるが、1970年(昭和45)の作品である。まさに、昭和の戦後の高度経済成長期の物語として読める。
2025年9月13日記
美の壺スペシャル 昭和レトロ
再放送を録画したのがHDに残っていた。最初の放送は、2022年7月30日である。
先日、「映像の世紀バタフライエフェクト」で昭和の時代、特に、高度経済成長の時代のことをとりあげていた。その光の面と影の面を、対照的に編集してあった。ただ、私が、「映像の世紀バタフライエフェクト」を見て、なんとなくもの足りなく思ったこととしては、この時代を生きた人びとの生活の感覚ということが、今ひとつ伝わってこなかった、ということがある。生活の感覚というのは、「記録」(映像であれ、ことばであれ)には残りにくいものである。
しばらく前に読んだ(読みかえした)本に『明治大正史 世相編』(柳田国男)がある。これは、昭和6年の作品である。その始めは、近代における色彩の解放、ということからである。また、着るものが木綿が広く使われるようになり、さらに化学繊維製品が使われるようになって、衣服の着心地が変わってきた、ということも語られている。
戦後の高度経済成長期に、例えば、カラー写真、カラーテレビが普及し、映画もカラーが普通になって、印刷物・出版でもカラー印刷が増えた……このことによって、人びとは、世界の色をあらためて認識するようになった、こう思ってみることは、そうまちがっていないだろう。しかし、こういうことを、記録、史料、資料にもとづいて論じるとなると、とても難しい。
花柄の食器や調理器具など、憶えている。探せば、家のなかに眠っているかもしれない。そして、今、私が、この文章を書いているのは、リビングのテーブルの上だが、花が花瓶に活けてある。普通の生活のなかに、花がこのように置かれるということは、いつごろからのことになるだろうか。
トランジスタラジオ、ラジカセの普及は、音楽を、個人の楽しみにした。それまで、ラジオは、居間におかれてみんなで聴くものだったのが、個人の部屋で聴くものなり、野外でも聴くようになった。その後、この流れを決定づけたのが、Walkmanだったことになるだろうが。
昭和歌謡のことも出てきていたが、いわゆる古い歌謡曲の流れのなかにあって、私の経験として、非常に斬新で新しかったのは、「17才」(南沙織)だったり、「神田川」(かぐや姫)だったり、「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)だったり、ということかと思っている。(そして、大学生なったのだが、同じ慶應義塾大学の文学の同学年には、竹内まりやがいたことになる。)
生活の感覚ということでいうと、この時代は、まだエアコンが普及していない時代でもあった。気候変動ということで、今の時代は、夏は暑い(さらに猛暑)ということが普通になっているが、昭和50年代ぐらいまでは、エアコンのない夏が都市部でも普通だった。
六本木の喫茶店のことがでてきていた。昔のメニューが映っていたが、コーヒーが150円だった。このメニューでは、飲み物のコーヒーが、食べ物などの次に書いてあった。普通は、喫茶店、というぐらいだから、飲み物がまず書いてあるかと思うのだが、この店はちょっと違っていたようだ。
喫茶店も無くなった。最近の都市部に多くできたカフェは、客を長居しないように作ってある。
気になることとしては、こういう番組の趣旨からしてそうなるのだろうが、どうしても、都市部の生活が中心になる。だが、昭和の高度経済成長期は、農村部から都市部への人口移動の時代でもあり、農村部での生活のスタイルも大きく変化した時代でもある。私が小さかったころは、家のなかに囲炉裏があり、牛や馬が普通にいた。それが、耕運機、トラクターに変わっていった時代でもある。
電話の普及も、人びとの生活の感覚を大きく変えた。家に電話がないのが当たり前だった時代から、電話のある時代になり、携帯電話になり、スマートフォンになり、そして、いわゆる固定電話が減少していっている……こういう時代の流れを経験してきていると、さて、この間の人びとのつながり、通信手段の変化が、人びとの関係や社会をどう変えていったのか、みずからかえりみて、どのように記述することができるのかと思う。これは、民俗学などの分野の研究ということになるのだろうか。あるいは、新しい研究領域として構築することになるのだろうか。
その他、思うことはいろいろとある。これを、老人の回顧譚ではなく、人びとの生活の感覚の歴史として記述するにはどうすべきか……これは、これからの若い人たちの仕事にまかせることになるかと思っている。このごろのものとしては、生活史、生活誌という方法論で、集合的な生活の感覚の変化を記述するということも、一つの方法だろう。
今、読んでいるのは、『夕陽が丘三号館』(有吉佐和子、Kindle版)であるが、1970年(昭和45)の作品である。まさに、昭和の戦後の高度経済成長期の物語として読める。
2025年9月13日記
歴史探偵「幕末ミステリー ええじゃないか」 ― 2025-09-18
2025年9月18日 當山日出夫
歴史探偵 幕末ミステリー ええじゃないか
たまたま目についたので録画しておいた。
ええじゃないか、については、幕末の歴史のなかで登場する。基本的には、民衆史、というような分野の研究になるのかと思う。また、伊勢信仰の歴史の一つということもある。
見ていて思ったことを、書いておくと。
なぜ、この時期にこんなことが起こったのだろうか。これは、謎のようである。誰かが仕組んだことかもしれないし、また、それに反応する人びとの心性、生活感覚の何か、ということもあったのだろう。
突然はじまって、突然おわった、ということなのだが、これは、どうしてなのだろうか。
京都の街では、下京あたりが中心であったらしいが、商業地区と言っていいし、なぜ、この地域に集中的だったのだろうか。岩倉具視が史料を残しているのだが、では、なぜ岩倉具視は、この出来事を書き記す必要があったのだろうか。幕末の京都だから、他にもたくさん史料が残っていそうなものだが、はたしてどれぐらい研究されているのだろうか。
実際の踊りを描いた絵などを史料として見ると、異性装ということが観察できることになるが、これは、おそらく、まつり、として高揚した気分であったことをしめすのだろう。日本における祭礼や神事などと、異性装、そして、芸能という観点から面白いことだと思う。
伊勢神宮のお札が天から降ってきた、ということだが、外宮のものである。今では、伊勢神宮というと、内宮、がメインのようになっている。これは、現在の観光地としてのあり方である。だが、歩いて旅をし、また、鉄道を通したときには、外宮がメインであった。今では、外宮に参拝する人は、少なくなってしまっているけれど。
ええじゃないかは、『夜明け前』(島崎藤村)に出てくる。この作品は、これまでに、二~三回読んでいるのだが、作品中に描かれたええじゃないかのことについては、はっきり憶えていない。さて、読みなおしてみようか、どうしようか。文学作品としては、もう一回読んでもいいかなと思う。幕末から明治にかけての、庶民の生活の感覚ということを丁寧に描いた作品だと思っている。
2025年9月11日記
歴史探偵 幕末ミステリー ええじゃないか
たまたま目についたので録画しておいた。
ええじゃないか、については、幕末の歴史のなかで登場する。基本的には、民衆史、というような分野の研究になるのかと思う。また、伊勢信仰の歴史の一つということもある。
見ていて思ったことを、書いておくと。
なぜ、この時期にこんなことが起こったのだろうか。これは、謎のようである。誰かが仕組んだことかもしれないし、また、それに反応する人びとの心性、生活感覚の何か、ということもあったのだろう。
突然はじまって、突然おわった、ということなのだが、これは、どうしてなのだろうか。
京都の街では、下京あたりが中心であったらしいが、商業地区と言っていいし、なぜ、この地域に集中的だったのだろうか。岩倉具視が史料を残しているのだが、では、なぜ岩倉具視は、この出来事を書き記す必要があったのだろうか。幕末の京都だから、他にもたくさん史料が残っていそうなものだが、はたしてどれぐらい研究されているのだろうか。
実際の踊りを描いた絵などを史料として見ると、異性装ということが観察できることになるが、これは、おそらく、まつり、として高揚した気分であったことをしめすのだろう。日本における祭礼や神事などと、異性装、そして、芸能という観点から面白いことだと思う。
伊勢神宮のお札が天から降ってきた、ということだが、外宮のものである。今では、伊勢神宮というと、内宮、がメインのようになっている。これは、現在の観光地としてのあり方である。だが、歩いて旅をし、また、鉄道を通したときには、外宮がメインであった。今では、外宮に参拝する人は、少なくなってしまっているけれど。
ええじゃないかは、『夜明け前』(島崎藤村)に出てくる。この作品は、これまでに、二~三回読んでいるのだが、作品中に描かれたええじゃないかのことについては、はっきり憶えていない。さて、読みなおしてみようか、どうしようか。文学作品としては、もう一回読んでもいいかなと思う。幕末から明治にかけての、庶民の生活の感覚ということを丁寧に描いた作品だと思っている。
2025年9月11日記
クラシックTV「ベートーベン ザ・デスティニー」 ― 2025-09-18
2025年9月18日 當山日出夫
クラシックTV 「ベートーベン ザ・デスティニー」
ベートーベンの曲は、あまり聴かない。持っているCDもいくつかあるのだが、ほとんど書庫の方に本と一緒にしまってしまってある。朝、4Kのクラッシック倶楽部を見ていて、ベートーベンの曲を演奏している聴いているぐらいである。
ただ、手元にあるWalkmanには、ベートーベンのチェロソナタ3番、はコピーしていれてある(FLAC)。これも、傑作の森、といわれる時期の作品なのだが、番組ではふれていなかった。
私の好みとしては、自然に人間の心の中からうかびあがってくるような音楽が好き、ということがある。この意味でいうと、ベートーベンの交響曲は、それを作った、という作曲家の意志を強く感じる。だからどうこうということはないのだが、一人で静かに座ってヘッドフォンで聴いているときに、心のなかに静かに染み込んでくるような感じと言っていいだろうか、これがチェロソナタ3番の、特にチェロの旋律にはある。
それから、ピアノ三重奏曲「大公」もいれてある。これは、村上春樹の『海辺のカフカ』に出てくるので、聴いてみたくなって買った。
特にベートーベンに限らないが、その音楽を聴いていて、これは何かを表現したのだ、という強い意志を感じる。音楽としてどう感じるかということもあるが、その意志をうけとめることができるかどうか、というところが、好き嫌いということをふくめて分かれ目になるのかもしれないと思ったりする。私にとって、意志を感じることよりも、自然に生まれてくる何かが心のなかにひびく、ということに、気持ちがかたむくことになる。
交響曲の全集も何セットかあるし、弦楽四重奏曲もいくつかあるのだが、秋になって涼しくなったら、書庫の中を探してみようかと思う。
2025年9月11日記
クラシックTV 「ベートーベン ザ・デスティニー」
ベートーベンの曲は、あまり聴かない。持っているCDもいくつかあるのだが、ほとんど書庫の方に本と一緒にしまってしまってある。朝、4Kのクラッシック倶楽部を見ていて、ベートーベンの曲を演奏している聴いているぐらいである。
ただ、手元にあるWalkmanには、ベートーベンのチェロソナタ3番、はコピーしていれてある(FLAC)。これも、傑作の森、といわれる時期の作品なのだが、番組ではふれていなかった。
私の好みとしては、自然に人間の心の中からうかびあがってくるような音楽が好き、ということがある。この意味でいうと、ベートーベンの交響曲は、それを作った、という作曲家の意志を強く感じる。だからどうこうということはないのだが、一人で静かに座ってヘッドフォンで聴いているときに、心のなかに静かに染み込んでくるような感じと言っていいだろうか、これがチェロソナタ3番の、特にチェロの旋律にはある。
それから、ピアノ三重奏曲「大公」もいれてある。これは、村上春樹の『海辺のカフカ』に出てくるので、聴いてみたくなって買った。
特にベートーベンに限らないが、その音楽を聴いていて、これは何かを表現したのだ、という強い意志を感じる。音楽としてどう感じるかということもあるが、その意志をうけとめることができるかどうか、というところが、好き嫌いということをふくめて分かれ目になるのかもしれないと思ったりする。私にとって、意志を感じることよりも、自然に生まれてくる何かが心のなかにひびく、ということに、気持ちがかたむくことになる。
交響曲の全集も何セットかあるし、弦楽四重奏曲もいくつかあるのだが、秋になって涼しくなったら、書庫の中を探してみようかと思う。
2025年9月11日記
3か月でマスターするアインシュタイン「世界は「何」でできている?」 ― 2025-09-18
2025年9月18日 當山日出夫
3か月でマスターするアインシュタイン 世界は「何」でできている?
この回のタイトルだけを見ると、古代のギリシャの哲学者が何を考えたか、ということであってもなんらおかしくない。はるか古代から、人間は、この世界が究極的には何でできているのか、ということを考えてきた。その知識と方法論がサイエンスとして確立し、それとともに各種のテクノロジーの発達があって、より理論が精確になり、検証が可能になってきた……という流れでいいのかと、私は思っている。
その現代の最前線の考え方……この回で超弦理論になるが……は、検証することができない、あるいは、まだできていない(将来的には、理論として完成したものになり、検証も可能になるかもしれない。)
これからの子どもたちがどのような世界に生きていくことになるのか、と思うのだが、少なくとも、サイエンスの方法論としての理論(あるいは、仮説)を考えることと、それを、確実に検証することとの関係……このことに、より自覚的になる科学教育が必要になるのではないかと、私は思っている。サイエンスの考え方は、場合によるとまちがっているかもしれないが、それを、正していくシステムも、その内部にふくんだものでなければならない。といって、永遠の不可知論に陥ってはならないのだが。
理科教育、科学教育にかかわる人たちが、どういうことを思っているのか、気になるところである。
サイエンスとはどういうことかについての理解は、(私の理解としては)この世界に神の存在を考えるかどうか、ということとは、人間のなかでともに存在しうるものだと思っている。
強いていえばということになるが、世界を統一的な理論で説明したくなるというのは、人間とはそういうものなのだろうという側面もある。ここで、安易な説明にとびつかない自省と自制が必要なことかもしれない。
それから余計なことかと思うが、この回の冒頭で、トマトが赤く見える理由の説明として、色彩が光の属性であるような部分があったが、これは、正しくない。人間の目と脳で赤と認識する波長の光があるだけのことである。
2025年9月17日記
3か月でマスターするアインシュタイン 世界は「何」でできている?
この回のタイトルだけを見ると、古代のギリシャの哲学者が何を考えたか、ということであってもなんらおかしくない。はるか古代から、人間は、この世界が究極的には何でできているのか、ということを考えてきた。その知識と方法論がサイエンスとして確立し、それとともに各種のテクノロジーの発達があって、より理論が精確になり、検証が可能になってきた……という流れでいいのかと、私は思っている。
その現代の最前線の考え方……この回で超弦理論になるが……は、検証することができない、あるいは、まだできていない(将来的には、理論として完成したものになり、検証も可能になるかもしれない。)
これからの子どもたちがどのような世界に生きていくことになるのか、と思うのだが、少なくとも、サイエンスの方法論としての理論(あるいは、仮説)を考えることと、それを、確実に検証することとの関係……このことに、より自覚的になる科学教育が必要になるのではないかと、私は思っている。サイエンスの考え方は、場合によるとまちがっているかもしれないが、それを、正していくシステムも、その内部にふくんだものでなければならない。といって、永遠の不可知論に陥ってはならないのだが。
理科教育、科学教育にかかわる人たちが、どういうことを思っているのか、気になるところである。
サイエンスとはどういうことかについての理解は、(私の理解としては)この世界に神の存在を考えるかどうか、ということとは、人間のなかでともに存在しうるものだと思っている。
強いていえばということになるが、世界を統一的な理論で説明したくなるというのは、人間とはそういうものなのだろうという側面もある。ここで、安易な説明にとびつかない自省と自制が必要なことかもしれない。
それから余計なことかと思うが、この回の冒頭で、トマトが赤く見える理由の説明として、色彩が光の属性であるような部分があったが、これは、正しくない。人間の目と脳で赤と認識する波長の光があるだけのことである。
2025年9月17日記
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