私的じんもんこん2010覚書(2)2010-12-14

2010-12-14 當山日出夫

初日は、まず、人文学とコンピュータ利用についてのメタレベルの議論がメインであったといえよう。

先に記したごとく、

人文学にデジタル化に関するオープンなメタ議論の意義
永崎研宣、中村雄裕、後藤真

この他、

招待講演
Digital Humanities: A Collaborative Dicipline
Harold Short

ワークショップ
Dugital Humanities における国際コラボレーション
Harold Short 、 Gerhard Brey 、 下田正弘、Leith Morton

人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ)というのが、独立した学問分野として成り立つのかどうか・・・という観点からは、非常に刺激的な内容のものであった。

総合的に整理するなら、それは、成り立ちうるものである。では、その基盤となるものは何か。方法論への自覚である、ということになるであろうか。

私見としては、人文情報学には、二つの立場があり得ると思っている。

第一に、これからどんどんコンピュータが普及していけば、おのずとすべての人文学領域においてもコンピュータは必須のものになる。自然と、人文情報学というものが生まれてくるのである。

第二に、いやそうではなく、それでもやはり、人文情報学という独自の領域が成立しうるのである。

この二つの考え方が、錯綜していたように思える。そして、後者を主張する場合でも、その基盤が、特にあるというわけではなかったようにも思える。それが、今回のシンポジウムで、ぼんやりとではあるが、輪郭が見えてきたような気がする。

コンピュータを使うことによって達成できることへの、方法論的な自覚をもってとりくむか否か、というあたりになるだろうか。では、その自覚とはどのようなものであるかについては、まだ、議論の余地があるようにも感じるのである。しかし、おおむねこのような方向といっていいだろう。

これを逆の方向から見るならば、コンピュータの利用によって、その方法論について、自覚的であることを獲得し得た研究領域というものが、存在しうるということにもなるだろう。研究対象、方法の、モデル化と言ってもよいかもしれない。

あるモデルをつくって、そこからものを考えていくことを、もっとも苦手とするのが従来の人文学であったとするならば、それに対して、あえて、そのような方向に踏み出すことがあってもよいのではないか。

ただ、そうはいっても、現状(すくなくとも日本の)では、先駆的ないくつかの事例があるにとどまり、総体として、これが、人文情報学であると提示でき得ものが、まだ、確立していない、とはいえるかもしれない。

とはいえ、今後、ものを考える方向性については、ある程度見えてきたような気がする。

當山日出夫(とうやまひでお)

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