BS世界のドキュメンタリー「白人だけの町「オラニア」 南アフリカ“少数派”の選択」 ― 2025-07-01
2025年7月1日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「白人だけの町「オラニア」 南アフリカ“少数派”の選択」
2023年、イギリス。
非常にかたよった視点からの番組制作であると感じるが、そこのところを割り引いて考えると、いろいろ面白い。
南アフリカの歴史として、アパルトヘイトのことを知らなければということであるが、これは、南アフリカの歴史としては、説明不足であろう。無論、アパルトヘイトは重要なことにはちがいないが、それ以前のこととして、南アフリカにどのような白人の歴史があるのか、ということも言っておくべきだろう。この歴史の中では、アフリカーンスの人びと……オランダ系プロテスタントということかと理解しているが……が、イギリスなどの他の白人とどういう関係であったのか、ここのところも、言っておかないと全体像が見えないと思う。番組としては、白人の黒人に対する人種差別主義といいたいことは分かるが、白人の内部において、オランダ系の人びとが、どのように南アフリカの歴史のなかで生活してきたのか、それが現在の南アフリカ社会のなかでどうであるのか、ここのところは避けてとおるべきではない。
オラニアの言語が、英語も教えるが、基本はアフリカーンス語であるということは、かなり重要なことである。言語というのは、人間の共同体の基本にかかわる。(できれば、英語も教えたくはないということかもしれないが、実際の生活のうえでそうもいかないということなのかと思うが、どうなのだろうか。)
取材の方法が、非常に挑発的である。これは、かなり悪質だと感じるところがある。BLMのことが話題になったとき、取材する側としては、オラニアの人たちが自分たちの立場を説明するときに、このような事例をふまえて話しをすることになるであろうことぐらいは、十分に事前に予想できたはずである。予想しなかったとするならば、はっきりいって、このような取材をするには無能ということになるが、そうではなく、意図的に過剰に反応してみせて、相手の対応を引き出した、ということだと思うことになる。
教会の取材もそうである。教会は、この地域の人びとの、信仰にとって非常に重要な場所であり、コミュニティの中心であることは、事前にわかっているはずである。ならば、その取材の前に、トラブル(BLMを話題にする)を回避しておくべきだろう。否定的な取材をされることがわかっていて、それも、日曜日の礼拝のとき(終わった後ではあるが)にやってくるというのは、教会としてはかなり警戒することになるのは当然だろう。それを意図的にやっているというのは、番組の作り方として、フェアな立場から番組を作ろうというのではない、ということが分かる。(これはこれで、一つの番組の作り方ではあるが。わざとトラブルが生じるようにして、それを話題にする。)
高校生の演劇のシーンは、どういう意図なのだろうか。高校生が、今の世界の標準からすれば、あきらかに差別的な内容のものを演じている。これが、高校生に分かっていないはずはないだろうと、私などは思う。番組の作り手としては、オラニアでは高校生でも、こんなに差別的な考えを持っているといいたいことになるかと思う。あるいは、オラニアの側としては、これが差別的であることは十分に理解したうえで、それでも、このような考え方に共感する人が、世界には少なからずいるということを知ってのことである、ということかもしれない。
アパルトヘイトについて、重労働を人種に割り当てたことが問題であると言っていたことは、かなり重要である。これは、オラニアの地域において、重労働に従事するのはいったい誰であるのか、という問題につながるからである。とりあえず、今の規模で、独立した地域を保つぐらいならなんとかなるかもしれないが、農本主義的な生活からはなれて、より一層の発展……たとえば、高層ビルを建てるとか、空港を作るとか……になると、労働によるさまざまな格差を生じることになるはずである。重労働を必要としない範囲で、自分たちは農業を基本として生活していくのである、ということならば、これはこれで一つの賢明な判断だと思う。現代の世界の発展に背を向けるようなことだが、あえてそれを選択するだけの価値が、オラニアにはあるということになる。
推測によることがかなりあった。オラニアにトランプが(この番組の制作の時点では、まだ二度目の大統領ではないが)関与している……これは、ウワサがあるということであったが、ウワサをさも根拠のあることのごとく語ってはいけないだろう。どういう団体などがオラニアに資金援助しているのか、調べれば分からないはずはないと思う。むしろ、そのような団体や組織(いわゆる極右団体であるが)は、そのことを公言している可能性がある。まったく秘密になっているのかどうか、そのところを報じるのが、ジャーナリズムというべきであり、ここのところは、ジャーナリズム失格である。
他の人の迷惑になることでなければ、個人の価値観は最大限尊重されるべきである……こういうのが、リベラリズムの基本にあると思っているが、この意味では、この規模で、この土地に、こういう生活の人びとがいることぐらいは、十分に許容できることだと思う。オラニアは存在してはいけないという言い方の方が、私には、あまりに潔癖主義で、不寛容に思える。このような現代の「新しき村」があってもいいことではないだろうか。それを取材した人がどう個人的な感想をいだこうと、それは自由である。
オラニアの人びとは人種差別主義者かもしれないが……たぶん、強いてカテゴライズすればそうなるだろう……だが、このエリアの中では、人種差別はない、このことも重要なことである。あらかじめ審査が必要ということを差別というのなら、それはそうであるとしても。
オラニアの存在によって、現実に被害をこうむっているという人が、もしいるとするならば、その人びとのことをとりあげるべきだろう。それができていないということは、特に被害はない、ということと理解できる。ただ、オラニアの人びとへの嫌悪感をあらわにするだけでは、かつて、アパルトヘイトの時代に黒人を差別していたのと何が違うというのだろうか。まあ、人間は、自分たちとは違う価値観や生活習慣で生きる人びとに対しては、そう簡単には素直になれない、その行き着く先がアパルトヘイトのような差別政策であるということ、つまり、人間とはそういうものであるということを、逆の立場から言ったことになると理解できようか。強いていえば、差別することになる人間ということを、逆説的に肯定してしまったことになっている。このことに、この番組を作った人は気づいていないようではあるが。
2025年6月26日記
BS世界のドキュメンタリー 「白人だけの町「オラニア」 南アフリカ“少数派”の選択」
2023年、イギリス。
非常にかたよった視点からの番組制作であると感じるが、そこのところを割り引いて考えると、いろいろ面白い。
南アフリカの歴史として、アパルトヘイトのことを知らなければということであるが、これは、南アフリカの歴史としては、説明不足であろう。無論、アパルトヘイトは重要なことにはちがいないが、それ以前のこととして、南アフリカにどのような白人の歴史があるのか、ということも言っておくべきだろう。この歴史の中では、アフリカーンスの人びと……オランダ系プロテスタントということかと理解しているが……が、イギリスなどの他の白人とどういう関係であったのか、ここのところも、言っておかないと全体像が見えないと思う。番組としては、白人の黒人に対する人種差別主義といいたいことは分かるが、白人の内部において、オランダ系の人びとが、どのように南アフリカの歴史のなかで生活してきたのか、それが現在の南アフリカ社会のなかでどうであるのか、ここのところは避けてとおるべきではない。
オラニアの言語が、英語も教えるが、基本はアフリカーンス語であるということは、かなり重要なことである。言語というのは、人間の共同体の基本にかかわる。(できれば、英語も教えたくはないということかもしれないが、実際の生活のうえでそうもいかないということなのかと思うが、どうなのだろうか。)
取材の方法が、非常に挑発的である。これは、かなり悪質だと感じるところがある。BLMのことが話題になったとき、取材する側としては、オラニアの人たちが自分たちの立場を説明するときに、このような事例をふまえて話しをすることになるであろうことぐらいは、十分に事前に予想できたはずである。予想しなかったとするならば、はっきりいって、このような取材をするには無能ということになるが、そうではなく、意図的に過剰に反応してみせて、相手の対応を引き出した、ということだと思うことになる。
教会の取材もそうである。教会は、この地域の人びとの、信仰にとって非常に重要な場所であり、コミュニティの中心であることは、事前にわかっているはずである。ならば、その取材の前に、トラブル(BLMを話題にする)を回避しておくべきだろう。否定的な取材をされることがわかっていて、それも、日曜日の礼拝のとき(終わった後ではあるが)にやってくるというのは、教会としてはかなり警戒することになるのは当然だろう。それを意図的にやっているというのは、番組の作り方として、フェアな立場から番組を作ろうというのではない、ということが分かる。(これはこれで、一つの番組の作り方ではあるが。わざとトラブルが生じるようにして、それを話題にする。)
高校生の演劇のシーンは、どういう意図なのだろうか。高校生が、今の世界の標準からすれば、あきらかに差別的な内容のものを演じている。これが、高校生に分かっていないはずはないだろうと、私などは思う。番組の作り手としては、オラニアでは高校生でも、こんなに差別的な考えを持っているといいたいことになるかと思う。あるいは、オラニアの側としては、これが差別的であることは十分に理解したうえで、それでも、このような考え方に共感する人が、世界には少なからずいるということを知ってのことである、ということかもしれない。
アパルトヘイトについて、重労働を人種に割り当てたことが問題であると言っていたことは、かなり重要である。これは、オラニアの地域において、重労働に従事するのはいったい誰であるのか、という問題につながるからである。とりあえず、今の規模で、独立した地域を保つぐらいならなんとかなるかもしれないが、農本主義的な生活からはなれて、より一層の発展……たとえば、高層ビルを建てるとか、空港を作るとか……になると、労働によるさまざまな格差を生じることになるはずである。重労働を必要としない範囲で、自分たちは農業を基本として生活していくのである、ということならば、これはこれで一つの賢明な判断だと思う。現代の世界の発展に背を向けるようなことだが、あえてそれを選択するだけの価値が、オラニアにはあるということになる。
推測によることがかなりあった。オラニアにトランプが(この番組の制作の時点では、まだ二度目の大統領ではないが)関与している……これは、ウワサがあるということであったが、ウワサをさも根拠のあることのごとく語ってはいけないだろう。どういう団体などがオラニアに資金援助しているのか、調べれば分からないはずはないと思う。むしろ、そのような団体や組織(いわゆる極右団体であるが)は、そのことを公言している可能性がある。まったく秘密になっているのかどうか、そのところを報じるのが、ジャーナリズムというべきであり、ここのところは、ジャーナリズム失格である。
他の人の迷惑になることでなければ、個人の価値観は最大限尊重されるべきである……こういうのが、リベラリズムの基本にあると思っているが、この意味では、この規模で、この土地に、こういう生活の人びとがいることぐらいは、十分に許容できることだと思う。オラニアは存在してはいけないという言い方の方が、私には、あまりに潔癖主義で、不寛容に思える。このような現代の「新しき村」があってもいいことではないだろうか。それを取材した人がどう個人的な感想をいだこうと、それは自由である。
オラニアの人びとは人種差別主義者かもしれないが……たぶん、強いてカテゴライズすればそうなるだろう……だが、このエリアの中では、人種差別はない、このことも重要なことである。あらかじめ審査が必要ということを差別というのなら、それはそうであるとしても。
オラニアの存在によって、現実に被害をこうむっているという人が、もしいるとするならば、その人びとのことをとりあげるべきだろう。それができていないということは、特に被害はない、ということと理解できる。ただ、オラニアの人びとへの嫌悪感をあらわにするだけでは、かつて、アパルトヘイトの時代に黒人を差別していたのと何が違うというのだろうか。まあ、人間は、自分たちとは違う価値観や生活習慣で生きる人びとに対しては、そう簡単には素直になれない、その行き着く先がアパルトヘイトのような差別政策であるということ、つまり、人間とはそういうものであるということを、逆の立場から言ったことになると理解できようか。強いていえば、差別することになる人間ということを、逆説的に肯定してしまったことになっている。このことに、この番組を作った人は気づいていないようではあるが。
2025年6月26日記
NHKスペシャル「不発弾処理 足下に潜む“脅威”」 ― 2025-07-01
2025年7月1日 當山日出夫
NHKスペシャル 不発弾処理 足下(もと)に潜む“脅威”
不発弾の処理というのは、こういうふうにしているのかと、とても興味深い内容だった。信管が生きていれば、数十年以上たっても爆発する危険がある。信管がないからといって安全というわけではないが。
NHK沖縄の制作なので、基本的論調として、今も沖縄に残る不発弾の問題は、日本政府の責任である、ということを言いたいのであろうことは理解できる。だが、これをいうためには、ただ沖縄の事例を出してきただけでは難しい。(いや、これにかぎってみれば、世界中で沖縄に限定的なことというなら、簡単かもしれないが。)そこで、出してきたのが、ガダルカナル島のことになる。ここでは、日本軍とアメリカ軍のものがあり、それは、いまでも被害が出ている。
不発弾ということについて考えてみるならば、おそらく、朝鮮半島にはもっとたくさんあってもおかしくはない。朝鮮戦争のときのものが、まったくないはずはない。韓国政府はどう対応しているのか、語ってほしい。無論、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において、大量に現在も残っているはずである。昔のドイツ軍の残した不発弾について、今のドイツ政府は責任を負っているということはあるのだろうか。昔のソ連軍のものについて、今のロシア政府はどうなのだろうか。中国ではどうなっているのだろうか。
さらに、現在のこととしては、ウクライナはもちろんのこと、ミャンマーなどでも、多くの不発弾を残していることになるだろう。その責任は、将来は誰がとることになるのか。
不発弾だけではなく、世界中の紛争地でばらまかれた地雷の問題もある。
これらをふまえて、沖縄の不発弾の責任は日本政府にある、ということを、法的、論理的に論じるということについては、どう考えべきなのだろうか。これについては語りえないということならば、その語りえないこと、それ自体を語るべきではないだろうか。それがジャーナリズムというものだと思っている。
それから、もっとも重要なことは、今も残っている不発弾の危険性について、どのように対処すべきなのか、人びとの日常生活、社会においての、注意の喚起であるにちがいない。たとえば、地面から煙の出ているものにはちかづかない、など(黄リン弾の可能性がある)。こういうことを、しかるべく知らせるというのも、ジャーナリズムのつとめであるだろう。
2025年6月23日記
NHKスペシャル 不発弾処理 足下(もと)に潜む“脅威”
不発弾の処理というのは、こういうふうにしているのかと、とても興味深い内容だった。信管が生きていれば、数十年以上たっても爆発する危険がある。信管がないからといって安全というわけではないが。
NHK沖縄の制作なので、基本的論調として、今も沖縄に残る不発弾の問題は、日本政府の責任である、ということを言いたいのであろうことは理解できる。だが、これをいうためには、ただ沖縄の事例を出してきただけでは難しい。(いや、これにかぎってみれば、世界中で沖縄に限定的なことというなら、簡単かもしれないが。)そこで、出してきたのが、ガダルカナル島のことになる。ここでは、日本軍とアメリカ軍のものがあり、それは、いまでも被害が出ている。
不発弾ということについて考えてみるならば、おそらく、朝鮮半島にはもっとたくさんあってもおかしくはない。朝鮮戦争のときのものが、まったくないはずはない。韓国政府はどう対応しているのか、語ってほしい。無論、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において、大量に現在も残っているはずである。昔のドイツ軍の残した不発弾について、今のドイツ政府は責任を負っているということはあるのだろうか。昔のソ連軍のものについて、今のロシア政府はどうなのだろうか。中国ではどうなっているのだろうか。
さらに、現在のこととしては、ウクライナはもちろんのこと、ミャンマーなどでも、多くの不発弾を残していることになるだろう。その責任は、将来は誰がとることになるのか。
不発弾だけではなく、世界中の紛争地でばらまかれた地雷の問題もある。
これらをふまえて、沖縄の不発弾の責任は日本政府にある、ということを、法的、論理的に論じるということについては、どう考えべきなのだろうか。これについては語りえないということならば、その語りえないこと、それ自体を語るべきではないだろうか。それがジャーナリズムというものだと思っている。
それから、もっとも重要なことは、今も残っている不発弾の危険性について、どのように対処すべきなのか、人びとの日常生活、社会においての、注意の喚起であるにちがいない。たとえば、地面から煙の出ているものにはちかづかない、など(黄リン弾の可能性がある)。こういうことを、しかるべく知らせるというのも、ジャーナリズムのつとめであるだろう。
2025年6月23日記
ブラタモリ「青山通りバスツアー▼渋谷発!東京の一等地・赤坂〜表参道を行く」 ― 2025-07-01
2025年7月1日 當山日出夫
ブラタモリ 青山通りバスツアー▼渋谷発!東京の一等地・赤坂〜表参道を行く
BKでは、土曜日に特別の放送だったので、押し出されて、少しおくれての放送だった。それを録画しておいて、後で見た。
青山通りが、ステキな通りになったのは何故か、これは、東京の町の発達史とかかわることになるはずである。昔は、大名屋敷などがあり、渋谷は江戸の町の外だった。それが、明治時代になって、郊外の住宅地が生まれてきて、明治神宮とか、代々木練兵場とかができ、渋谷が郊外につながるターミナルとして開発されていくという歴史を語ることになるだろう。
青山におおきな墓地があるということは、つまりは、昔はな~んにもない空き地が広がっている不便な場所だったということでもあるのだろう。私としては、青山通りのことよりも、青山霊園の歴史的経緯の方が興味がある。むしろ、このことをメインに番組を作った方が、面白いものになりそうである。東京の都市としての発展と墓地の歴史という視点は、興味深いかと思う。
原宿の同潤会アパートは、私が、学生だったころにはまだあった。セントラルアパートもあった。ただ、あんまり、関心はなかったが。そのころでも、原宿あたりは、昔からの住宅地であるという面影を残していた、ということの方が意味があるかもしれない。
地形として見るならば、いわゆる山の手の側になる台地の高くて平らな部分をとおっているのが今の青山通りということになる。しかし、それから、少しはずれると、高低差のある道になり、そこは、山の手のはずれの部分ということでいいのかと思う。
まっすぐに、幅の広い道路を作れたということは、その昔は、なんにもなかったところだった、ということなのであろう。
番組で言ってはいなかったが、青山学院は、かつては郊外に作った学校、ということになる。同じようなことは、早稲田にも、学習院にも、立教に、いえるはずである。いまでこそ、都心の大学になってしまっているけれど。
2025年6月29日記
ブラタモリ 青山通りバスツアー▼渋谷発!東京の一等地・赤坂〜表参道を行く
BKでは、土曜日に特別の放送だったので、押し出されて、少しおくれての放送だった。それを録画しておいて、後で見た。
青山通りが、ステキな通りになったのは何故か、これは、東京の町の発達史とかかわることになるはずである。昔は、大名屋敷などがあり、渋谷は江戸の町の外だった。それが、明治時代になって、郊外の住宅地が生まれてきて、明治神宮とか、代々木練兵場とかができ、渋谷が郊外につながるターミナルとして開発されていくという歴史を語ることになるだろう。
青山におおきな墓地があるということは、つまりは、昔はな~んにもない空き地が広がっている不便な場所だったということでもあるのだろう。私としては、青山通りのことよりも、青山霊園の歴史的経緯の方が興味がある。むしろ、このことをメインに番組を作った方が、面白いものになりそうである。東京の都市としての発展と墓地の歴史という視点は、興味深いかと思う。
原宿の同潤会アパートは、私が、学生だったころにはまだあった。セントラルアパートもあった。ただ、あんまり、関心はなかったが。そのころでも、原宿あたりは、昔からの住宅地であるという面影を残していた、ということの方が意味があるかもしれない。
地形として見るならば、いわゆる山の手の側になる台地の高くて平らな部分をとおっているのが今の青山通りということになる。しかし、それから、少しはずれると、高低差のある道になり、そこは、山の手のはずれの部分ということでいいのかと思う。
まっすぐに、幅の広い道路を作れたということは、その昔は、なんにもなかったところだった、ということなのであろう。
番組で言ってはいなかったが、青山学院は、かつては郊外に作った学校、ということになる。同じようなことは、早稲田にも、学習院にも、立教に、いえるはずである。いまでこそ、都心の大学になってしまっているけれど。
2025年6月29日記
ブラタモリ「江戸っ子の大山詣り▼渋谷発・大流行の参詣旅!百年以上続く宿坊」 ― 2025-07-02
2025年7月2日 當山日出夫
ブラタモリ 江戸っ子の大山詣り▼渋谷発・大流行の参詣旅!百年以上続く宿坊
今でも大山詣りのための宿坊がかなりの数残っているということに驚いた。はっきりいって、もうすたれた過去のことかと思っていたのだが、そうではなかった。
名物が豆腐というのも面白い。番組のなかで言っていたこととしては、お金のかわりに大豆を持ってきたということがあって、ということのようだが、本当だろうか。だが、少し前のまでの日本の社会で、お金の代わりにお米や大豆などが、日常生活のなかにあったということも、たしかなことである。
前にも書いたが、「よみがえる新日本紀行」で、昭和50年頃の伊勢太神楽の旅の様子をあつかっていたが、この時代まで、家の庭先で太神楽の芸を披露して、報酬としてうけとるのはお米だった。これは、見ていておどろいたのだったが、お米を金銭の代わりにつかう、民衆のなかの経済というものがあったことになる。もらったお米をかついで、旅から旅へと移動することはなかっただろうし、最終的には、どこかで換金する必要があったはずである。
大山詣りの宿坊は、かなり古い状態をそのまま保っているようだが、これは、できる限り残してほしいものである。だが、今の時代だと、ああいう大広間で、他の人と一緒になって寝るということは、あまり好まれないだろうが。
2025年6月30日記
ブラタモリ 江戸っ子の大山詣り▼渋谷発・大流行の参詣旅!百年以上続く宿坊
今でも大山詣りのための宿坊がかなりの数残っているということに驚いた。はっきりいって、もうすたれた過去のことかと思っていたのだが、そうではなかった。
名物が豆腐というのも面白い。番組のなかで言っていたこととしては、お金のかわりに大豆を持ってきたということがあって、ということのようだが、本当だろうか。だが、少し前のまでの日本の社会で、お金の代わりにお米や大豆などが、日常生活のなかにあったということも、たしかなことである。
前にも書いたが、「よみがえる新日本紀行」で、昭和50年頃の伊勢太神楽の旅の様子をあつかっていたが、この時代まで、家の庭先で太神楽の芸を披露して、報酬としてうけとるのはお米だった。これは、見ていておどろいたのだったが、お米を金銭の代わりにつかう、民衆のなかの経済というものがあったことになる。もらったお米をかついで、旅から旅へと移動することはなかっただろうし、最終的には、どこかで換金する必要があったはずである。
大山詣りの宿坊は、かなり古い状態をそのまま保っているようだが、これは、できる限り残してほしいものである。だが、今の時代だと、ああいう大広間で、他の人と一緒になって寝るということは、あまり好まれないだろうが。
2025年6月30日記
時をかけるテレビ「斬られ役 〜大部屋俳優 58歳の心意気〜」 ― 2025-07-02
2025年7月2日 當山日出夫
時をかけるテレビ 斬られ役 〜大部屋俳優 58歳の心意気〜
これを見るとどうしても、『オードリー』とか『カムカムエヴリバディ』のことを思ってしまう。『オードリー』は、BKの制作で、2000年から2001年にかけてである。両方とも、最初の放送のときに見ているし、最近の再放送も見ている。
『カムカムエヴリバディ』では、理想的な人間のあり方として、侍、とつかっていた。ここでつかわれるような意味合いでの侍という概念は、近代になってからの時代劇(映画やテレビ)などで形成されてきたものといっていいだろうか。あるいは、古くさかのぼるならば、江戸時代の歌舞伎のことも考えるべきかとも思うが、現在に伝えられる、歌舞伎の演目が、はたしてどの程度オリジナルにその時代の人びとのものの考え方を表したものなのかは、考える必用はあるだろう。文化史的な視点としては、侍、ということばが何を表してきたかということが、どうしても重要なことになるだろう。
その「侍」ということばの、現代の帰結として、福本清三という人物の存在があると思う。
余計なことだとは思うが、江戸時代の武士の存在を、近代になってからの軍人が引き継ぐというイメージは、どのように形成されてきたのか、ということも、かねてより気になっていたことの一つである。
きちんと仕事をしていれば、誰かが見ていてくれる……こういう感覚は、いまこそとても大事なものである。社会のどんなところで働いていても、その仕事の意義があることを、忘れてはならない。
今、世の中で、忘れられた人びと、見捨てられた人びと、ということが大きな問題となっているかと思う。
ことばのことで興味深かったのは、福本清三は、映画のことを「写真」と言っていた。昔の「活動写真」の名残ということなのだろうが、業界用語としては、この時代まで生きのこっていたことになる。さて、現代の映画の業界ではどうなのだろうか。
映画の「赤影」は、まったく記憶にない。このころになると映画館には行かなくなっていたかと思うし、子どもも、このような映画を見たいという年齢ではなかったこともあるだろう。だが、世の中でなにがしか話題になった作品であったという記憶がない。
『侍タイムスリッパー』は、近々、テレビで放送するらしい。これは見ておこうと思っている。
『オードリー』も『カムカムエヴリバディ』も、映画撮影所の大部屋俳優のような人をふくめて、世の中の片隅で働く人たちのことを、きちんと見ていたドラマになっていたと、私は評価したい。
2025年6月30日記
時をかけるテレビ 斬られ役 〜大部屋俳優 58歳の心意気〜
これを見るとどうしても、『オードリー』とか『カムカムエヴリバディ』のことを思ってしまう。『オードリー』は、BKの制作で、2000年から2001年にかけてである。両方とも、最初の放送のときに見ているし、最近の再放送も見ている。
『カムカムエヴリバディ』では、理想的な人間のあり方として、侍、とつかっていた。ここでつかわれるような意味合いでの侍という概念は、近代になってからの時代劇(映画やテレビ)などで形成されてきたものといっていいだろうか。あるいは、古くさかのぼるならば、江戸時代の歌舞伎のことも考えるべきかとも思うが、現在に伝えられる、歌舞伎の演目が、はたしてどの程度オリジナルにその時代の人びとのものの考え方を表したものなのかは、考える必用はあるだろう。文化史的な視点としては、侍、ということばが何を表してきたかということが、どうしても重要なことになるだろう。
その「侍」ということばの、現代の帰結として、福本清三という人物の存在があると思う。
余計なことだとは思うが、江戸時代の武士の存在を、近代になってからの軍人が引き継ぐというイメージは、どのように形成されてきたのか、ということも、かねてより気になっていたことの一つである。
きちんと仕事をしていれば、誰かが見ていてくれる……こういう感覚は、いまこそとても大事なものである。社会のどんなところで働いていても、その仕事の意義があることを、忘れてはならない。
今、世の中で、忘れられた人びと、見捨てられた人びと、ということが大きな問題となっているかと思う。
ことばのことで興味深かったのは、福本清三は、映画のことを「写真」と言っていた。昔の「活動写真」の名残ということなのだろうが、業界用語としては、この時代まで生きのこっていたことになる。さて、現代の映画の業界ではどうなのだろうか。
映画の「赤影」は、まったく記憶にない。このころになると映画館には行かなくなっていたかと思うし、子どもも、このような映画を見たいという年齢ではなかったこともあるだろう。だが、世の中でなにがしか話題になった作品であったという記憶がない。
『侍タイムスリッパー』は、近々、テレビで放送するらしい。これは見ておこうと思っている。
『オードリー』も『カムカムエヴリバディ』も、映画撮影所の大部屋俳優のような人をふくめて、世の中の片隅で働く人たちのことを、きちんと見ていたドラマになっていたと、私は評価したい。
2025年6月30日記
新日本風土記「渋谷の細道」 ― 2025-07-02
2025年7月2日 當山日出夫
新日本風土記 「渋谷の細道」
録画してあったのを見て、思ったことを書いてみる。
始まりは、丸山と神泉のつなひきだった。今どき、つなひきなど学校の運動会でもしないだろうと思うのだが、町内でやっている。今でも、普通に人の住む町である、ということになり、子どももいる。
氷屋さんが商売をしている。渋谷の街の飲食店を相手にしていれば、ある意味で非常に手堅い商売かとも思える。それにしても、氷の種類だけで、あんなにたくさんあるとは知らなかった。大きさとか砕き方で、商品の種類がある。こういう付加価値を見出すのも、ビジネスの要諦なのだろう。グラスの大きさに合わせて氷を砕く作るというのは、発想として秀逸だなと感じる。こういうことは、他の氷屋さんでもやっているのだろうか。
このあたりが、昔は料亭などの建ち並ぶ花街であったことは、もうほとんど忘れられてしまっている。その名残が、ごく一部の店に残っていたりする。坂道の階段が、そう言われてみれば、左褄をとった女性(もう、今ではこんな言い方自体がすたれてしまっている)が歩きやすいようにということになる。
それでも、まだ、芸者さんが残っている。渋谷においては、絶滅危惧種といっていいのだろう。ここで、芸者さんと一緒に遊ぼうというような人はいったいどんな人なのだろうかとも思う。「紙がない」というのは、おそらく枕紙で、一種のばれ歌だろうと思うのだが、WEBを検索したが出てこない。(できれば、NHKで記録してどこかに残しておいてほしい。)これも、状況によっては、今ではハラスメントになることである。そこをうまくとりなす、大人のおねえさんという存在がいなくなってしまったことも、ちょっとさびしくもある。
丸山のラブホテルの中に、NHKのカメラが入って従業員の姿とか経営者の昔話を取材するのは、珍しいかもしれない。これも、歴史的にみれば、社会的な必用性があって生まれたものということになる。安全に男女(に限らないかもしれないが)で過ごせる空間を提供するのも、社会的には必要なことである。
クラブがあるのは、そうなんだろうと思うが、特に関心はない。若い人たちにとっては、文字通り踊り明かせる楽しい場所なんだろう。
朝になると、地域の路上の掃除をする人がいる。地域の不動産屋さんの従業員だという。路上で飲み食いして、空き缶などを放置していくというのは、社会的なマナーの低下という印象がある。(日本の風習として、野外で飲食するということは、あってもいいとは思うのだけれど。)
八百屋さんが商売が成りたつのは、飲食店などの需要があるからだろうと思う。
ところで、番組の始めに出てきたような地元に生活する人たちは、日常の買物など、どこでどうやっているのだろうか。
渋谷の歴史としては、いろいろと語るべきことがある。私の覚えている渋谷の町は、サラリーマンの町であり、学生の町だった。それから、本屋さんのある町だった。再開発の進む渋谷の町に行ってみようとは思わない。
2025年6月30日記
新日本風土記 「渋谷の細道」
録画してあったのを見て、思ったことを書いてみる。
始まりは、丸山と神泉のつなひきだった。今どき、つなひきなど学校の運動会でもしないだろうと思うのだが、町内でやっている。今でも、普通に人の住む町である、ということになり、子どももいる。
氷屋さんが商売をしている。渋谷の街の飲食店を相手にしていれば、ある意味で非常に手堅い商売かとも思える。それにしても、氷の種類だけで、あんなにたくさんあるとは知らなかった。大きさとか砕き方で、商品の種類がある。こういう付加価値を見出すのも、ビジネスの要諦なのだろう。グラスの大きさに合わせて氷を砕く作るというのは、発想として秀逸だなと感じる。こういうことは、他の氷屋さんでもやっているのだろうか。
このあたりが、昔は料亭などの建ち並ぶ花街であったことは、もうほとんど忘れられてしまっている。その名残が、ごく一部の店に残っていたりする。坂道の階段が、そう言われてみれば、左褄をとった女性(もう、今ではこんな言い方自体がすたれてしまっている)が歩きやすいようにということになる。
それでも、まだ、芸者さんが残っている。渋谷においては、絶滅危惧種といっていいのだろう。ここで、芸者さんと一緒に遊ぼうというような人はいったいどんな人なのだろうかとも思う。「紙がない」というのは、おそらく枕紙で、一種のばれ歌だろうと思うのだが、WEBを検索したが出てこない。(できれば、NHKで記録してどこかに残しておいてほしい。)これも、状況によっては、今ではハラスメントになることである。そこをうまくとりなす、大人のおねえさんという存在がいなくなってしまったことも、ちょっとさびしくもある。
丸山のラブホテルの中に、NHKのカメラが入って従業員の姿とか経営者の昔話を取材するのは、珍しいかもしれない。これも、歴史的にみれば、社会的な必用性があって生まれたものということになる。安全に男女(に限らないかもしれないが)で過ごせる空間を提供するのも、社会的には必要なことである。
クラブがあるのは、そうなんだろうと思うが、特に関心はない。若い人たちにとっては、文字通り踊り明かせる楽しい場所なんだろう。
朝になると、地域の路上の掃除をする人がいる。地域の不動産屋さんの従業員だという。路上で飲み食いして、空き缶などを放置していくというのは、社会的なマナーの低下という印象がある。(日本の風習として、野外で飲食するということは、あってもいいとは思うのだけれど。)
八百屋さんが商売が成りたつのは、飲食店などの需要があるからだろうと思う。
ところで、番組の始めに出てきたような地元に生活する人たちは、日常の買物など、どこでどうやっているのだろうか。
渋谷の歴史としては、いろいろと語るべきことがある。私の覚えている渋谷の町は、サラリーマンの町であり、学生の町だった。それから、本屋さんのある町だった。再開発の進む渋谷の町に行ってみようとは思わない。
2025年6月30日記
ウチのどうぶつえん「君たちはどう泳ぐか」 ― 2025-07-03
2025年7月3日 當山日出夫
ウチのどうぶつえん 君たちはどう泳ぐか
カピバラが泳ぐということは、知らなかった。イメージとしては、冬になると温泉につかっている動物……まあ、これは、日本の動物園ならではのことかと思うが……なのだが、水のなかに入るということは、当然ながら、泳ぐこともできるはずである。
臆病なカピバラを水のなかに誘導する、飼育員さんたちの奮闘がとても面白い。
誕生日にもらったお祝いのエサでも、ニンジンばかり残すというのは、好き嫌いがはっきりしている。やはり、カピバラでもニンジンは嫌いなのかな、と思う。
イルカが泳ぐのはあたりまえであるけれど、確かに、赤ちゃんが生まれて授乳も水中ということは、そのとおりだろう。これも、その訓練をしないとできない。飼育下にあるイルカならではの、いろんな苦労と工夫がある。
ジャガーが泳ぐということも知らなかった。まあ、たいていの動物は泳ぐことができるということは、知識としては知っていることではあるが。メキシコのお祭りは、見ていると、かなり本気でやっているようだ。あぶなくないのだろうか。少しぐらいあぶなくても、それでもやるのがお祭りというものなのであるが。(日本の岸和田のだんじりだって、かなり、いや、とっても危険である。)
ジャガーの鳴き声は、迫力がある。これを、現地で、ジャングルのなかで聞いたりしたら、かなり怖いにちがいない。
2025年6月29日記
ウチのどうぶつえん 君たちはどう泳ぐか
カピバラが泳ぐということは、知らなかった。イメージとしては、冬になると温泉につかっている動物……まあ、これは、日本の動物園ならではのことかと思うが……なのだが、水のなかに入るということは、当然ながら、泳ぐこともできるはずである。
臆病なカピバラを水のなかに誘導する、飼育員さんたちの奮闘がとても面白い。
誕生日にもらったお祝いのエサでも、ニンジンばかり残すというのは、好き嫌いがはっきりしている。やはり、カピバラでもニンジンは嫌いなのかな、と思う。
イルカが泳ぐのはあたりまえであるけれど、確かに、赤ちゃんが生まれて授乳も水中ということは、そのとおりだろう。これも、その訓練をしないとできない。飼育下にあるイルカならではの、いろんな苦労と工夫がある。
ジャガーが泳ぐということも知らなかった。まあ、たいていの動物は泳ぐことができるということは、知識としては知っていることではあるが。メキシコのお祭りは、見ていると、かなり本気でやっているようだ。あぶなくないのだろうか。少しぐらいあぶなくても、それでもやるのがお祭りというものなのであるが。(日本の岸和田のだんじりだって、かなり、いや、とっても危険である。)
ジャガーの鳴き声は、迫力がある。これを、現地で、ジャングルのなかで聞いたりしたら、かなり怖いにちがいない。
2025年6月29日記
ダークサイドミステリー「2700億円!史上最大の偽札事件 大志を抱け!詐欺師わらしべ物語」 ― 2025-07-03
2025年7月3日 當山日出夫
ダークサイドミステリー 2700億円!史上最大の偽札事件 大志を抱け!詐欺師わらしべ物語
再放送である。最初は、2023年9月21日。
詐欺事件もいろいろとあると思うが、これは面白い。人を殺したということでもないし、これで、ポルトガル経済が大打撃を受けたということでもないようだ。ピカレスクとして秀逸である。
アルヴェス・レイスは、よほど運のいい男といっていいだろうか。当時(20世紀の初頭)のポルトガルでは、オックスフォード大学の卒業証書など、誰も見たことがないはずだから、偽造してしまう。
人間は、小さなウソにはだまされるが、大きなウソは信じてしまうと、ヒトラーが言ったのだが、これは、そのとおりだといわざるをえない。ヒトラーが奸知にたけていたというよりも、おそらくは、古今東西の人類の歴史をつらぬく真理といっていいだろう。
その時代のポルトガルの殖民地だったアンゴラに行って、鉄道の技術者として、これはまともな仕事をしたらしい。
アンゴラでひともうけしようとして、あるいは、困窮しているアンゴラの経済を立て直そうとして、巨額の資金を調達するのに、本物の紙幣を印刷する。このころ、ポルトガルでは、紙幣の印刷は、他国の業者に発注していたというのも、ちょっとおどろいたことである。紙幣は、自国内で作るものだと思っていたのだが、必ずしもそうではないことになる。(近代になってから、紙幣や貨幣の印刷や製造が、実際にどこの国のどんな工場で行われていたのか、これは、とても面白いことのようだ。日本の場合は、大蔵省印刷局(今の国立印刷局)や大坂造幣局が、国内でその仕事をしていたということになるだろうが。ただ、戦争中の軍票の印刷などは、どうだったのだろうか。)
本物の偽物(?)がばれたのも偶然ということになる。紙幣の印刷を発注するとき、紙幣の番号はどうなるのか、そこは確認しなかったということになるのだろうか。
こういう壮大な詐欺の話しは、とても面白い。(まあ、今の、国際政治や国際金融も、ほとんどにたりよったりであるのかとも思ってしまうのであるが。)
興味深かったことは、詐欺の話しの本筋とは関係ないが、やはりこの時代(20世紀のはじめ)であると、殖民地の開発には鉄道の敷設がまず行うことだった、ということがある。鉄道を走らせるよりも、道路を作った方が工事としては簡便であるにちがいないが、この時代の自動車の技術では、大量の物資を安定して輸送することができなかった。鉄道がまず第一であった。これは、日本でも同じある。近代になって、全国に鉄道網がつくられ、それが、今日では道路に変わった。トラック輸送が、物流のメインになっている。といって、鉄道による貨物輸送もその必用性がなくなったわけではないが。
また、近代の経済史において、中央銀行の役割、その経営、ということは、いろんな国でいろんな事情があったことになるのだろうが、経済史、経済政策史の視点から見ると、この事件は、どう見えるのだろうか。さらには、紙幣(貨幣)とは何か、という問題からも面白い事件であるにちがいない。
2025年6月26日記
ダークサイドミステリー 2700億円!史上最大の偽札事件 大志を抱け!詐欺師わらしべ物語
再放送である。最初は、2023年9月21日。
詐欺事件もいろいろとあると思うが、これは面白い。人を殺したということでもないし、これで、ポルトガル経済が大打撃を受けたということでもないようだ。ピカレスクとして秀逸である。
アルヴェス・レイスは、よほど運のいい男といっていいだろうか。当時(20世紀の初頭)のポルトガルでは、オックスフォード大学の卒業証書など、誰も見たことがないはずだから、偽造してしまう。
人間は、小さなウソにはだまされるが、大きなウソは信じてしまうと、ヒトラーが言ったのだが、これは、そのとおりだといわざるをえない。ヒトラーが奸知にたけていたというよりも、おそらくは、古今東西の人類の歴史をつらぬく真理といっていいだろう。
その時代のポルトガルの殖民地だったアンゴラに行って、鉄道の技術者として、これはまともな仕事をしたらしい。
アンゴラでひともうけしようとして、あるいは、困窮しているアンゴラの経済を立て直そうとして、巨額の資金を調達するのに、本物の紙幣を印刷する。このころ、ポルトガルでは、紙幣の印刷は、他国の業者に発注していたというのも、ちょっとおどろいたことである。紙幣は、自国内で作るものだと思っていたのだが、必ずしもそうではないことになる。(近代になってから、紙幣や貨幣の印刷や製造が、実際にどこの国のどんな工場で行われていたのか、これは、とても面白いことのようだ。日本の場合は、大蔵省印刷局(今の国立印刷局)や大坂造幣局が、国内でその仕事をしていたということになるだろうが。ただ、戦争中の軍票の印刷などは、どうだったのだろうか。)
本物の偽物(?)がばれたのも偶然ということになる。紙幣の印刷を発注するとき、紙幣の番号はどうなるのか、そこは確認しなかったということになるのだろうか。
こういう壮大な詐欺の話しは、とても面白い。(まあ、今の、国際政治や国際金融も、ほとんどにたりよったりであるのかとも思ってしまうのであるが。)
興味深かったことは、詐欺の話しの本筋とは関係ないが、やはりこの時代(20世紀のはじめ)であると、殖民地の開発には鉄道の敷設がまず行うことだった、ということがある。鉄道を走らせるよりも、道路を作った方が工事としては簡便であるにちがいないが、この時代の自動車の技術では、大量の物資を安定して輸送することができなかった。鉄道がまず第一であった。これは、日本でも同じある。近代になって、全国に鉄道網がつくられ、それが、今日では道路に変わった。トラック輸送が、物流のメインになっている。といって、鉄道による貨物輸送もその必用性がなくなったわけではないが。
また、近代の経済史において、中央銀行の役割、その経営、ということは、いろんな国でいろんな事情があったことになるのだろうが、経済史、経済政策史の視点から見ると、この事件は、どう見えるのだろうか。さらには、紙幣(貨幣)とは何か、という問題からも面白い事件であるにちがいない。
2025年6月26日記
ドキュメント72時間「山形 小さな動物園で」 ― 2025-07-03
2025年7月3日 當山日出夫
ドキュメント72時間 山形 小さな動物園で
人なつっこいシカだなあ、というのが印象に残る。かなり高齢みたいで、いまから野生にもどされても生きていくことは難しいだろう。もう、この動物園でくらしつづけることしかない。それを、かわいそうと思うか、人によって見方は分かれるところかもしれない。
ノスリもどうだろうか。片目が見えないということだったが、これで、野生にもどって狩りができるのだろうか。
動物園は人間の事情で作ったものではあるが、そこでしか生きることのできない動物がいて、そこを訪れる人がいるのであるならば、これはこれでいいと、私は思う。
過疎高齢化の地域だとは思うのだが、それでも、地域の人びとは元気に生きていると感じる。(そのように編集してあるということだとは思うが。)
動物に過度に感情移入して見るということは、避けるべきことだとは、ひごろから思ってはいるけれど、世の中に、このような小さな動物園があってもいいと思う。
2025年6月28日記
ドキュメント72時間 山形 小さな動物園で
人なつっこいシカだなあ、というのが印象に残る。かなり高齢みたいで、いまから野生にもどされても生きていくことは難しいだろう。もう、この動物園でくらしつづけることしかない。それを、かわいそうと思うか、人によって見方は分かれるところかもしれない。
ノスリもどうだろうか。片目が見えないということだったが、これで、野生にもどって狩りができるのだろうか。
動物園は人間の事情で作ったものではあるが、そこでしか生きることのできない動物がいて、そこを訪れる人がいるのであるならば、これはこれでいいと、私は思う。
過疎高齢化の地域だとは思うのだが、それでも、地域の人びとは元気に生きていると感じる。(そのように編集してあるということだとは思うが。)
動物に過度に感情移入して見るということは、避けるべきことだとは、ひごろから思ってはいるけれど、世の中に、このような小さな動物園があってもいいと思う。
2025年6月28日記
100分de名著「アトウッド“侍女の物語”“誓願” (4)闘う女たち」 ― 2025-07-04
2025年7月4日 當山日出夫
100分de名著 アトウッド“侍女の物語”“誓願” (4)闘う女たち
世の中を二分して考える考え方はいろいろとある。資本家と労働者に分けることもあるし、賢者とそうでないものと分けることもある。自民族と他民族、自分たちとそうではない外部の人と分けることもある。支配者層と被支配者層もあるだろう。多数派と少数派に分けることもある。人間を男性と女性に分けて考えるのも、その一つということになる。
このような作品を理解するうえで重要なのは、二分して考えることで、どういうことが見えてくるのか、そして、同時にどういうことが見えないのか、ということについての俯瞰的な視点を持つことだろうと思っている。
こんなふうに思うことの理由としては、人間を資本家と労働者に分ける考え方が、かつては「科学」であった時代のことを、覚えているからである。今の若い人には、とても信じられないことかもしれないが。そして、さらにたちの悪いことには、その考え方が教条化してしまったことがある。
そういう意味において、人間を男性と女性に分けて考えることで、何が言えるのかということについて、そのことによって見えることと、見えないこと、これに自覚的であるかどうか。また、別の視点から見ればどうなるのか……ということがあるのか、こういうことが重要であると、思うのである。人間を、男性と女性に分けて、支配者と被支配者に分ける、これは一つの考え方であるが、だからといって、それがすぐに真理である、とは限らないだろう。しかし、間違っているというのでは、もちろんない。
それから、アメリカにおける図書館の禁書の問題は、もうちょっと丁寧に論じた方がいいと思う。禁書をふくめて、情報や出版の制限や検閲がある国は、世界中にたくさんある。
2025年7月1日記
100分de名著 アトウッド“侍女の物語”“誓願” (4)闘う女たち
世の中を二分して考える考え方はいろいろとある。資本家と労働者に分けることもあるし、賢者とそうでないものと分けることもある。自民族と他民族、自分たちとそうではない外部の人と分けることもある。支配者層と被支配者層もあるだろう。多数派と少数派に分けることもある。人間を男性と女性に分けて考えるのも、その一つということになる。
このような作品を理解するうえで重要なのは、二分して考えることで、どういうことが見えてくるのか、そして、同時にどういうことが見えないのか、ということについての俯瞰的な視点を持つことだろうと思っている。
こんなふうに思うことの理由としては、人間を資本家と労働者に分ける考え方が、かつては「科学」であった時代のことを、覚えているからである。今の若い人には、とても信じられないことかもしれないが。そして、さらにたちの悪いことには、その考え方が教条化してしまったことがある。
そういう意味において、人間を男性と女性に分けて考えることで、何が言えるのかということについて、そのことによって見えることと、見えないこと、これに自覚的であるかどうか。また、別の視点から見ればどうなるのか……ということがあるのか、こういうことが重要であると、思うのである。人間を、男性と女性に分けて、支配者と被支配者に分ける、これは一つの考え方であるが、だからといって、それがすぐに真理である、とは限らないだろう。しかし、間違っているというのでは、もちろんない。
それから、アメリカにおける図書館の禁書の問題は、もうちょっと丁寧に論じた方がいいと思う。禁書をふくめて、情報や出版の制限や検閲がある国は、世界中にたくさんある。
2025年7月1日記
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