『とと姉ちゃん』「常子、はじめて祖母と対面す」「常子、編入試験に挑む」2025-06-01

2025年6月1日 當山日出夫

『とと姉ちゃん』「常子、はじめて祖母と対面す」「常子、編入試験に挑む」

この週を見て思ったことなど書いておく。

このドラマは、これまでのところ、家と家族の物語として見ることができる。木場の青柳の家は、昔ながらの家である。滝子、つまり、女性が当主であるが、その意識としては、200年続いてきた、昔からの商いを重視する老舗である。(これが、京都だったら、たかが200年と言われるところであるが。)

一方、小橋の方は、家族である。父親は亡くなってしまったが、母親と娘三人で構成されている家族である。

近代になってから、それまでの家というのは、近代的な個人の自由を束縛する封建的遺制であるとして否定され、それに変わって家庭というものが重視されるようになってきた(かなりステレオタイプないいかたではあるが)、このような大きな流れがある。むろん、これもさかのぼれば、歴史的に大昔から家があったわけではないし、逆に、現代では家庭というもの、さらには、結婚という制度そのものが、個人を束縛するものとして、否定的に考える傾向になってきている。(一部の先端的な(?)考え方としては、ということになるかもしれないが。)

常子が、昭和の時代に生きた自立した女性として描かれるということは、まずは、昔の家からは解放される必要がある。別に書いてもいいことだろうが、木場のあたりは、昭和20年の東京大空襲で壊滅的な被害を受けることになる。それが将来に起こることであるということをふくんで、木場の材木商という設定にしてあるのだろうと思う。

青柳の家を出て、常子たちは、お弁当屋の森田屋で働くことになる。ここは、家族営業のお弁当屋さんであり、青柳の店に比べると規模は小さい。基本は、家族が従業員であり、その主人はいばっている。ここも、(その後、戦後になって考えられる)民主的な夫婦を単位とする家庭ではない。それ以前の姿をとどめている、ということになる。

家、家庭、個人、このようなことを、このドラマでどう描いていたことになるのか、今後の展開を見ながら確かめてみようと思う。

2025年5月30日記

『チョッちゃん』(2025年5月26日の週)2025-06-01

2025年6月1日 當山日出夫

『チョッちゃん』

この週で蝶子は、岩崎要の結婚のもうしこみに、「はい」と言ってしまう。この流れはかなり強引である。

要は蝶子に歌を歌ってみろという。要がピアノを弾き、蝶子が歌う。それを聞いて、声楽家は無理だから、おれの嫁さんになれ、と言う。ここが、今の普通のドラマだったら、声楽家になるために勉強を続けてもいいから、いや、その希望をかなえるように支えるから、結婚しよう、というふうになるところだろう。これは、昭和の戦前の価値観もあるが、このドラマの制作された1980年代では、このような筋書でも視聴者は納得していたということがあるはずである。

今の『あんぱん』では、若松次郎と結婚したのぶは、そのまま小学校の教員を続けている。これは、夫の次郎が船乗りで、家を空けている期間が長いからという理由になっている。昔のドラマだったら、夫の実家で、航海の帰りを待つ妻であり、その家族(夫の父親や母親)と一緒に生活する、ということになっていたところかと思う。『チョッちゃん』と比べて見ると、やはりここ四〇年ぐらいの時の流れを感じる。

要に最初に結婚をもうしこまれたとき、蝶子は、要をたたいてしまう。かなり乱暴な行動であるが、とっさの動作として、こういうこともあったろうし、だからといって蝶子が無分別な女性という印象にはならない。突然のことで、思わず行動に出てしまったということであるが、その意図を、要も理解しかねる。もちろん、蝶子自身も、なぜ自分がそのような行動をとったか理解できないでいる。このあたりがこのドラマの蝶子の魅力かと感じるところである。

要の求婚について、おばさん(富子)は反対する。要が女性にだらしないからというのが理由である。これまでの朝ドラで、こういうタイプの男性と結婚するというのは珍しいかと思う。

蝶子は、まわりの人に相談する。蝶子の週の人たちは、みんな大人である。そのなかで、もっとも冷静な判断をしているのが、神谷先生ということになるだろうか。しかし、自分で決めることだと言われても、自分でどうしていいか分からないから、蝶子は困惑しているのだから、あまり助言としては役にたたなかったことになる。

北海道の幼友達の頼介から手紙が来た。その文字を見ると、その生まれ育った境遇が分かる。まともに学校教育を受けることができなかった、貧しい農家の育ちということが分かる。これに対して、蝶子が手紙を書くシーンがあったが、それを見ると、女学校できちんとした教育を受けた女性であることが分かる。

それから、この時、蝶子はペンにインクをつけて書いていたが、この時代であれば、これが普通だった。その後も、昭和四〇年代ぐらいまで(私が中学生ぐらいまで)、普通に使っていたものである。こういうところも、今の時代に制作するドラマだと、万年筆で書くようになっている。『あんぱん』では万年筆で手紙を書いている。

また、蝶子の書いた文字は、女性の文字である。この時代であれば、ペンで書いてあっても、その筆跡を見れば、女性が書いたものとわかる。そういう時代であったのである。

その他、蚊帳とかはえ叩きとか、その時代においてごく普通にあり、ごく近年まで日常的にあったものが出てきている。これらは、本当に今の生活では目にすることがなくなってしまったものである。ほぼ同じような時代設定で描いている『あんぱん』では、こういう小道具は出てきていない。こういうところにも、時代の流れを観じることになる。

2025年5月31日記

『あんぱん』「絶望の隣は希望」2025-06-01

2025年6月1日 當山日出夫

『あんぱん』「絶望の隣は希望」 

今の時代に、昭和の戦前のドラマをつくるとこうなるのかなあ、という気はするのだが、やはり見ていて気になるところがいくつかある。時代的な背景を抜きにして、登場人物だけを見ているならば、それなりに面白く作ってあるとは思うのだけれども、不自然なところがあると感じる。

父親の危篤という電報を受け取って、嵩は高知にもどる。さすがに、嵩の下宿には電話は無いということなのか、これまでのように、高知と東京がすぐに長距離電話がつながるということはなかった。

嵩は卒業制作を仕上げてからと頑張るのはいいとしても、この時代(確か昭和14年のころのはずである)、東京から高知に向かう列車が、ガラガラということはありえないだろう。ここは、乗客を登場させることぐらいあってもいいはずである。(こういうところで手抜きをして作ってあるなと感じる、いろいろと気になるところばかりになってしまう。)

のぶは次郎と結婚する。その結婚式を、花嫁の家である御免与の朝田の家でするだろうか。家でするとしても、ここは高知の次郎の住む家の方だろう。あるいは、お見合いをした料亭とか、洋食を食べて話しをしたレストランとかであってもいいかと思う。そうではあっても、日常生活の華美が遠慮された時代として、ごくごく内輪の人間だけで、ということになったとは思う。こういうことを、科白かナレーションで、説明することも、この時代を描くこととして重要だろう。

なぜ、朝田の家で結婚式だったのか、説明があった方がいいと思ってしまう。次郎は、航海にばかり出ているので、高知の家はただ寝るだけのところである、というようなことでもよかった。しかし、それにしては、結婚した直後の次郎の家は、ごく普通の住居であるように描かれていた。朝田の家での結婚式がどうも納得できない。

結婚式の日取りが決まったと次郎が朝田家にやってくるのも、どうなのだろうか。普通なら、仲人がはいって連絡をとってだろうと思う。仲人がいないということなら、そういうことになったとなにがしかの説明があった方が自然である。

この時代に写真を趣味にできるというのは、かなりの資産家であったと思われるのだが(以前にも書いたように、ライカが一台あれば家が買えたという、まさに富の象徴である)、のぶの生活は、そのような資産家にとついだ玉の輿ではなかったようである。このあたりの描き方も、理解できない。

この週の展開で、もっとも気になるのは、朝田パンの店で、乾パンを焼くかどうかの問題。ドラマを見ていると、高知の地方の連隊の判断として、朝田パンに乾パンの製造を依頼した、ということのようである。これは、今のことばでいえば、随意契約として民間の業者を選定したということである。

陸軍の食糧などを統括するのは、陸軍経理部であるはずであり、そこを担当する軍人は、陸軍経理学校出身であるはずである。そして、呼称も普通の軍人の階級とは異なる。そして、乾パンについては、地方の連隊で、単独に地元の業者と契約するようなものではなかっただろう。兵士が食べるものを規則にのっとって管理するのは、軍隊として当然のことである。おそらく極めて厳格な管理があったはずである。

このようなことは、Copilotでもつかって、陸軍の糧秣についてたずねてみる、Wikipediaで、いくつかの項目を見る、これぐらいのことで容易に分かる。

兵士の食べるものというのは、軍隊にとって基本である。それは厳しく管理されていなければならなかった。ちょっと古い本になるが、高野孟の『海軍めしたきものがたり』(新潮文庫)を読むと、その管理のあり方が、厳格なあまり過剰に官僚主義的形式主義的であったことが語られている。陸軍でもそう変わるものではなかっただろう。(食事もそうであるが、兵士を性病から守ることも、軍に求められたことであった。)

乾パンと言っているが、軍隊での用語としては、重焼麺麭・乾麺麭であったと思うが、一般に乾パンになっていたということでいいのだろうか。これは陸軍で採用した携行できて保存できる食糧である。メイコは美味しいといって食べていた。しかし、この食べ物の場合は、焼き上がってすぐのものを食べて美味しいとかどうとかというものではないはずである。一般には、乾パンは美味しくないものの代表であった。少なくとも近年になって災害用の非常食として見なおされるようになるまでは、そうであった。やむおじさんが作っても、乾パンは美味しくない、これでよかったと思う。(まあ、このあたりのことは、現代では乾パンは災害用の非常食として見なおされているので、あまり悪い印象を作りたくないということだったかとは思うこともできるが。)

木箱に入れて連隊まで持って行ったようなのだが、これは、そのまま連隊での食事になるのだろうか。常識的には、数を決めて分けてさらに包装するなりして、携帯できるようにして戦地のおくるかと思う。これは、地方の連隊で独自におこなうようなものではなく、陸軍全体での兵站の仕事として、中央で取り仕切ることのはずである。だからこそ、これ(軍隊のでの食糧)についての専門家を養成するための、陸軍経理学校が必要になったのである。戦地ではなく、国内でのことであるから、逆に普通の軍人が口出しすべきことではなかったにちがいない。軍の組織の縦割りの硬直化ということこそが、問題になるべきところだろう。

ここまでの展開を見ていると、どうしても、パンと軍隊を結びつけて筋書きを作りたいようで、かなり無理な展開になっていると感じざるをえない。別に、町の中のパン屋さんが乾パンを作ったからといって、それが軍に協力した、強いていえば戦争に協力した軍需産業であった、などということはないだろうと思う。これが普通の人間の感覚だと思うのだが、どうだろうか。こういうことを言いだせば、軍隊で食べるお米を作った農家も、戦争協力者として非難されなければならなくなてしまうと思うが。

むしろ、この時代、普通に生活していることが、そのまま戦争につながることになっている、徐々にそうなっていく、という時代の変化、人びとの意識のあり方、生活の変化ということを描いておくべきことと思えてならない。

たとえば、(以前に少しだけ出てきた)「のらくろ」でもいいはずである。これは、明らかに軍国漫画であった。二等兵からはじまって最終的には大将にまでなる。それを楽しく読む子どもたちの姿を描いてはいけないのだろうか。(ただ、田河水泡の没年を見ると、まだ著作権は消えていないので、使えなかったということだろうか。)

前にも書いたことだが、朝田石材店に戦没者の墓石の注文がある、ということでもいい。釜じいは、そのような注文はこなしてきたが、豪の墓石だけはどうしても彫ることが出来なかった、ということでもよかったはずである。この方が、豪を失った嘆きが強く表現できたにちがいない。あるいは、徐々に材料が手に入らなくなって、あんパンを作ることがむずかしくなっていく、ということがあってもよかったはずである。そうであってこそ、軍用の乾パンのために、軍から小麦粉などを特別の枠で提供してもらえるということが、活きてくる。なぜ、こういうことを描いていないのだろうか。脚本が何も考えていないとしか思えない。

確認のため繰り返しておく。

乾パンは、軍用であり、美味しくないもの、食べにくいものの代表であった。しかし、その乾パンさえも食べることが出来なくて、多くの兵士は飢えて死んでいった。やむおじさんとしては、おいしくない乾パンを作らされるのは、軍の仕事をするのが嫌だったということよりも、パン職人として我慢できなかったという方が、自然である。

乾パンなど陸軍の食糧の生産と管理はどのようなものであったか、説得力を持って描けていない。近代になってから、軍隊(陸海軍)が、日本人の食事の全体に大きな影響を与えてきたということは、歴史の常識である。

どうも、このドラマのスタッフ、脚本は、この時代の人びとの生活の意識ということについて、あまりに知識と想像力がなさ過ぎるという印象がある。どう感じるかは世代差があることがらとは思うが、私としては違和感を感じるところが多々ある。

2025年5月30日記

ハイケン内見 〜世界の町で部屋探し〜「ローマ」2025-06-02

2025年6月2日 當山日出夫

ハイケン内見 〜世界の町で部屋探し〜 ローマ

番組表でたまたま見つけたので録画しておいて見た。

こういう視点で、外国に住む人の生活について語るということは、面白いと思う。まあ、この場合、出てきた人が中流以上の階級の人びとだから、というかたよりはあるにちがいないが。かといって、下層(とあえていうが)の人びとであったりすると、取材などがむずかしいかもしれない。もちろん、スラムにくらす人びとのことは、こういう方法では無理だろう。

古代の遺跡の一部を使った建築があるというのは、いかにもローマらしい。

バスルームで、バスタブは無くてもいい、いや、今では無いのが当たり前ということや、ビデは必需品というのは、面白い。(日本だと、トイレのウォシュレットは当たり前で、それにはビデ機能もついているが、このあたりは、どうなのだろうか。)

玄関をはいってすぐに寝室があり、その寝室の壁が全面の鏡になっているというのは、ちょっと日本ではないだろう。(まあ、鏡をつける人はいるかもしれないが。)

出てきた家のベッドルームが、どれも、ダブルベッドになっていたのは、たまたまなのだろうか。ここは、今の日本だと、シングルを二つ置くことが多いかもしれない。

自分の部屋、書斎、というべき使い方の部屋はどうなるのか、ということは気になる。(今の時代だと、家のなかでWi-Fiがつながるかどうかということが、気になるところなのだが。)

台所のシンクが二つ並んであるというのは、便利そうだが、日本でこういう需要があるだろうか。

自分が死んだら所有権が移るという売り方は、ある意味で合理的ではある。ただ、これは、建物の耐用年数が長い、ということがあってのことになる。日本のような木造建築が主流のところでは、これは無理かもしれない。

気になったのは、五階まで登るのに階段ということ。日本でも、古く建てられた団地などで、こういうところはまだあるかもしれないが、今だと、エレベータが必須だろう。特に、住む人が高齢になってくれば、階段を登るのは苦労がある。こういうことは、ローマの人は平気なのだろうか。

番組の趣旨からしてあつかわなかったのだろうが、郊外の住宅地とか、新しい高層マンションとか、中はいったいどうなっているのだろうか。

2025年5月27日記

『八重の桜』「八月の動乱」2025-06-02

2025年6月2日 當山日出夫

『八重の桜』「八月の動乱」

私の思うところでは、『八重の桜』での松平容保(綾野剛)が、他の作品の誰よりも印象に残るところがある。武士なのだが、武士らしくない感情をうまく表現している。忠誠心が、この場合には、孝明天皇に対してのものになっている。これは、もうほとんど、(あまりいいことばが思いつかないが)盲目的な恋愛感情に近い。

だからということもあるのだろうが、このドラマにおいては、あまり女性が活躍しない。無論、主人公は、八重であるのだけれども、今のところ会津の自分の家でくすぶっているだけである。活躍することになるのは、会津戦争においてであり、その後、京都に舞台が移ってから、同志社を設立するあたりになる。ここで、ようやく八重の女性としての側面(?)が表現されるようになる。

この意味では、『八重の桜』の前半においては、松平容保が大きな位置をしめる。孝明天皇と松平容保の関係は、ほとんど恋愛感情に近いと言ってもいいかもしれない。両者とも、非常に女性的な人物造形になっている。いわゆる男性的な猛々しさという部分がまったくない。

こうなると、武士としての忠誠心などは、どうでもよくなってしまう。その結果として、戊辰戦争での会津の悲劇と続くことになるので、会津藩にとっては、よくよく貧乏くじの殿様にあたってしまった(というのは言い過ぎかとも思うが)となるかもしれない。容保の朝廷への忠誠心と、八重たち会津藩の人びとの、藩への忠誠心、これが、ドラマのなかで違和感無く融合しているところが、このドラマの面白さといっていいかと思う。

2025年6月1日記

『べらぼう』「蝦夷桜上野屁音」2025-06-02

2025年6月2日 當山日出夫

『べらぼう』「蝦夷桜上野屁音」

この回の演出は、大原拓。かなり凝った映像で表現している。往年の映画監督でいうならば、五社英雄監督あたりを彷彿させる。終わりの方であった、吉原の宴会シーン「屁」など見ると、そう思う。

誰袖がいい。以前の瀬川とはちがった魅力を出している。ちらっと映っていただけであるが、吉原のお稲荷さんで拝んでいるときの後ろ姿が、なんとも妖艶である。

時代劇ではよく出てくることだと思うが、キセルの雁首を灰吹きに打ち付ける。これを効果的に使って場面転換をするということが、巧みに演出してあったと思う。

狂歌は、あんなものだったのかなあ、という印象である。五七五七七に作ればいいというものではないし、どことなく雅の要素(古典的な和歌の何かを感じさせる)があって、そのパロディとして面白く、そして、世の中に対する風刺と笑いの部分がなければならない。ただ、おもしろおかしいだけのものというのも、世の中の状況によっては、痛烈な風刺となりうる。

『赤蝦夷風説考』は、昔、高校の歴史の教科書で出てきたのを憶えている。

このドラマのなかでは、ロシアは日本との交易を求めてきている、ということであったが、大きな歴史の流れとしては、いわゆる南下政策ということになる。これが、江戸時代のなかばぐらいのころから、日本にやってくるようになり、最終的には、幕末にいたって、いわゆる開国ということになる……常識的には、こういう筋書で考えることになるだろう。(そして、この延長として、近代化をすすめる日本との間での、朝鮮半島から満州地域の覇権をめぐって日露戦争ということになる。『坂の上の雲』の時代ということになる。)

歴史のもしも、ということになるが、もし、田沼意次の時代に北海道を天領にして開発に乗り出したとしても、はたしてどうだっただろうか、という気はする。まあ、松前藩がもうけていた分を、幕府が横取りするということになったとは思うが。

錦絵というのは、絵師だけの技量で決まるものではなく、彫師、摺師、これらの協業のうえに成立する。最終的にどんな色で表現することができるのか、絵師が絵の具で描いた色が、板木ですると実際にはどうなるのか、ここを見定めることができる人間が、軸になって指示しなければ、いい作品はつくれない。こういう視点での、蔦重の役割がどうであったのか、ということになる。

江戸の出版を戯作だけで描くことはどうかなと、相変わらず思うところはあるのだが、しかし、戯作や狂歌にかかわることになる人びとを、吉原をからめて、それぞれの人物像を描くということについて見れば、このドラマは、成功しているといっていい。作品のアイデアをめぐってのライバル意識、絵師であったり戯作者であったりして、どの分野でどのような作品・作風で勝負するか、このあたりの人びとの人間関係の気持ちは、これはおそらく現代にも通じるものというべきであろう。

本を作る、錦絵を作るには、全隊について指図する人間が必要である。こういうことで本や錦絵にかかわることができる、蔦重は気づくことになる。そして、「そうきたか」というアイデアで、読者にアピールする道があることを、目指すことになる。この方向で、後に歌麿が絵師として世に出ることになる、ということであろう。

恋川春町は、ややこしい人物である。そこをなんとかその気にさせて筆をとらせるのも、出版にかかわる蔦重の仕事ということである。

松前藩では、抜け荷をしている……だが、このようなことは、公然の秘密であったような気もするのだが。薩摩が琉球を支配し交易していたということもふくめて、知られていたことだったと思っているのだが、どうなのだろうか。

一橋治済は、あいかわらず不気味である。あまり科白はないけれど、その存在感は尋常ではない。前回まで薩摩と仲がよかったとあったが、今回では松前藩と仲がいいということになっている。史実はともかく、日本全体を視野にいれた交易ということを考えていたことになる。

この回は、脚本としても面白いし、また、映像としてみてもケレン味たっぷりの魅力がある。

2025年6月1日記

ドラマ人間模様『國語元年』(5)2025-06-03

2025年6月3日 當山日出夫

ドラマ人間模様 『國語元年』(5)

『國語元年』は、文庫本で二種類がある。中公文庫版、これはドラマの脚本をもとにしたものである。新潮文庫版、これは舞台をもとにしたものである。両方とも読んでいる。そして、その結末は、南郷清之輔は、哀れな末路となる。

山口仲美先生の『日本語の歴史』(岩波新書)を読むと、この作品のことに触れてある。特に言及してあるのが、元・会津藩士で強盗であった若林虎三郎からの手紙である。全国統一話し言葉を、個人のちからで作りあげることはできない。国民の一人一人が、よりよい言葉を求めて努力する結果として出来上がるものである。このような趣旨のことを語っている。

その後、実際の歴史としては、日本語において「国語」の制定という方向になる。

このプロセスは、必ずしも全国民の意志によってなしとげられたというものではなく、かなりの部分は、国家の影響力……学校教育であったり、軍隊であったり……があり、また、新聞などのちからもあってのこと、ということになる。このことについて、現代では、かなり否定的に見る考え方がある。方言の否定であり、さらには、台湾や朝鮮といった外地(殖民地)の人びとにも、「国語」を押しつけることになったということがある。(帝国主義の時代、宗主国の言語が使われるようになるということは、いたしかたのないことだとは思うのだが。)

とはいえ、現代の日本において、全国のどこに行っても、ことばが通じなくて困る、ということはなくなっている。(これはこれとして、功罪としては、良かったことと認めざるをえないと私は思っている。)

また、現代では、絶滅が危惧される方言ということがある。

生活が変わればことばは変わる。地域の生活のなかに根ざした方言は、そのことばの地域社会が一定規模で維持できなくなれば、ほろびるのはいたしかたのないことである……残念であり、残酷ではあるかもしれないが、こう思うこともある。

以上のようなことを思いはするのだが、『國語元年』についていえば、印象に残るのは、登場人物それぞれのその後の人生である。おそらく最も幸せな人生だったかと思えるのは、ドラマの語り手であった、女中のふみぐらいかもしれない。それぞれ、明治の時代なら、こんなふうに生きたかもしれない、という人生である。南郷清之輔は、かわいそうであるが、しかし、そのままことばの仕事を続けるよりは、ある意味でよかったのかもしれない。そして、誰一人、歴史に名の残るような事跡を残してはいないということもある。それぞれに、近代の日本語が形成されるなかで、ごく平凡に生きた人生といっていいだろう。このような平凡な人生の積み重ねのおかげで、今の日本語の姿がある、ということなのであろう。

もちろん、現代でも日本語は変化している。それがどういう方向にむかっていくかは、日本語をつかう人びとそれぞれの生活にかかわっていると理解しておきたい。

2025年6月2日記

NHKスペシャル「未完のバトン 第3回 “均等法の母”に続く長い列」2025-06-03

2025年6月3日 當山日出夫

NHKスペシャル 未完のバトン 第3回 “均等法の母”に続く長い列

かなり考えてバランスを考慮して作った番組だなとは思うのだが、少し気になったところがあることもたしかである。

デンマークの事例があって、女性の首相であったことは言っていた。しかし、デンマークは、国会議員の数についてクオータ制をとっていないかと思う。ちょっとWEBで調べてみただけなのだが、はっきりとそう明言できないようである。見ていて、番組の流れとしては、ここのところで、すこし断絶があるなと感じるところがあったので、気になった。(強いていえば、すこしごまかして作ったな、という印象を持ってしまうことになる。)

デンマークについていうならば、最近のニュースで話題になったこととしては、女性も徴兵制の対象としたことがある。男女平等ということをいうならば、このようなことを避けてとおるということは、もはやできない時代になっているということを、まず理解しておくべきだろう。

完全な非武装論というのはあってもいいが、この議論とはまた別のことである。女性は平和を好むから兵士になるべきではない、というような方向の議論になったりすると、それなら、男性と女性と役割があってもよい、ということになる。

私は、アファーマティブアクション(このことばは、番組の中ではつかっていなかったが)を必ずしも否定はしない。状況によっては必要な場合もあると思う。だが、この結果として、逆に自分たちが疎外されていると感じる人たちを生み出しては、うまく機能しないものである、ということも考えられるべきだろう。

クオータ制は、単に男女だけの問題であるならばいいが、今の時代としては、いわゆるアイデンティティ・ポリティックスにおいて、さまざまな人のことを考えなければならなくなる。性の違いだけではなく、いわゆる人種や民族、宗教、言語、その他、いろんな要素がある。無論、人間を男性と女性とだけに二分して考えることは、現在のいわゆるリベラルな立場からは、もっとも否定されるべき価値観である。

男女の平等を政策的に推進した結果、かえって男女間の対立を生むということにもなりかねない。ある意味では、現代の韓国社会の問題かもしれない。ジェンダーの問題については、普通は欧米先進国という国のことが参照されることが多いのだが、アジアの近隣の韓国や台湾などのことも、考えてみるべきことだと思う。欧米=進んでいる、アジア=遅れている、という価値観がどこかにあると感じることになる。

このようなことを分かったうえで、では、これからの日本はどうすべきか……となると、常識的な考え方をこえるものではなかった。社会の人びとの意識の変化、制度の拡充、それを段階的に進めていくということぐらのところしか、おとしどころはないだろう。

男女の平等ということについては、現代の社会において共通の理解になっていることは確かである。問題は、その理想がどのような状態であれば実現したことになるのか、その具体像について、考え方の一致を見ることがむずかしいことである。それでもなお女性は差別されていると感じる女性はかならずいるだろうし、同時に、これでは逆に自分たちが差別されていると感じることになってしまう、特に社会的に弱い立場におかれた男性という存在のことも考えなければならない。

おそらくは、ロールズの言った正義についての考え方を、さらに深めていくということが必要だろうと思う。

2025年6月1日記

映像の世紀バタフライエフェクト「シリーズ 核の80年(1)核拡散 恐怖と不信の連鎖」2025-06-03

2025年6月3日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト「シリーズ 核の80年(1)核拡散 恐怖と不信の連鎖」

アメリカ
ソ連
イギリス
フランス
中国
インド
パキスタン
北朝鮮

番組のなかで、現在、核兵器を所有している国は、9か国である言っていた。しかし、具体的に名前が出てきたのは、上記の国であり、8か国になる。常識的に考えると、持っている可能性があるが、それと表明していない国として、イスラエルをふくめることになるはずである。

こういう番組をつくる以上、しかたのないことだろうと思うが、どうしてもアメリカのことに内容がかたよりがちである。無論、アメリカの核開発の歴史ということは重要なのだが、核の拡散という視点としては、それ以外の国々が、どういう経緯で核開発にいたったのか、その国家の意思決定、それから、その技術をどのように手に入れたのかということ、これらを総合的に見ることが必要だろう。

ロシアがウクライナ侵攻を始めたとき、ウクライナが核兵器を手放したことの是非について語られたことがあったが、このごろは、あまり言われないようである。

アメリカの核実験に参加した、アトミック・ソルジャーの兵士たちの記録は、その後の追跡調査をふくめて、詳しく調べられているのかもしれない。だが、これも、非常に重要な軍事情報である。一般にオープンになっているものとしては、広島と長崎の被爆者についての資料になるはずである。もし、実戦で使うことを考えるとするならば、かつての実験のときのデータ、兵士たちの、その後の状況(精神的、肉体的)がどうであったか、調べることになるにちがいない。(たぶん、その資料はあるのだろうが、機密扱いにされていると思うのは、かんぐりすぎだろうか。)

敵が持っているから、自分たちも持つことにする……基本的には、この論理で、核兵器の拡散がすすんでいったことになる。

将来的には、そして、(決して理想的ではないことかもしれないが)現実的な路線としては、核兵器使用のためのハードルを少しでも高くするように、国際的な世論をもっていく、という方向しかないのかもしれないとは思う。

軍産学の複合体の問題がある。これは、これからの時代は、AIなどのコンピュータ技術がメインになっていくのだろうが、ただ、国家の枠組みで統制できる範囲を超えたところで、開発競争が進む時代になっていくだろう。技術開発を国家が統制できる時代は、もはや終わったと考えるべきかと思う。

2025年5月30日記

「神田川紀行」2025-06-04

2025年6月4日 當山日出夫

再放送である。2023年の放送。最初は、2016年。

神田川紀行

4Kプレミアムカフェ (1)神田川(2016年)(2)首都高(2015年)

前半は、「発見!体感!大都会 東京を潤す 神田川紀行」である。録画してあった前半の神田川の部分を見て、思ったことなど書いておく。

東京には、大学生になってからしばらく住んでいたのだが、神田川を特に意識したことはなかった。住んでいたのは目黒が多かったので、目黒川の周囲は比較的よく知っている。今では、東京の桜の名所になっている。

ただ、『神田川』の曲は知っていた。これがはやったのは、私が、高校生のときだった。今でも、かぐや姫のCDは、Walkmanに入っている。番組中で、壇蜜が言っていたが、この曲がはやった時代に若いときをすごしている人は、なにがしかこの曲に思い入れがあるものだろう。

出てきていたことは、知っていること、知らなかったこと、いろいろである。

江戸の街、東京の街を、川の視点から見る、ということは、このごろどう考えられていることなのだろうか。江戸、東京の歴史に詳しい人なら、知識のあるところかとも思うのだが、あまりまとまったものとしては馴染みがない。この番組の企画のように、江戸、東京の街を、川の視点から考えるということは、意味のあることだろう。神田川と同じように、江戸川、隅田川、荒川、多摩川、いろいろと考えることはあるはずである。

水の無いところに人間は住めない。飲料水をはじめとする生活のための水。それから、物資の運搬のため、水運としての川や運河が重宝されることもある。

神田上水や玉川上水は、明治になるまで実際に使われてきていたはずだし、それが、その後、どのようになっていったか、興味のあるところである。調べれば、研究はあると思うのだが、もう今では面倒になってきているので、なんとなくそう思っているだけのことである。

江戸時代に江戸の街に住んでいた人たちは、飲料水をどうやって入手していたのだろうか。下町のあたりは、もとは埋め立て地であるから、井戸を掘って地下水を使うということはなかったはずである。

いろいろと出てきていたなかで、特に気になったのは、江戸更紗と、中野新橋。

江戸から近代の東京において、地場産業としての染め物業ということも興味深いが、人びとはいったいどんな着物を着ていたのだろうか。「色彩にもまた近代の解放があった」と、柳田国男は『明治大正史 世相編』の冒頭で書いているが、いったい実際にはどんな色彩の風景を歴史的に思い描けばいいのだろうか。最近、古い写真をAI技術でカラー化することが、流行って(?)いるのだが、これで、近世から近代、そして、現代までの、街の人びとの色彩の世界を再構築することが、どこまで可能だろうか。

中野新橋が、つい近年まで花街であった。人びとの「遊び」のスタイルも大きく変化したということである。かつてのような芸者さんとお座敷で遊ぶというような感覚は、もう廃れていく一方かと思う。まったく無くなるということはないかとも思うが。

これが、関東大震災の結果、下町界隈に住んでいた人たちが、新しく仕事の場所を求めて、東京のなかで移動してのことであった、ということが重要かと思う。関東大震災というと、その災害のこと、それから、流言飛語と朝鮮人の殺害のことが、大きく取りあげられる。先年の、関東大震災100年のときが、そうだった。あるいは、後藤新平の考えた新しい東京の復興計画が実現しなかったことがある。私の思うところ、これらと同時に考えべきこととして、灰燼に帰した下町地域に住んでいた人びとが、もとのところにもどったのか、もどった場合どんな生活をしたのか、あるいは、他の地域に移り住んで仕事をすることになったのか……生活の地域と人びとの流れがどうであったのか、ということである。

神田川の歴史をたどると、江戸から東京への歴史を見ることができる。水という視点から見た歴史を考えることの意味がある。

2025年5月23日記