ねほりんぱほりん「“元薬物依存症”その後の人生」2025-04-01

2025年4月1日 當山日出夫

ねほりんぱほりん “元薬物依存症”その後の人生

シーズン9の終わりである。

薬物依存症になる人は、(こう言ってしまってはみもふたもないことになるかもしれないが)なるべくしてなった、と言ってもいいかもしれない。今の日本では違法であるけれど、時代や状況が異なっていれば、また違った人生があったかもと、思ってみる。

現代の法律の基本の考え方は、責任は個人が負うべきものである、ということになっていると、私は理解している。だが、その個人というものは、遺伝子と、文化や社会や生育環境、それから、自分自身でどのような人間でありたいかという意志、これらが、複雑にからまりあって存在するものである。だが、こういうことを無視して、法的に個人の意志と責任、ということで考えるのが、現在の法律の基本であるのだろう。

薬物依存は違法であり、個人の責任、ということではたして、本当に問題は解決するのだろうか。このようなことを考え出すと、他の犯罪についても、いろいろと考えることになるけれど。

このように生きる人がいるなら、それはそれでいいではないか。もう老人である私としては、このようにしか思うことができない。

2025年3月26日記

100カメ「べらぼう 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」」2025-04-01

2025年4月1日 當山日出夫

100カメ べらぼう 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」

もう今では恒例となってしまった、100カメの大河ドラマ撮影現場編である。今回は、『べらぼう』。

技術的なことになるが、インカメラVFXの撮影現場を、このようにテレビの映像で見せるということが、これは、初めてのことかもしれない。非常に広く奥行きのある吉原の風景であるが、半分以上は、コンピュータで描いた絵である。その絵については、自由に人物を消したりできる。(もっといろんなことができるのだろう。)

『べらぼう』を見ていて感じることの一つは、映像の美しさで勝負しようとしているドラマだな、ということがある。これは、吉原の花魁を主な登場人物とすることもあるが、それを、苦界に苦しむ売春婦というイメージでは描くことができない。江戸の文化の一つの発信地として、花やかで絢爛豪華な吉原ということでなければならない。(とはいえ、ここが、幕府公認の「悪所」であったことには変わらないが。)

小芝風花の花魁道中は、何度か見ているのだが、どの回も非常にいい。花魁の色気と迫力、度胸、というものが伝わってくる。この映像を撮るのに、スタッフもとても苦労しているのだろうということが、よく分かる。

俄の踊りのシーンは、先日の放送であった。興味深かったのは、蔦重と朋誠堂喜三二が話しをする場面は、本当に、スタジオのなかの音を消して撮影していた。その間、衣装をまとった人たちは、サイレントのなかで踊りを踊っていたことになる。これは、てっきり、映像と音と別にして、うまく調整して作っているのかと思って見ていたのだが、実際は、かなりリアルにというか、アナログにというべきか、音曲の音の無い状態で台詞を言っていた。こういうところは、後から二人のの会話のシーンだけ、アフレコで音声を入れ替えるということではいけなかったのだろうか。あるいは、そうすると、余計に手間がかかるということだったのだろうか。

テレビドラマの撮影の場合、演出(監督)が現場にいない、というのも、そういうものかと思う。離れた部屋で、モニタの映像を見ながら指示を出している。こういうのは、旧式の映画の撮影とは違うことになる。キャメラの横に陣取る巨匠、というイメージではない。(黒澤明とか小津安二郎とかだと、こういうイメージがどうしてもあるのだが。)

離れているとはいえ、演出の表情、特に、その目が魅力的である。創造的にものを作っている人間の集中力を感じる。クリエイターの目であった。

カチンコの音がしているのだが、今の時代のテレビの撮影だと、カチンコはどういう意味があるのだろうか。その場のスタッフ全員に、合図を送るということはあるにちがいないが、昔の映画のようにフィルムに映しこんでおくことの意味というのはあるのだろうか。

2025年3月29日記

最深日本研究 〜外国人博士の目〜「“笑い”を知りたい」2025-04-01

2025年4月1日 當山日出夫

最深日本研究 〜外国人博士の目〜「“笑い”を知りたい」

なぜそうなのか、自分でもよく分からないことではあるのだが、私は、このごろの漫才、お笑い番組を見て、まったく面白いと思わない。若いころは……高校生ぐらいまでは……テレビの漫才を見て笑っていた。しかし、その後、大学生になって、東京に行って、テレビを持たない生活をかなり長くおくったのだが、ふたたびテレビを見るようになって、世の中で、お笑いブームとか言っていることは知っていても、まったく共感できないままできている。これは、どうしてなのだろうかと、我ながら思うことでもある。(だからといって、今の時代、漫才で笑っている人たちのことについて、どうこう思うことはない。)

社会言語学の研究方法としては、しごくまっとうである。参与観察の手法は、こういう研究の場合、かなりハードルが高いところもあるかもしれない。だが、その場の相手の人びとが、外国人を相手にしているということを、どう思っているのか、あるいは、いないのか、このあたりのところまで踏み込む必要があるだろうか。

会話におけるあいづちの意味ということは、日本語に見られる現象ということは、言語学的に指摘されていることであると認識しているが、これが、ボケとツッコミにまで拡大して考えていいことかどうか、さて、どうだろうかと思うところではある。(ところで、AIにあいづちを学習させるとすると、どんなふうになるだろうか。)

漫才に臨場感が必要というのは、そういうものかと思う。ここで例示されていた、台風の実況中継など、日本で普通にテレビを見ていると、そういうものなのかと思うが、言われてみれば、なるほどと思うところもある。ただ、これも、近年になってからの、テレビの撮影や中継の機材や技術の発達ということもある。今では、スマホ一つあれば、できるようにまでなっている。(この延長としては、戦争報道の歴史というようなことも考えなければならないと思う。)

臨場感ということでは、落語などのとの比較も重要になってくるとは思うのだが、どうなのだろうか。

現代のような漫才のかたちが誕生してくるのは、戦後になってテレビの普及とともにであるのだろうが、それが、特に、関西圏で独自の発達をしてきたのは、どういう理由なのか、気になるところである。

大きな視点としては、笑いについての比較文化、ということになるだろうし、日本や欧米以外の文化圏でどうなのか、調査研究が必要になってくるにちがいない。

日本における価値観の変化にともなって、漫才のスタイルも変化してきている、ということはそのとおりかと思う。

笑いは祝福である、というのは、民俗学的にはなっとくできる考え方だろう。

2025年3月31日記

フロンティア「シリーズ 食 敵か味方か? 第1回 糖でヒトは進化した」2025-04-02

2025年4月2日 當山日出夫

フロンティア シリーズ 食 敵か味方か? 第1回 糖でヒトは進化した

録画してあったのを見て、WEBで糖質にかんするアプリを検索してみた。おそらく、かなりの人がそうしたと思う。日本では、イスラエルで使っていたアプリは、使えるようにはなっていないようである。スマホの画面に表示されていたのはヘブライ語だと思うが(私は読めないが)、イスラエルでは実用化されているということなのだろう。その前提としては、便の検査をして、腸内細菌について調べなければならない。こういうサービスは、日本で普及する可能性はあると思うが、はたしてどうなのだろうか。

今のところ、健康診断などで血糖値は気にするほどではないので、さしあたってどうこうということはないが、ちょっと気になる。

どのような食べ物が、その人間の血糖値に影響するのか、腸内細菌によって異なり、個人差が非常にある……こういうことは、かなり一般的にいえることかもしれない。日本で、こういう研究はどれぐらいされているのだろうか。

糖質をとらないというダイエットが、長期的には意味の無いものであることは、普通に考えれば判断できることだと思う。これが体にいいとなればそれを食べる、悪いとなれば食べない、どうも極端に現代の人間は流れすぎているように思える。

「ギャートルズ」のように肉ばっかり食べていていいわけではない。

私の今の食事だと、通常は、朝はパン一枚。夜は、ご飯が一杯。昼は、そのときどき。まあまあ、糖質が多すぎもせず少なすぎもせず、というぐらいかなと思う。

旧石器時代、200万年ほど前、木の実や地下茎を、火で加熱調理することで、糖質を摂取できて、それと、脳の発達が関係する……これは、たぶん、そのようなことなのだろうと思う。だが、はっきりと因果関係が科学的に立証されたということではないかもしれないが。

番組では言っていなかったが、日本でも、三内丸山遺跡の発掘によって、縄文の人びとが、多くの食べられる植物を栽培していたことが分かっているはずである。弥生時代になって、米作の時代をむかえた、と常識的な歴史では習うのだが、日本列島に住むひとびとは、いったい何を食べて生きてきたのか、その総合的なことが分かるときがくると、とても面白い。(それまで生きていられるかどうか、分からない年になってしまっているが。)

生命の進化の歴史が、糖質をどう有効利用する歴史であるのか、こういう観点から見るならば、糖質オフの生活をおくれば健康的であるというのが、非常に短絡的な考え方であることは、理解できる。細胞レベルからさらに分子レベルで、生命の進化を見る必要がある、ということになる。

パプアニューギニアの人びと、ニューギニア高地人、の食生活はとても面白い。この人びとが、特殊な腸内細菌を持つ人びとであったからこそ、その土地で、サツマイモだけの生活をすることができた、ということになるのだろうが、では、なぜ、この人びとがそれを獲得したのか、歴史的な経緯が気になる。おそらく現代では、DNAの分析から、この人びとが、どこから来たのか分かるようになっているのだろうとは思うが。

私の年代だと、ニューギニア高地人というと、本多勝一のことを思う。今でもKindle版で読むことができる。

2025年3月25日記

最深日本研究 ~外国人博士の目~ 「キャラクター文化を知りたい」2025-04-02

2025年4月2日 當山日出夫

最深日本研究 ~外国人博士の目~ キャラクター文化を知りたい

このシリーズは、私は気に入っている。それは、研究としてまともであるからである。(NHKの番組のなかには、かなりうさんくさいものがたくさんあるなかで、このシリーズは、研究対象、目的、方法論、とりあえずの結論(仮説)、ということが、学問的に明確である。)

サウンドシンボリズムといっていたが、普通の日本語学の用語でいえば、オノマトペの分析ということになる。オノマトペ……擬音語、擬態語といわれる種類のことばであるが、これは、近年注目のあつまっている、日本語学の研究対象のひとつである。歴史的にこのことを研究してきたのは、山口仲実先生である。

番組の中で出てきてた、ゆるキャラの名前に使われる、「ピー」「リン」という親しみを表現することば。それから、「ポン」「まる」などのことば、これらが、ゆるキャラになぜ多用されるのか、言語研究としては、非常に興味深いし、重要な指摘である。

アンパンマンのキャラクタで、ドキンちゃんについては、「ドキドキ」ということばとの関係で、この名前がついたのだろうが、日本語のオノマトペ研究としても、重要な指摘である。

この研究をした、デボラ・オチさん。日本の演歌の歌詞も研究したというが、できれば、具体的にどんな内容だったのだろうか。日本語の歌謡曲やポピュラーソングの歌詞の分析は、伝統的に日本では、計量的研究の分野として続いている。

それから、ヒーローについても、出てきていた。これも、その名前がどのようになっているか(この番組の中では出てきていなかったが)、サウンドシンボリズムの観点から分析することができるはずである。

アクションスクールに通っての参与観察は、なるほど、こういうことまでしているのかと思って見ていた。そこで、指導の先生が使っていることば(オノマトペ)に注目している。オノマトペで、アクションの指導ができるということが、日本語のひとつの特徴といっていいだろう。

日本におけるキャラクター文化を、漢字とむすびつけて考えるのは、仮説ということになるが、考える価値はあると思う。番組のなかでは、漢字を使うのは日本語だけではないと否定的に言っていたが、しかし、漢字と仮名(特にひらがな)をまぜて使うのは、日本語だけである。朝鮮語では、今では漢字を使わなくなってしまっているし(かつては、漢字ハングル交じり文、というべきものがあったが)、中国語(中国、台湾)では、基本的に漢字だけである。漢字が漢字として特に目立つという機能があるのは、日本語の表記の大きな特徴である。

みやざき犬、というネーミングは、ダブルミーニング、要するにダジャレなのだが、NHKの天気予報に出てくる、しゅと犬くん、もれっきとしたキャラクターである。調べて見ると、ぬいぐるみも売っているようだ。

2025年4月1日記

100分de名著「ヘーゲル“精神現象学” (4)それでも共に生きていく」2025-04-02

2025年4月2日 當山日出夫

100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (4)それでも共に生きていく

斎藤幸平については、『新人生の資本論』を読んで、どうにもうさんくさい、という気持ちがぬけない。なぜそう感じるのかというと、主張していることのなかに、自分がその価値観を主張するのは何故なのか、それに、賛成しない人がいるとすればそれは何故なのか、ということについて、自省するところが感じられないからである。よりいっそうたちが悪いと感じるのは、こういうことが分かっていて、あえてしらばっくれているところである。

こういう視点でみるなら、説得力を持たせようとして出した例なのだろうが、死刑制度の有無については、まったくの逆効果であるし、そのことを分かっていながら、そういう主張をおりこんで話しをするというのは、たちが悪い。(死刑制度があるのは、日本だけではない。まるで、世界の日本以外の国では、まったく無いような言い方をしてはいけない。語るべきは、その制度の是非だけではなく、方法、どのような犯罪に対して科されるのかということなどであり、これらを考えれば、そんなに簡単に今の日本の死刑制度を批判はできないはずである。また、死刑に反対=進んでいる、賛成=遅れている、という価値判断が、こっそりとしのびこませてある。あまりに姑息である。)

平等というような理想についても、現実にはどういう状態になったときに、この世の中のすべての人が納得する状態として平等が実現するのか……このことについての共通理解はとても困難である。だからこそ、自分の考える正しさについての自省、それに同意しない他者に対する想像力が必要になる。これは、私の理解するところでは、本来の保守主義の考え方である。そして、実際には、今の社会において、いわゆるリベラルを自称する立場でも、逆に保守を自称する立場でも、非常にかたくなである。

2025年4月1日記

アナザーストーリーズ「「侍タイムスリッパー」超低予算時代劇はこうして誕生した」2025-04-02

2025年4月2日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 「侍タイムスリッパー」超低予算時代劇はこうして誕生した

今の私は、映画を見に外に出るということがたえてなくなっている。この作品も、かろうじて名前を知っているぐらいである。

たまたまであるが(あるいは、NHKは意図的にそうしたのか)、朝ドラの再放送で『カムカムエヴリバディ』を放送しているし、その前には、『オードリー』の再放送もあった。いずれも、日本映画の時代劇の最盛期から、衰退の時代を、描いている。そこに登場するのは、スターばかりではなく、大部屋俳優たちでもある。

『侍タイムスリッパー』という映画にまつわるドキュメンタリーなのだが、その根底にあるのは、ものをつくることの楽しさ、よろこび、それから、ほこり、ということを知っている人間の気持ちである。それは、切られ役の大部屋俳優であるかもしれないし、衣装や、小道具や、床山の仕事の職人たちかもしれない。それが映画(時代劇)というものを作りあげていく、仕事をすることの充実感というものを、見ていて感じた。

たぶん、この「アナザーストーリーズ」の番組を作っているスタッフにも、劇映画であれ、ドキュメンタリーであれ、映像作品を作る仕事にかかわっている人間としての共感というものがあるのだろうと思う。インタビューの映像から、このことをなんとなく感じるところがあった。

東映の殺陣の道場、これは、『カムカムエヴリバディ』でも出てくるが、画面を見ると壁に神棚がある。街中の剣道の道場にも神棚がある。

福本清三のことは、名前は知っている。その切られ役の場面をたくさん見ているはずなのだが、(おそらく多くの人がそうであるように)特に憶えているということではない。

また、東映では、過去の時代劇作品の小道具や衣装が残してある、というのは驚きであった。これは、なんとか次の時代に継承してもらいたいものである。

時代劇であれなんであれ、人が、ものを作っていく、みんなで一つの作品にかかわっていく、このことの楽しさということが、これからの若い世代の人たちに伝わるといいと思う。

2025年3月28日記

『中島みゆき ~春・旅立つひとに贈る名曲選~』2025-04-03

2025年4月3日 當山日出夫

中島みゆき ~春・旅立つひとに贈る名曲選~

これも録画しておいて、後からゆっくりと見た。

中島みゆきのCDは、ほとんど持っているはずである。持っているCDは、全部、Walkmanに転送してある(FLAC)。

このごろ思うことであるが、「時代」を聞いて、今は苦しくても明日はどうにかなる……という気持ちに、もうならないなあ、と思うようになった。それだけ年をとってしまったということでもある。明日はどうにかなるかもしれない、と希望をいだけるのは、まだ若いうちのことである。自分の人生の行く末がどれぐらいか、なんとなく実感を持って感じるようになった、ということでもある。

好きでよく聞くのが、初期に歌った、短編小説的な作品。「蕎麦屋」「おまえの家」「まつりばやし」などである。もう今では使わなくなったことばだが、心境小説という言い方もある。こういう言い方が、ぴったりくるような歌である。

ところで、中島みゆきの歌に基本的に流れているのが、(今風の言い方をすれば)アイデンティティの模索。「時代」が端的にそうであるように、「故郷」をもとめてさすらう、ということである。「旅人のうた」などもそうである。自分が本来はなにものなのか、どこに帰属するものなのか、それをもとめてさまよう、こういう部分が、その作品の多くの根底にある。

こういうところが、同時代のシンガーソングライターである、ユーミンや竹内まりやとは、決定的に違うところである。ユーミンの歌は、アイデンティティの揺らぎということを、まったく感じさせない。獲得した都会的感性を絶対に離さないところがある。竹内まりやの歌は、生まれながらに都会的である。(慶應義塾大学文学部で同じ学年だった。この時代の、三田のキャンパスの雰囲気を、今でも感じさせる。)

2025年3月30日記

よみがえる新日本紀行「蜜蜂とソフトボール~鹿児島県頴娃町~」2025-04-03

2025年4月3日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行 蜜蜂とソフトボール~鹿児島県頴娃町~

オリジナルは昭和52年(1977年)である。私が大学生のころである。

蜜蜂に砂糖で作ったエサを与えて育てる、ということを始めて知った。昔もそうしていたようだったが、今では、そうしないと蜜蜂が飢え死にする。それだけ、花の蜜が取れなくなってきているということになる。

もう今では、菜の花畑という風景は珍しいものになってしまったのだろう。私の身の回りでも、春になって、田圃がレンゲの花で赤くなるという景色は少なくなったようである。それよりも、田圃だったところが開発されてお店になってしまうことが多い。

養蜂家という人たちが、花の蜜を追って全国を旅しているということは、知識としては知っていたことだが、その生活がどんなものだったかは、ほとんど知らなかった。春になると、鹿児島の頴娃町に多くの養蜂家が集まる。そこで、ソフトボールの試合をする。背番号は、全員が「8」である。もうこんなことができる時代ではなくなった。

養蜂家の数は減ったといっても、それでも、国産の蜂蜜を続ける人はいる。

興味深かったのは、オリジナルの放送のとき、日本での養蜂の仕事はもうだめだろうから、中国かアメリカ西海岸にでも渡る……こういっていた、養蜂家の子どもが、実際にアメリカに渡って仕事をしたということ。今ではもう引退したらしいが。

番組の最後で言っていたが、蜂は植物の受粉の仕事をする。農業にはなくてはならない存在である。これは、現代の機械化された農業であっても、基本は変わらない。ハウス栽培であっても、受粉用に蜂を使っていたかと思う。現代の、そして、未來の農業の視点から見たとき、養蜂という仕事は、価値を持ち続けることができるかと思う。(楽観的な見方かもしれないとは思うが。)

2025年3月29日記

最深日本研究 ~外国人博士の目~「“SNS×高齢者”を知りたい」2025-04-03

2025年4月3日 當山日出夫

最深日本研究 ~外国人博士の目~ “SNS×高齢者”を知りたい

これは面白かった。こういう内容が、どうして、他の普通の番組であつかわれないのだろうか。

高齢者でも、スマホを持っていて、SNSを使う、これが当たり前の時代になっている。これは、言うまでもないことだろう。見ていた範囲だと、SNSと言っているが、実際は、LINEである。LINEをどうつかうか。日本の場合の特徴としては、社会のとのつながりを求めて、ということがあるらしい。一方で、家族とは、LINEで連絡することはないという。まあ、そんなものかと思うが、これは、外国と比較すると、日本に顕著な特徴であるとのことである。

高齢者になっても、社会とのつながりをもっていたいという希望がある。そのためには、LINEが非常に有効なツールになっている。ここで、「生きがい」ということばが出てきていたが、これは、英語では表現することが難しいものだという。そうかなと思う。

私ぐらいの年代だと、神谷美恵子の『生きがいについて』という本は、学生のときに読んだ本であった。その後、みすず書房で刊行になった著作集は買って持っている。

ZOOMで女子会をする、というのは、そういうこともあるだろうと思う。面白かったのは、ChatGPTを使って、自伝を書いている男性。生成AIの機能を使うのではなく、音声認識の機能を利用して、口述筆記(?)をしている。この年代の男性の場合だと、キーボードからの入力に抵抗がある、その境界ぐらになるかもしれないが、どうなのだろうか。(私自身の感覚では、その認識精度が高いとはいっても、自分でキーボードから入力する方が楽である。使うのは、ATOKであるが。)

高齢者におけるSNS利用では、LINE以外の、X(旧Twitter)とか、Facebookとか、どうなのだろうか。Xに流れてくる、大量のフェイク情報(といっていいだろう)をどう思って見ているのか。信じているのか、無視しているのか。YouTubeも見るだろうが、いったいどんなものを見ているのだろうか。さらには、このようなメディアで、自身が発信するとしたら、どういうことについてなのだろうか。

スマホの使い方を習って、それをメモする。アイコンを紙に描いておく。これは、どういうものだろうと思う。(まあ、私の場合であれば、使いにくければ、そのアプリのユーザインターフェースの設計が下手だと思って、そういう杜撰な設計のものは使いたくないと思うだけであるが。)

私はスマホを持っていない。外に出歩くことが、ほとんどないので、その必要をまったく感じない。家にいるときは、かたわらに手を伸ばせばとどくところに、PC(今はVAIO)がおいてある。

世の中にパソコンが登場した時代から使ってきている。PC-9801で、BASICでプログラミングしたりした。その後、ワープロの時代になり、インターネットの時代になり、SNSの時代になった。Twitterは、二〇〇九年から使っている。ネチズンということばに、民主主義の未来を感じた時代があったことも記憶している。できれば、これから、この世の中がどうなるか、もうちょっと見てみたいという気でいる。

2025年4月2日記