100分de名著「親鸞“教行信証” (4)誰一人取りこぼさない救済原理」 ― 2026-08-03
2026年8月3日 當山日出夫
100分de名著「親鸞“教行信証” (4)誰一人取りこぼさない救済原理」
歴史的に見れば、浄土真宗、真宗、一向宗……こういう人びとは、結束が固く、排他的であり、また、非常に戦闘的である(実際に武力行使もする)ということがあるのだが、こういうことには目をつむって、親鸞が考えたこと、書いたこととしては、どうであるか、となっている。
親鸞が、『教行信証』でどのような論理構造で、自分の阿弥陀仏への信仰を語っているかということはあるとしても、最後のところで出てきた、念仏を信じない人たち(異教といってもいいだろうが)のことも、救済の対象である……これはたしかに今の時代としては、一種の理想的な考え方なのだが……これは、『教行信証』から離れて、信者あての書簡で書かれていることである。『教行信証』のように、漢文で書いた難しいものは、理解ができないだろう、ほとんど文字を知らない、せいぜい仮名と少しの漢字は読める、というような一般庶民の信者にむけて書いたものである、このことは、留意が必要だろう。
同じ親鸞が書いたものだから、すべて、一貫した思想の中に収めて考えるということでなければならない、ということはない。あえていえば、一般の、あまり仏教や浄土思想に知識のない庶民層に対する、いわば方便としてのことば、こう理解してみることもできよう。
富山の薬売りの行商は、体験的に知っている。紙風船を憶えているのは、今ではもう老人というべきだろう。これを、浄土真宗の信仰と結びつけて考えるというのは、いくら、そういう説があります、と限定をつけるとしても、ちょっと無理があるように思えてならない。
2026年7月29日記
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