『虎に翼』「女冥利に尽きる?」 ― 2024-05-26
2024年5月26日 當山日出夫
『虎に翼』第8週「女冥利に尽きる?」
この週もいろいろあって、いろいろと書いてみたいことがある。
『虎に翼』というドラマの面白さということもあるが、それと同時に、このドラマに対するX(Twitter)などの反応を見ていると、興味深いことがある。反応の大部分は、ドラマを絶賛するものである。女を圧迫する壁は今日になっても変わっていないと、ドラマの時代よりも、今の日本の状況を糾弾するメッセージであふれている。
そのなかで興味深いことは、月曜日のラストの部分には、ほとんど反応がなかったことである。
寅子は、親権をめぐる裁判を担当する。しかし、その女性は嘘をついていた。援助をしてくれているということになっていた男性とは、不倫の関係にあり、二人の子どもも、その男性との間にできたものだという。寅子は、この事実を見抜けなかったことを後悔する。失敗だったと悔やむことになる。
親権をめぐる問題は、今の時代の問題となっている。このとき、SNS世論としては、共同親権は政府の横暴であり、単独親権であるべきだという声が大きい。主な反対意見としては、母親が得た親権を男性に関与されてはならない、という立場のものが圧倒的である。
これは、母親こそが子どもを愛しているのであり、それは絶対である、という価値観が根底にある。(これは、子育ては母親の役目であるという価値観につながり、また、ハーグ条約のこともあって、共同親権はリベラルの側がかつては主張していたことでもある。こんなことは、WEBを検索すればすぐ分かる。)
どんな状況であっても、母親の親権を支持すべきなのか、という観点からは非常に興味深い事例になるはずである。また、将来の寅子の人生……モデルとなった三淵嘉子のこと……を考えてみると、この裁判のことは、さまざまに考えるべき問題点があると思うのだが、なぜかSNS世論はスルーしていた。
こういう事例をはさみこんでくるあたりは、このドラマの脚本のたくみなところかと思うのだが、しかし、とにかく男性を攻撃したいという人たちには、無視されてしまったようである。
また、ほとんど指摘されていないことなのだと思うが、重要だと私が感じていることがある。それは、三淵嘉子は、明治大学で教えていることである。このことは、ドラマでは、完全にカットされている。
高等試験に受かって弁護士の資格を手に入れて、自分の母校で後輩たちの指導をすることになるというのは、非常によろこばしいことだったと思うが、どうだったのだろうか。自分の後につづいて法曹の道をこころざす若い女性たちを教室で教えることは、たぶん、きわめて心ときめくことだったにちがいないと推測してみる。少なくとも、人に教えるという立場にたって物事を整理して考えてみるということは、重要な意味がある。
このドラマでは、勉強することを、単に知識を得ること、試験に受かるための手段としてしかとらえていないかと感じてしまう。新しい知識を得ることによって、世の中のを見る見方が変わってくる、今風の言い方をすると、自分がアップデートされる、という感覚は、教育ということにおいてとても重要なことがらである。それを、学生の立場から、また、教師の立場からも描くことが、このドラマでは可能でああったはずである。しかし、『虎に翼』では、この絶好の機会を逃した脚本になってしまっている。このことは、非常に残念なことであると、私としては思わざるをえない。(だが、これも、今の時代の教育観とはこんなものかと思えば、そうなのかとも思ってしまうのだが。)
また、夫の雄三との関係もどうなのかなと思うところがある。確かに雄三はやさしい。だが、この雄三との関係が、その後の仕事……三淵嘉子のとおりだとすると家庭裁判所にかかわることになるはずだが……と、どう関係することになるのだろうか。世の中には、雄三のようなやさしい男ばかりではないし、逆に、暴力的な男だらけというわけではない。一人の人間のなかに、やさしさもあり、また、暴力的なところもあるというのが人間というものである。女性においても同様である。このあたりをどう描くかというのは、ドラマにおける基本的な人間観にかかわるところでもある。
ここのところをあまりに単純に描いてしまうと、(男は悪いに決まっているという単細胞的フェミニズムにはアピールすることはできるかもしれないが)、法曹の世界で生きることになる人間の生き方を描くには、もの足りないことになる。人間性の複雑さということを踏まえたうえで、法の運用はなされるべきだからである。でなければ、近代的な法のシステムとはいえない。前近代的な、江戸時代の奉行所になってしまう。御白州で悪い男を懲らしめる、女性の味方の、それこそが正義であるという弁護士であり裁判官を求めるというのなら、それもそれでいいかもしれないが。
このような観点からは、『オードリー』や『ちゅらさん』の方が、よほど人間というものを描いていると感じる。
印象に残っているのが穂高の言ったことば。人には時代時代の天命がある。世の中はすぐには変わらない、と。このことばについて、穂高は寅子の前に立ちふさがる壁であると否定的にとらえるむきが多かった。しかし、一方では、世の中はすこしずつであれば変えることが可能である、という意味にもとることができる。これを、どのような方向から解釈するか、見る人の立場のそれぞれだろう。ただ、このドラマでは、寅子に世の中を変えることのすべてを背負わせすぎているようにも思う。このところが、寅子の行動や感情の流れにかなり不自然な部分を生じさせている原因かと思ってみている。寅子は、自分の天命を生きることができれば十分なのだと私は思う。寅子のいう「地獄」が絵空事に思えて仕方がないのである。
世の中には、すぐにすべてが理想どおりに変わらなければ満足しないという発想の人が少なからずいる、ということが、SNSの反応など見ていると感じるところでもある。
これまでのところ、穂高が「父」なのである。寅子の父親の直言は、あまりにも理想的に寅子に理解のある人間像に作ってある。近代、あるいは、前近代を象徴する権力としての「父」が、ドラマに必要となると、穂高が演ずることにならざるをえない。したがって、穂高の役割は、寅子を法曹の道へと導く理解者、指導者であると同時に、その前ちふさがる封建的な「父」の役割をになうことになる。このようなアンビバレントな存在として考えてみて、穂高のことばに納得がいく。このような物語の作り方を理解せずに、穂高を批判するのは、短絡的な反応だと思わざるをえない。
ところで、このドラマでは、昭和一六年の太平洋戦争開戦を明示的に描かなかった。それまでの日中戦争の続きということであった。これも一つの歴史の見方である。しかし、太平洋戦争ということで、アメリカと戦争することになったことは、多くの日本国民にとって大きな出来事であったことも確かである。それまで日中戦争の泥沼状態にあり、徐々に生活が苦しくなっていく状況にあって、孤立してもなお世界のなかで堂々と戦い抜く覚悟につながることであった。このことについては、多くの証言が残っている。昭和二〇年の玉音放送をどう描くかと同様に、太平洋戦争の開戦をどう描くか、ということもこの時代を舞台としたドラマの作り方としては、重要なことである。
さて、次週は、終戦から日本国憲法の制定となるらしい。楽しみに見ることにしよう。
2024年5月25日記
『虎に翼』第8週「女冥利に尽きる?」
この週もいろいろあって、いろいろと書いてみたいことがある。
『虎に翼』というドラマの面白さということもあるが、それと同時に、このドラマに対するX(Twitter)などの反応を見ていると、興味深いことがある。反応の大部分は、ドラマを絶賛するものである。女を圧迫する壁は今日になっても変わっていないと、ドラマの時代よりも、今の日本の状況を糾弾するメッセージであふれている。
そのなかで興味深いことは、月曜日のラストの部分には、ほとんど反応がなかったことである。
寅子は、親権をめぐる裁判を担当する。しかし、その女性は嘘をついていた。援助をしてくれているということになっていた男性とは、不倫の関係にあり、二人の子どもも、その男性との間にできたものだという。寅子は、この事実を見抜けなかったことを後悔する。失敗だったと悔やむことになる。
親権をめぐる問題は、今の時代の問題となっている。このとき、SNS世論としては、共同親権は政府の横暴であり、単独親権であるべきだという声が大きい。主な反対意見としては、母親が得た親権を男性に関与されてはならない、という立場のものが圧倒的である。
これは、母親こそが子どもを愛しているのであり、それは絶対である、という価値観が根底にある。(これは、子育ては母親の役目であるという価値観につながり、また、ハーグ条約のこともあって、共同親権はリベラルの側がかつては主張していたことでもある。こんなことは、WEBを検索すればすぐ分かる。)
どんな状況であっても、母親の親権を支持すべきなのか、という観点からは非常に興味深い事例になるはずである。また、将来の寅子の人生……モデルとなった三淵嘉子のこと……を考えてみると、この裁判のことは、さまざまに考えるべき問題点があると思うのだが、なぜかSNS世論はスルーしていた。
こういう事例をはさみこんでくるあたりは、このドラマの脚本のたくみなところかと思うのだが、しかし、とにかく男性を攻撃したいという人たちには、無視されてしまったようである。
また、ほとんど指摘されていないことなのだと思うが、重要だと私が感じていることがある。それは、三淵嘉子は、明治大学で教えていることである。このことは、ドラマでは、完全にカットされている。
高等試験に受かって弁護士の資格を手に入れて、自分の母校で後輩たちの指導をすることになるというのは、非常によろこばしいことだったと思うが、どうだったのだろうか。自分の後につづいて法曹の道をこころざす若い女性たちを教室で教えることは、たぶん、きわめて心ときめくことだったにちがいないと推測してみる。少なくとも、人に教えるという立場にたって物事を整理して考えてみるということは、重要な意味がある。
このドラマでは、勉強することを、単に知識を得ること、試験に受かるための手段としてしかとらえていないかと感じてしまう。新しい知識を得ることによって、世の中のを見る見方が変わってくる、今風の言い方をすると、自分がアップデートされる、という感覚は、教育ということにおいてとても重要なことがらである。それを、学生の立場から、また、教師の立場からも描くことが、このドラマでは可能でああったはずである。しかし、『虎に翼』では、この絶好の機会を逃した脚本になってしまっている。このことは、非常に残念なことであると、私としては思わざるをえない。(だが、これも、今の時代の教育観とはこんなものかと思えば、そうなのかとも思ってしまうのだが。)
また、夫の雄三との関係もどうなのかなと思うところがある。確かに雄三はやさしい。だが、この雄三との関係が、その後の仕事……三淵嘉子のとおりだとすると家庭裁判所にかかわることになるはずだが……と、どう関係することになるのだろうか。世の中には、雄三のようなやさしい男ばかりではないし、逆に、暴力的な男だらけというわけではない。一人の人間のなかに、やさしさもあり、また、暴力的なところもあるというのが人間というものである。女性においても同様である。このあたりをどう描くかというのは、ドラマにおける基本的な人間観にかかわるところでもある。
ここのところをあまりに単純に描いてしまうと、(男は悪いに決まっているという単細胞的フェミニズムにはアピールすることはできるかもしれないが)、法曹の世界で生きることになる人間の生き方を描くには、もの足りないことになる。人間性の複雑さということを踏まえたうえで、法の運用はなされるべきだからである。でなければ、近代的な法のシステムとはいえない。前近代的な、江戸時代の奉行所になってしまう。御白州で悪い男を懲らしめる、女性の味方の、それこそが正義であるという弁護士であり裁判官を求めるというのなら、それもそれでいいかもしれないが。
このような観点からは、『オードリー』や『ちゅらさん』の方が、よほど人間というものを描いていると感じる。
印象に残っているのが穂高の言ったことば。人には時代時代の天命がある。世の中はすぐには変わらない、と。このことばについて、穂高は寅子の前に立ちふさがる壁であると否定的にとらえるむきが多かった。しかし、一方では、世の中はすこしずつであれば変えることが可能である、という意味にもとることができる。これを、どのような方向から解釈するか、見る人の立場のそれぞれだろう。ただ、このドラマでは、寅子に世の中を変えることのすべてを背負わせすぎているようにも思う。このところが、寅子の行動や感情の流れにかなり不自然な部分を生じさせている原因かと思ってみている。寅子は、自分の天命を生きることができれば十分なのだと私は思う。寅子のいう「地獄」が絵空事に思えて仕方がないのである。
世の中には、すぐにすべてが理想どおりに変わらなければ満足しないという発想の人が少なからずいる、ということが、SNSの反応など見ていると感じるところでもある。
これまでのところ、穂高が「父」なのである。寅子の父親の直言は、あまりにも理想的に寅子に理解のある人間像に作ってある。近代、あるいは、前近代を象徴する権力としての「父」が、ドラマに必要となると、穂高が演ずることにならざるをえない。したがって、穂高の役割は、寅子を法曹の道へと導く理解者、指導者であると同時に、その前ちふさがる封建的な「父」の役割をになうことになる。このようなアンビバレントな存在として考えてみて、穂高のことばに納得がいく。このような物語の作り方を理解せずに、穂高を批判するのは、短絡的な反応だと思わざるをえない。
ところで、このドラマでは、昭和一六年の太平洋戦争開戦を明示的に描かなかった。それまでの日中戦争の続きということであった。これも一つの歴史の見方である。しかし、太平洋戦争ということで、アメリカと戦争することになったことは、多くの日本国民にとって大きな出来事であったことも確かである。それまで日中戦争の泥沼状態にあり、徐々に生活が苦しくなっていく状況にあって、孤立してもなお世界のなかで堂々と戦い抜く覚悟につながることであった。このことについては、多くの証言が残っている。昭和二〇年の玉音放送をどう描くかと同様に、太平洋戦争の開戦をどう描くか、ということもこの時代を舞台としたドラマの作り方としては、重要なことである。
さて、次週は、終戦から日本国憲法の制定となるらしい。楽しみに見ることにしよう。
2024年5月25日記
「清少納言と枕草子」 ― 2024-05-26
2024年5月26日 當山日出夫
歴史探偵 清少納言と枕草子
『光る君へ』に便乗して(といったら悪いかもしれないが)、『枕草子』と清少納言をとりあげると、まあ、こんな感じになるのかなあ、というところである。
特に学問的に間違ったことは言っていないのだが、しかし、さして目新しいこともない。(といって、平安時代の文学研究の最新動向を見ているということではないのだが。)
気になるのは、『枕草子』の成立、特にその章段の順序のことである。今、一般に使われるテキストのとおりの順番で書いたものなのか、あるいは、様々に書いていってこの順番になっているのか、このあたりの議論については、最近の研究ではどうなっているのだろうかと思う。私が昔勉強したころの知識としては、必ずしも現在のテキストの順番に書いて編集されたとはいえない、ということだったと思うが、どうなのだろうか。これを確定しないでは、ことばの計量的な分析もあまり意味がないと思える。
テキストの計量分析の場合、まずどの本によるのかという問題がある。特に『枕草子』の場合は、テキストの違いが大きいので、これは大きな問題になるはずである。
『枕草子』と比べると『源氏物語』は、諸本の異同ははるかに少ないということになる。これは、それぞれの作品の成立過程の問題ともかかわる。
NHKの番組としては、諸本の成立事情というところまで踏み込んでいくと、あまりに専門的になりすぎるという判断なのかもしれないが、『枕草子』の場合は、むしろ諸本の異同が大きいということが、その成立の事情を反映していると見なすべきだろうと思う。ただ、このようなことを、学問的にある程度の確かさで、かつ、分かりやすく番組を作るというのは、非常に難しいことであろうとは思うのだが。
2024年5月17日記
歴史探偵 清少納言と枕草子
『光る君へ』に便乗して(といったら悪いかもしれないが)、『枕草子』と清少納言をとりあげると、まあ、こんな感じになるのかなあ、というところである。
特に学問的に間違ったことは言っていないのだが、しかし、さして目新しいこともない。(といって、平安時代の文学研究の最新動向を見ているということではないのだが。)
気になるのは、『枕草子』の成立、特にその章段の順序のことである。今、一般に使われるテキストのとおりの順番で書いたものなのか、あるいは、様々に書いていってこの順番になっているのか、このあたりの議論については、最近の研究ではどうなっているのだろうかと思う。私が昔勉強したころの知識としては、必ずしも現在のテキストの順番に書いて編集されたとはいえない、ということだったと思うが、どうなのだろうか。これを確定しないでは、ことばの計量的な分析もあまり意味がないと思える。
テキストの計量分析の場合、まずどの本によるのかという問題がある。特に『枕草子』の場合は、テキストの違いが大きいので、これは大きな問題になるはずである。
『枕草子』と比べると『源氏物語』は、諸本の異同ははるかに少ないということになる。これは、それぞれの作品の成立過程の問題ともかかわる。
NHKの番組としては、諸本の成立事情というところまで踏み込んでいくと、あまりに専門的になりすぎるという判断なのかもしれないが、『枕草子』の場合は、むしろ諸本の異同が大きいということが、その成立の事情を反映していると見なすべきだろうと思う。ただ、このようなことを、学問的にある程度の確かさで、かつ、分かりやすく番組を作るというのは、非常に難しいことであろうとは思うのだが。
2024年5月17日記
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