『虎に翼』「女の一念、岩をも通す?」 ― 2024-05-12
2024年5月12日 當山日出夫
『寅に翼』第6週「女の一念、岩をも通す?」
ドラマそれ自体の面白さもあるのだが、むしろ興味深いのは、このドラマに対する反応である。特に、X(Twitter)を見ていると、とにかく絶賛している。そればかりではなく、少しでもドラマの内容や設定に疑問をいだくような投稿に対して、猛然と批判する。このドラマについては、賛美しかしてはいけないような雰囲気が生じている。
このドラマよりも、この現象の方がある意味で興味深い。おそらく、NHKの制作スタッフは、ある程度は反響を予期しており、あるいは、計算の上でドラマを作っているとは思う。
しかし、それにしても、見事にエサにひっかかる人の多いことよと、思ってしまう。
ここでは、あえて少し疑問に思ったことを書いてみる。
まずは、梅子のこと。離婚ということになり、試験を受けない。ドラマの設定としては、親権をめぐる問題として今に通じるものということになる。
梅子は、子どもは夫のようにはなってほしくないと言っていた。これはどうだろうか。妻が、家のこと、家事や育児を、(おそらく)姑と女中にまかせて法律を学びに家を空けている。それは、数年以上におよぶ。それは親権がほしいからだという。また、その子どもを夫のようにはなってほしくないという。もし、普通の男性の立場なら、このような妻に愛想をつかすのは普通の感覚だと、私は感じる。実際に離婚するかどうかは別にしても、こころよく思わないだろう。
だが、このドラマでは、このような梅子に同情しなければならないし、夫は悪逆非道でなければならない、と作ってある。それが正しい見方である。
それよりも問題だと思うのは、梅子という存在の背景には、子どもを思う母親の愛情は最高に尊いものであり絶対であるという、思い込みというか、無条件の前提のようなものがあることである。
実際の世の中でおきている、家庭内での事件は、このような思い込みに起因するものも少なくはないはずである。母親が子どもを最も愛しているはずであり、虐待などありうるはずはない……と、はたしていえるのだろうか。どんな状況でも、子どもは母親のもとで育つのが理想としていいのだろうか。
崔香淑についても、その当時の朝鮮人の女性をドラマに登場させたかったという以上のことはないように思える。無論、その時代の朝鮮での教育の制度や、女性の立場がどうであったか、ということも重要である。だが、それを描くとなると、さらに踏み込んで朝鮮の人びとのなかにおける、女性の地位の問題などにふれざるをえなくなる。これは、日本の朝鮮の植民地支配というよりも、朝鮮の人びと自身の伝統的な社会習慣の問題になる。(そして、これは、おそらくは今の韓国や北朝鮮にも残存するものだろうとは思う。)
それから、週の最後の寅子の合格祝賀会でのスピーチ。寅子の言ったことは確かに正しい。だが、その考え方が、寅子のこれまでの人生経験のなかでどのように形成されてきたのか、この点については、このドラマはまったく描いていない。おそらく、これは意図的に描かないという方針なのだと思っている。どんな思想にも歴史がある。突然、神の啓示として与えられるようなものではない。この時代、男性についても、普通選挙となってまもないころである。寅子は、どんな本を読み、どんな経験をして、どんな人びとの生活を見て、今の考えにいたったのだろうか。
寅子のスピーチに出てきた、学ぶという選択肢があることさえ知らない人たち……しかし、このドラマでは、このような人たちのことを描いてきてはいない。思い返してみて、せいぜいよねの姉ぐらいだろうか。涼子のおつきの女中の玉は、男爵家につとめていて、英語も勉強している。「UNCLE TOM’S CABIN」を読んでいた。この時代の東京なら、貧民窟など珍しくはなかっただろうと思うのだが、そのような人たちのことは出てきていない。社会のなかでそのように生きるしかなかった、たとえば、女中になるか、カフェの女給になるか、さらに身を落として娼婦になるか、このあたりのことが、少しでもいいからリアルな描写がはさみこんであると、寅子のスピーチは説得力のあるものになったと感じるのだが。強いていえば、ドラマのはじまった一番初めに出てきていた寅子の本棚に『放浪記』があったぐらいだろうか。
また、寅子は、男女を問わず助けると言っていたが、しかし、描かれてきたのは弱い立場の女性ばかりである。実際には、弱者であるしかない男性も社会には存在する。これが今後このドラマでどう描かれるかはわからない。弱い男性もいるのだが、それは見えない存在で終わることになるだろうか。(強いていえば、家出した涼子の父の桜川男爵は、身分はあるかもしれないが自由がなく精神的に追いつめられていたのだろう。桜川男爵家の婿というのは、ある意味で弱い立場の男性ということができる。表面的に社会的階級が上であっても、弱い男性というものがいる。これは確かなことである。)
祝賀会のスピーチとしては異例である。これも、このドラマならではのこととして見ることになる。
はっきりいえば、寅子の考え方は、あまりにも現代的なのである。現代の価値観で非の打ち所のない発想で、「はて」と言っている。このような発想がこの時代に普通にありえたとは思えない。だが、このあたりの作り方が、このドラマの巧みなところなのだろう。ここのところが現代の視聴者にアピールするところでもあり、また、ドラマの設定にいくぶんの無理を生じさせているところでもあると思う。
寅子や仲間の学生たちは勉強した。猛勉強したことになる。だが、その勉強は試験に合格するため、資格を得るための手段である。学ぶこと自体の楽しさ、新たな知識を得ることのよろこび、ということがまったく描かれていなかった。法学という分野においても、知的好奇心というものは必要だろう。これは、非常に軽薄な学習観、学問観であるといわざるをえない。
学問についての、私のこのような感想は、ある意味では一種のエリート教養主義的なものかもしれないと、自省してはみる。しかし、この時代の大学生、なかでも高等試験を受けるような学生は、旧弊なエリート主義者であっただろうとは思う。
2024年5月11日記
『寅に翼』第6週「女の一念、岩をも通す?」
ドラマそれ自体の面白さもあるのだが、むしろ興味深いのは、このドラマに対する反応である。特に、X(Twitter)を見ていると、とにかく絶賛している。そればかりではなく、少しでもドラマの内容や設定に疑問をいだくような投稿に対して、猛然と批判する。このドラマについては、賛美しかしてはいけないような雰囲気が生じている。
このドラマよりも、この現象の方がある意味で興味深い。おそらく、NHKの制作スタッフは、ある程度は反響を予期しており、あるいは、計算の上でドラマを作っているとは思う。
しかし、それにしても、見事にエサにひっかかる人の多いことよと、思ってしまう。
ここでは、あえて少し疑問に思ったことを書いてみる。
まずは、梅子のこと。離婚ということになり、試験を受けない。ドラマの設定としては、親権をめぐる問題として今に通じるものということになる。
梅子は、子どもは夫のようにはなってほしくないと言っていた。これはどうだろうか。妻が、家のこと、家事や育児を、(おそらく)姑と女中にまかせて法律を学びに家を空けている。それは、数年以上におよぶ。それは親権がほしいからだという。また、その子どもを夫のようにはなってほしくないという。もし、普通の男性の立場なら、このような妻に愛想をつかすのは普通の感覚だと、私は感じる。実際に離婚するかどうかは別にしても、こころよく思わないだろう。
だが、このドラマでは、このような梅子に同情しなければならないし、夫は悪逆非道でなければならない、と作ってある。それが正しい見方である。
それよりも問題だと思うのは、梅子という存在の背景には、子どもを思う母親の愛情は最高に尊いものであり絶対であるという、思い込みというか、無条件の前提のようなものがあることである。
実際の世の中でおきている、家庭内での事件は、このような思い込みに起因するものも少なくはないはずである。母親が子どもを最も愛しているはずであり、虐待などありうるはずはない……と、はたしていえるのだろうか。どんな状況でも、子どもは母親のもとで育つのが理想としていいのだろうか。
崔香淑についても、その当時の朝鮮人の女性をドラマに登場させたかったという以上のことはないように思える。無論、その時代の朝鮮での教育の制度や、女性の立場がどうであったか、ということも重要である。だが、それを描くとなると、さらに踏み込んで朝鮮の人びとのなかにおける、女性の地位の問題などにふれざるをえなくなる。これは、日本の朝鮮の植民地支配というよりも、朝鮮の人びと自身の伝統的な社会習慣の問題になる。(そして、これは、おそらくは今の韓国や北朝鮮にも残存するものだろうとは思う。)
それから、週の最後の寅子の合格祝賀会でのスピーチ。寅子の言ったことは確かに正しい。だが、その考え方が、寅子のこれまでの人生経験のなかでどのように形成されてきたのか、この点については、このドラマはまったく描いていない。おそらく、これは意図的に描かないという方針なのだと思っている。どんな思想にも歴史がある。突然、神の啓示として与えられるようなものではない。この時代、男性についても、普通選挙となってまもないころである。寅子は、どんな本を読み、どんな経験をして、どんな人びとの生活を見て、今の考えにいたったのだろうか。
寅子のスピーチに出てきた、学ぶという選択肢があることさえ知らない人たち……しかし、このドラマでは、このような人たちのことを描いてきてはいない。思い返してみて、せいぜいよねの姉ぐらいだろうか。涼子のおつきの女中の玉は、男爵家につとめていて、英語も勉強している。「UNCLE TOM’S CABIN」を読んでいた。この時代の東京なら、貧民窟など珍しくはなかっただろうと思うのだが、そのような人たちのことは出てきていない。社会のなかでそのように生きるしかなかった、たとえば、女中になるか、カフェの女給になるか、さらに身を落として娼婦になるか、このあたりのことが、少しでもいいからリアルな描写がはさみこんであると、寅子のスピーチは説得力のあるものになったと感じるのだが。強いていえば、ドラマのはじまった一番初めに出てきていた寅子の本棚に『放浪記』があったぐらいだろうか。
また、寅子は、男女を問わず助けると言っていたが、しかし、描かれてきたのは弱い立場の女性ばかりである。実際には、弱者であるしかない男性も社会には存在する。これが今後このドラマでどう描かれるかはわからない。弱い男性もいるのだが、それは見えない存在で終わることになるだろうか。(強いていえば、家出した涼子の父の桜川男爵は、身分はあるかもしれないが自由がなく精神的に追いつめられていたのだろう。桜川男爵家の婿というのは、ある意味で弱い立場の男性ということができる。表面的に社会的階級が上であっても、弱い男性というものがいる。これは確かなことである。)
祝賀会のスピーチとしては異例である。これも、このドラマならではのこととして見ることになる。
はっきりいえば、寅子の考え方は、あまりにも現代的なのである。現代の価値観で非の打ち所のない発想で、「はて」と言っている。このような発想がこの時代に普通にありえたとは思えない。だが、このあたりの作り方が、このドラマの巧みなところなのだろう。ここのところが現代の視聴者にアピールするところでもあり、また、ドラマの設定にいくぶんの無理を生じさせているところでもあると思う。
寅子や仲間の学生たちは勉強した。猛勉強したことになる。だが、その勉強は試験に合格するため、資格を得るための手段である。学ぶこと自体の楽しさ、新たな知識を得ることのよろこび、ということがまったく描かれていなかった。法学という分野においても、知的好奇心というものは必要だろう。これは、非常に軽薄な学習観、学問観であるといわざるをえない。
学問についての、私のこのような感想は、ある意味では一種のエリート教養主義的なものかもしれないと、自省してはみる。しかし、この時代の大学生、なかでも高等試験を受けるような学生は、旧弊なエリート主義者であっただろうとは思う。
2024年5月11日記
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