「ふたつの敗戦国 ドイツ さまよえる人々」2024-11-01

2024年11月1日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ふたつの敗戦国 ドイツ さまよえる人々

戦争について、被害者の立場で語るか、あるいは加害者の立場で語るか、これははてしない議論になる。どちらが正しいということよりも、いずれについても歴史として、そのようなことがあったということを、受けとめればいいのだろうと、私は思う。

ただ、この番組で言っていなかった部分が気になる。それは、戦後のドイツが戦争、なかんずくホロコーストについて、加害責任を認める立場にたっていることは、同時にそれは、根本的にはナチスが悪いのであって、多くのドイツ人はその被害者である、という論理が存在していることである。ヒトラーによって加害者にさせられてしまったドイツ人ということになる。

同じような論理は日本についてもある。日中戦争から始まる太平洋戦争は、軍部が悪い、政治が悪い、あるいは、昭和天皇が悪い、支配階級が悪い……ということで、日本人の人民大衆が悪いわけではない。こういう考え方は、唯物史観、階級史観と相性がいい。悪いのは、社会の支配階級である、ということにできる。(だから、革命が必要なのだとなるかどうかは微妙かなとは思うが。)

人間とは被害者の立場にたって語りたがるものである、ということは言ってもいいだろう。それが正義だと感じるのである。(被害を受けている人のことを思うことは正義であるだろうが、しかし、その当の被害者の言っていることすべてが正義の主張であるということはない。)

時代や状況が変わっても、確かに「悪いやつ」を必要とする考え方はあるだろう。今の日本の社会なら、安倍晋三が悪い、自民党が悪い、ということになる。

「悪いやつさがし」とそれから「かわいそうな人さがし」が、今の時代において歴史や社会を語るときの、底流にある発想かと思う。これが駄目だとは思わないが、このような発想だけで見ていたのでは、歴史の中で人間がどのように生きてきたのかということの本質が見えなくなるのではないか、という気がする。

ホロコーストに加担したのも普通の人びとであり、また、東欧からのドイツ人を迫害したのもまた普通の人びとである。移民への排斥をうったえるのもそうである。またパレスチナを支持するのもそうである。

普通の人びとが歴史のなかで何を感じどう行動するのか、「まあ、しょせん人間とはこういうものなのだなあ」と、人間性を肯定的にも、同時に、否定的にも、総合的に考えるような視点があってもいいと私は思うのである。(だからといって歴史の中における悪行を肯定するということではないが。)

2024年10月29日記

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