クラシックTV「SUGIZOさんとディープにトーク!バルトーク」2026-06-17

2026年6月17日 當山日出夫

クラシックTV「SUGIZOさんとディープにトーク!バルトーク」

きわめて原初的でありながら、先進的でもある。これは、共存するものである。

たまたま、最近読んだ本に、『縄文』(中島岳志)がある。主に戦後の日本の芸術や文化・思想といった領域で、古代の縄文時代のことが、どのようにあつかわれてきたかということの系譜をたどったものであるが、とても面白い。

人間というのは、自分の今の文化や芸術について、その根底にあるもの、さらに根源的なもの、ということを指向するところがある。それが、場合によっては、はるか古代の縄文時代に起源を求めることになり、それが、場合によっては、現代のアイヌや琉球に、その残滓をたずねることになる。(こういうことの、学問的な議論は、また別のことである。このごろでは、古代にさかのぼって、日本列島に住んできた人びとのDNA鑑定で、歴史を考えるようになってきている。ただ、DNAによる連続/非連続ということとと、文化的な連続/非連続ということは、また別のことだと、私は思っているが。)

バルトークは、おそらく根源的なもの、原初的なもの、より本質的なもの、という方向をめざした芸術家だったということで、いいかと思う。当時の西ヨーロッパ(フランス・ドイツなどを中心)から見れば、ハンガリーなどの東欧は、一種の異文化(強いていえば、未開の、ということになるが)の地でもあった。あくまでも、これは、イメージとしてのことである。

芸術家のこういう指向性(原初に向かう)は、多く見られることである。日本だと、縄文を賛美した岡本太郎が、その代表になるだろうか。今では、あまり評価されないかもしれないが、柳宗悦の民藝の考え方も、これに近いだろうか。

バルトークが、民謡や童謡をたずねて、現地を採訪して、録音を集めていったというのは、とても興味深い。非西欧的な(あまりモダンではない)東欧の民謡などに、より根源的で原初的なものがあるということだったのだろう。

音楽の音階というのが、人間の文化の中で、どういう歴史があるのかということは、興味深いことである。また、その音階は、人間とは別に、自然界に存在するものとして考えていいのだろうか。

ともあれ、より原初的で根源的なものを求める、それが、今の人間のあるべき姿をみるために必要なことだ、という発想は、おそらく、近代、という時代を特徴付けるものになるのかとも思う。この意味では、日本の近世の、本居宣長や荻生徂徠は、近代の思想家であったというべきだろう。

2026年6月9日記

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