『虎に翼』「女房に惚れてお家繁盛?」 ― 2024-09-01
2024年8月31日 當山日出夫
『虎に翼』「女房に惚れてお家繁盛?」
この週もいろいろと疑問に感じることだらけである。まあ、別にドラマなのだから、設定に疑問があってもかまわないが、見終わった後に、ああ人間とはこういうものなのだなあ、と感じるところがあればいい。しかし、このドラマには、それを感じるところが全くない。ただひたすらつまらない。女性の人権とか、性的マイノリティのこととか、さらには、原爆裁判のこととか、きわめて重要なことを描いているのに、こんなつまらないドラマを作ってどうするつもりなのだろうと思う。
気になったことを思いつくままに書いてみる。
弟の直明の教え子の中学生が裁判所に見学にやってきた。裁判所は、中学生が社会見学に気軽に行けるようなところだったのか、という気もするが、それはいいとする。
気になったのは、登場していた中学生たちについて、戦争のことを知らない、まわりの大人も戦争について話さない、ものごころついたころには日本国憲法があった、と説明していたことである。
時代は、昭和三一年だったと思うが、戦後、一〇年ほどのころである。この当時の中学生なら、戦中の生まれであり、ものごころついたころは、まさに戦後の焼け野原が残っていた時期になる。確かに、大人たちが戦争について語りたがらなかったというが、一部には、その記憶を封印したい人たちもいたとは思う(例えば星航一が自分の過去を語らなかったように)。しかし、世の中の趨勢として、戦争の記憶が生活の随所になまなましく残っていた時代のはずである。時代の風潮としては、あの戦争は間違いだった、国民はだまされていた、という東京裁判史観(といっていいだろうか)の時代であったと、私は思っている。
戦争の時代の記憶があった時代に育った若者たちが、その後の六〇年安保闘争をになったことになる。これは、まさに、戦争というものがリアルであった時代の感覚である。
この時代の中学生を、戦争を知らない、と設定するのは、どう考えても無理がある。つまり、戦後の時代のあり方についての、決定的な認識不足であるとしかいいようがない。
ちなみに、「戦争を知らない子供たち」という歌をジローズが歌ったのは、かなり後の一九七二年(昭和四七年)のことになる。
その中学生が、女は働かなくていいのにどうして働こうとするのか、と言っていたのは、どうだろうか。働かなくていい女としては、いわゆる専業主婦のことを指して言ったものだろう。だが、専業主婦が、三食昼寝付きなどと言われるようになったのは、もっと後の時代のことである。高度経済成長を経て、都市部のサラリーマン家庭が、標準的な家庭のあり方として、意識されるようになってからのことである。その時代であっても、農業とか都市部の個人商店とか、男女が共同で働く場面は多くあった。まして、ドラマの昭和三一年のころは、それより以前である。
また、主婦の家事労働が楽になったというのは、電気洗濯機や電気冷蔵庫などの普及の後のことである。ドラマのなかでは、登戸の猪爪の家に電気洗濯機があったが、これは、きわめて希な初期の事例ということになる。そして、電気洗濯機が買えるほど、寅子の収入が潤沢であったということにもなる。この経済的優位については、ドラマでは触れることがない。だが、社会のなかでどのような階層で生活していたのかということは、登場人物の社会的な意識に大きな影響を与えることなので、ないがしろにしていいことではない。
小橋が少年に語ったことは、内容としては首肯できることなのだが、なぜ小橋がそのような発言をその場でするようになったのか、ドラマのなかでの必然性がまったく描かれていない。たまたま、寅子と同じ裁判所にいて、視聴者にも馴染みのある男性だから、ということで使われたとしか思えない。小橋という人物の造形が手抜きなのである。
このドラマでは、都市部のホワイトカラーの仕事しか、仕事として認めていないのではないかとも思われる。新潟の三條の裁判所の事務をしていた小野は、働く女性としては描かれていなかった。ライトハウスの仕事も、働く女性として描かれていたとは感じられない。バスの車掌はその当時は女性の仕事だったはずで、女性が社会に出て働く重要な意味があったはずだが、そうとは認識されていなかった。東京地裁の判事補(これはれっきとしたエリート専門職である)の秋山になって始めて寅子以外の働く女性が登場したことになる。これはこれで、職業差別の意識があるとしかいいようがない。正しさを主張することの裏側にひそむ差別意識というものを、はからずもあぶり出すことになっている。
ホワイトカラー、専門職における女性の進出は、たしかに苦労はあったことはたしかである。が、その苦労とは、まず、機会を得ること、そして、男性と同等の仕事が出来ることを証明してみせることだったはずである。しかし、このドラマでは、その肝心の仕事の場面がほとんど出てこない。
穂高先生が久しぶりに出てきていた。たぶん、作者、演出の意図としては、かつて寅子は、こんなひどいめにあったということを印象づけたいねらいがあったのかとも思うが、はたしてどうだろうか。
私の記憶している範囲で整理してみる。
寅子は、弁護士の仕事をしているときに、優三との間に子どもができた。
その妊娠が分かったとき、穂高先生は、その身をいたわるように言った。妊娠している女性に対して、身の保護と無事な出産を願うのは、今も昔も、そして、おそらく世界のどこでも、共通していることだと、私は思う。私の記憶では、もう法曹の道はあきらめて、母親として子育てしなさい、とは言っていなかった。
勤めていた法律事務所の雲野弁護士も、出産後の復職を認めていた。
さらに、寅子の猪爪の家……そこに寅子と優三は住んでいた……には、母のはるも、花江もいて、育児の手助けをしてくれる要員に困ることはなかった。父親の直言も、決して、結婚して子どもができたら働いてはいけないなどと言う人間ではなかった。
記憶で書いているのだが、大筋このようだったはずである。
なのに、一方的に穂高先生に逆らったのは、寅子である。
まあ、ドラマの作り方としては、かつての恩師を敵にしてボス戦を戦って倒して、次のステージにということになるのだろうが、そう設定するには、あまりにも穂高先生を善良で良識的に描きすぎたということになる。はっきりいってドラマの人物設定のミスである。エンターテイメントの常道の設定のはずだったのが、下手だったということである。
その寅子が、裁判官になって後輩の裁判官の秋山にいろいろと言っていたのだが、かつての寅子のことを思ってみると、どれも説得力に乏しい。
当時の裁判官が女性で妊娠した場合、産前産後の休暇は認められていた、とナレーションの説明はあった。寅子は、女性の裁判官のために桂場に働きかけることになるが、その結果がどうであったか、まったく出てきていなかった。具体的に、制度がどのように改善されたのだろうか。この時代、寅子と秋山の時代には、まだ間に合わなかったが、その後の制度の改善があったならば、それはきちんと言っておくべきことである。でなければ、寅子の努力の意味がわからない。
秋山は、姑と同居していたはずである。少なくとも日常的に顔を合わせる関係にはあった。でなければ、早く男の子の孫を産めという、姑の台詞には意味がない。常識的に考えれば、出産して仕事に復帰するとして、まず頼るのは姑ということになるはずである。大嫌いといっていた姑には、子どもの面倒を頼みたくないというのならば、それはそれで筋が通ったことかもしれない。だが、それよりも、働く女性としての自分の仕事のためには、大嫌いな姑に頼らざるをえないということの葛藤の方が、より現実的であったようにも思われる。だが、このあたりが曖昧なままであった。
仕事をしている女性が妊娠して、しばらく仕事を休んで、また仕事にもどる。育児の手助けをしてくれる人はいる。これは、別にかつての寅子の場合と、まったくかわらない。たしかに、仕事の上でのキャリア形成にはいくぶんの差が出ることにはなる。しかし、これも、寅子のときも同様であったはずである。
寅子のときと、秋山のときと、そんなに大きく状況が変わったということではないとしか思えない。ここで、寅子は、道をきりひらいたあとは舗装する、と言っていたが、はたして何をしたことになるのだろうか。それは何よりも裁判官としての優秀さであるべきだが、これまでのところその優秀な仕事ぶりは描かれてきていない。
秋山は、男性より三倍、五倍、頑張ったと言っていた。だが、それは科白で言われただけだった。ドラマとして描くべきはその頑張りの姿である。それが何もなかった。せめて、使い込まれボロボロになった「六法」でも小道具として映っていればよかったかもしれないのだが、そのような配慮のある演出はなかった。
寅子は、秋山のために何かするというのであれば、まず、それができる地位にいることが必要である。居場所を作る、と言っていたが、この時の寅子は東京地裁の判事である。なにか具体的なことができる権限があったのだろうか。それがないのにことばだけでそう言ったとするならば、無責任ということになる。
同期の法曹関係などの署名嘆願ということはあった。だが、それも、具体的に制度が変わってこそ意味がある。ここは、寅子がおこなった請願が、その後にどう活かされたかを、語っておくべきところだったと思うのだが、それはなかった。
ここで思い出すのが、以前、竹もとで後輩の司法修習生(だったと思うが)の女性たちと会ったときのことである。このとき、寅子は、後輩たちのために何ができるか、ということを考えていた形跡はなかった。むしろ、後輩の女性たちから、寅子みたいにはなりたくないと、嫌われる存在としての寅子を印象づけた場面だった。
この間に、寅子がどう成長したのか、女性の法曹への道の重要性を考えるようになったのは何故なのか、そのプロセスが、このドラマでは具体的にまったく見えていない。
星の家の様子は不可解である。その当時、戦争でつれあいを亡くした男女どうしの再婚ということは、あり得たことだろう。その家族の関係を、どう描くのかというところも、ドラマとしては見どころの一つになるはずだと思うのだが、はっきりいって、まったく感心しない。
前にも書いたことだが、この時代であれば、戦前までの家にかわって、夫婦と子どもを単位とした家庭が、社会の基本になるべきだという考え方が、ひろまりつつあったころである。家庭裁判所の裁判官だった寅子なら、このことは、より強く意識することだったと思っていいだろう。だが、この当時の家族観として、説得力あるものになっているとは言いがたい。そもそも、愛情で結ばれた夫婦ということを、寅子と航一は否定している。永遠の愛を誓わない。
以前、姑と同居したいお嫁さんなんているはずがないと花江が言っていたのを、家族裁判で強引にねじ伏せたのは、寅子であった。では、寅子自身は、自分の航一との結婚(内縁の関係)については、どう思っていたのだろうか。また、姑と嫁の同居について、そうあるべきと思っていたなら、裁判所での秋山の言っていたこと(姑が大嫌い)を、どう思って聞いていたのだろうか。このあたり、寅子という人物が場当たり的にキャラクターを使い分けごまかしているようにしか思えない。これは、たまたま百合さんがいい人だったから、子供たちも理解してくれたから、ですむことではないと思う。花江の気持ちは理解する気がないが、秋山の気持ちは聞く、というのも、どこかおかしい。
このドラマは、裁判官、それも家庭裁判所にふかくかかわった裁判官が主人公である。無論、仕事としての家庭裁判所の仕事と、個人としての自分の家庭内のことは別であり、むしろ、そこのギャップを巧みに描いてこそのドラマだと思っている(いや、思っていた)のだけれど、星の一家のことを見ると、どうもそういうことを、このドラマは描くつもりはなさそうである。結局、寅子はみんなに愛される人物で、寅子を中心にして、どんなトラブルも円満におさまる、ということらしい。
娘ののどかが、この人たちは嫌い、ということを言っていたが、私の感覚としては、この台詞がもっともリアルで説得力があった。
のどかが補導されたときの反応が、いまひとつ腑に落ちない。寅子はただ、よかった、と言っていたのだが、これは、家庭裁判所の仕事をしたことのある裁判官の経験の裏打ちのある台詞として、重みに欠ける。あるいは、裁判官といえども、家庭では普通の親であるということかもしれないが、それならそれで、裁判官としての法律にもとづく思考と、家庭内での親としての感情との、時として矛盾し錯綜する気持ちを、これまでにも描いておくべきことだったと思える。
秋山の子どもについて、百合が、ベビーシッターをやってみたい、と言っていたのは、噴飯物である。百合は、子どもができなかったと言ったばかりである。つまり、赤ちゃんの育児の経験がないといっていいだろう。そんな女性が、ベビーシッターをやりたいと言い出すのは、どう考えても無理がある。ここは、せめて、百合に兄弟でもいて、その甥や姪の赤ちゃんのときに面倒を見た、ぐらいの台詞がないと無理である。しかし、その前に、最高裁判所長官の妻だった女性が、ベビーシッターのアルバイトという設定を思いつくこと自体が、信じがたい。このドラマは、あまりにも社会階層ということに無自覚すぎる。
優未がマージャンで勝負をいどんできたとき、のどかに、勝ったら自分の気持ちを話してほしい、という意味のことを言っていた。このあたりが、このドラマの脚本の無理を感じるところでもある。人間は、自分の思っていることを、そんなに簡単にことばにできるものではない。たやすく明瞭にことばにできないことを、あるいは、本来の気持ちとは違うことばを発してしまうこともある人間というものを、どう描くか、というのがドラマというもののはずである。はっきりいって人間観が軽薄なのである。
ドラマのなかではかなり以前のことになるが、民法改正のときのことである。そのとき、神保教授は、このようなことを言っていた。理想を追求することも重要だが、今目の前で苦しんでいる人を救うことも考えなければならない。しかし、このとき、寅子は、この発言を旧弊なものとして無視していた。その寅子が、別の場面になると、自分に困ったことがあれば、それを最優先にしなければならないと、怒り狂う人物になっている。これを自ら自覚しているのかどうか。あるいは、そんなことには無頓着である人物設定なのか。このあたりのことも、寅子というキャラクターに違和感を感じる一因である。
その他、いろいろと書きたいことはあるが、これぐらいにしておく。
2024年8月31日記
『虎に翼』「女房に惚れてお家繁盛?」
この週もいろいろと疑問に感じることだらけである。まあ、別にドラマなのだから、設定に疑問があってもかまわないが、見終わった後に、ああ人間とはこういうものなのだなあ、と感じるところがあればいい。しかし、このドラマには、それを感じるところが全くない。ただひたすらつまらない。女性の人権とか、性的マイノリティのこととか、さらには、原爆裁判のこととか、きわめて重要なことを描いているのに、こんなつまらないドラマを作ってどうするつもりなのだろうと思う。
気になったことを思いつくままに書いてみる。
弟の直明の教え子の中学生が裁判所に見学にやってきた。裁判所は、中学生が社会見学に気軽に行けるようなところだったのか、という気もするが、それはいいとする。
気になったのは、登場していた中学生たちについて、戦争のことを知らない、まわりの大人も戦争について話さない、ものごころついたころには日本国憲法があった、と説明していたことである。
時代は、昭和三一年だったと思うが、戦後、一〇年ほどのころである。この当時の中学生なら、戦中の生まれであり、ものごころついたころは、まさに戦後の焼け野原が残っていた時期になる。確かに、大人たちが戦争について語りたがらなかったというが、一部には、その記憶を封印したい人たちもいたとは思う(例えば星航一が自分の過去を語らなかったように)。しかし、世の中の趨勢として、戦争の記憶が生活の随所になまなましく残っていた時代のはずである。時代の風潮としては、あの戦争は間違いだった、国民はだまされていた、という東京裁判史観(といっていいだろうか)の時代であったと、私は思っている。
戦争の時代の記憶があった時代に育った若者たちが、その後の六〇年安保闘争をになったことになる。これは、まさに、戦争というものがリアルであった時代の感覚である。
この時代の中学生を、戦争を知らない、と設定するのは、どう考えても無理がある。つまり、戦後の時代のあり方についての、決定的な認識不足であるとしかいいようがない。
ちなみに、「戦争を知らない子供たち」という歌をジローズが歌ったのは、かなり後の一九七二年(昭和四七年)のことになる。
その中学生が、女は働かなくていいのにどうして働こうとするのか、と言っていたのは、どうだろうか。働かなくていい女としては、いわゆる専業主婦のことを指して言ったものだろう。だが、専業主婦が、三食昼寝付きなどと言われるようになったのは、もっと後の時代のことである。高度経済成長を経て、都市部のサラリーマン家庭が、標準的な家庭のあり方として、意識されるようになってからのことである。その時代であっても、農業とか都市部の個人商店とか、男女が共同で働く場面は多くあった。まして、ドラマの昭和三一年のころは、それより以前である。
また、主婦の家事労働が楽になったというのは、電気洗濯機や電気冷蔵庫などの普及の後のことである。ドラマのなかでは、登戸の猪爪の家に電気洗濯機があったが、これは、きわめて希な初期の事例ということになる。そして、電気洗濯機が買えるほど、寅子の収入が潤沢であったということにもなる。この経済的優位については、ドラマでは触れることがない。だが、社会のなかでどのような階層で生活していたのかということは、登場人物の社会的な意識に大きな影響を与えることなので、ないがしろにしていいことではない。
小橋が少年に語ったことは、内容としては首肯できることなのだが、なぜ小橋がそのような発言をその場でするようになったのか、ドラマのなかでの必然性がまったく描かれていない。たまたま、寅子と同じ裁判所にいて、視聴者にも馴染みのある男性だから、ということで使われたとしか思えない。小橋という人物の造形が手抜きなのである。
このドラマでは、都市部のホワイトカラーの仕事しか、仕事として認めていないのではないかとも思われる。新潟の三條の裁判所の事務をしていた小野は、働く女性としては描かれていなかった。ライトハウスの仕事も、働く女性として描かれていたとは感じられない。バスの車掌はその当時は女性の仕事だったはずで、女性が社会に出て働く重要な意味があったはずだが、そうとは認識されていなかった。東京地裁の判事補(これはれっきとしたエリート専門職である)の秋山になって始めて寅子以外の働く女性が登場したことになる。これはこれで、職業差別の意識があるとしかいいようがない。正しさを主張することの裏側にひそむ差別意識というものを、はからずもあぶり出すことになっている。
ホワイトカラー、専門職における女性の進出は、たしかに苦労はあったことはたしかである。が、その苦労とは、まず、機会を得ること、そして、男性と同等の仕事が出来ることを証明してみせることだったはずである。しかし、このドラマでは、その肝心の仕事の場面がほとんど出てこない。
穂高先生が久しぶりに出てきていた。たぶん、作者、演出の意図としては、かつて寅子は、こんなひどいめにあったということを印象づけたいねらいがあったのかとも思うが、はたしてどうだろうか。
私の記憶している範囲で整理してみる。
寅子は、弁護士の仕事をしているときに、優三との間に子どもができた。
その妊娠が分かったとき、穂高先生は、その身をいたわるように言った。妊娠している女性に対して、身の保護と無事な出産を願うのは、今も昔も、そして、おそらく世界のどこでも、共通していることだと、私は思う。私の記憶では、もう法曹の道はあきらめて、母親として子育てしなさい、とは言っていなかった。
勤めていた法律事務所の雲野弁護士も、出産後の復職を認めていた。
さらに、寅子の猪爪の家……そこに寅子と優三は住んでいた……には、母のはるも、花江もいて、育児の手助けをしてくれる要員に困ることはなかった。父親の直言も、決して、結婚して子どもができたら働いてはいけないなどと言う人間ではなかった。
記憶で書いているのだが、大筋このようだったはずである。
なのに、一方的に穂高先生に逆らったのは、寅子である。
まあ、ドラマの作り方としては、かつての恩師を敵にしてボス戦を戦って倒して、次のステージにということになるのだろうが、そう設定するには、あまりにも穂高先生を善良で良識的に描きすぎたということになる。はっきりいってドラマの人物設定のミスである。エンターテイメントの常道の設定のはずだったのが、下手だったということである。
その寅子が、裁判官になって後輩の裁判官の秋山にいろいろと言っていたのだが、かつての寅子のことを思ってみると、どれも説得力に乏しい。
当時の裁判官が女性で妊娠した場合、産前産後の休暇は認められていた、とナレーションの説明はあった。寅子は、女性の裁判官のために桂場に働きかけることになるが、その結果がどうであったか、まったく出てきていなかった。具体的に、制度がどのように改善されたのだろうか。この時代、寅子と秋山の時代には、まだ間に合わなかったが、その後の制度の改善があったならば、それはきちんと言っておくべきことである。でなければ、寅子の努力の意味がわからない。
秋山は、姑と同居していたはずである。少なくとも日常的に顔を合わせる関係にはあった。でなければ、早く男の子の孫を産めという、姑の台詞には意味がない。常識的に考えれば、出産して仕事に復帰するとして、まず頼るのは姑ということになるはずである。大嫌いといっていた姑には、子どもの面倒を頼みたくないというのならば、それはそれで筋が通ったことかもしれない。だが、それよりも、働く女性としての自分の仕事のためには、大嫌いな姑に頼らざるをえないということの葛藤の方が、より現実的であったようにも思われる。だが、このあたりが曖昧なままであった。
仕事をしている女性が妊娠して、しばらく仕事を休んで、また仕事にもどる。育児の手助けをしてくれる人はいる。これは、別にかつての寅子の場合と、まったくかわらない。たしかに、仕事の上でのキャリア形成にはいくぶんの差が出ることにはなる。しかし、これも、寅子のときも同様であったはずである。
寅子のときと、秋山のときと、そんなに大きく状況が変わったということではないとしか思えない。ここで、寅子は、道をきりひらいたあとは舗装する、と言っていたが、はたして何をしたことになるのだろうか。それは何よりも裁判官としての優秀さであるべきだが、これまでのところその優秀な仕事ぶりは描かれてきていない。
秋山は、男性より三倍、五倍、頑張ったと言っていた。だが、それは科白で言われただけだった。ドラマとして描くべきはその頑張りの姿である。それが何もなかった。せめて、使い込まれボロボロになった「六法」でも小道具として映っていればよかったかもしれないのだが、そのような配慮のある演出はなかった。
寅子は、秋山のために何かするというのであれば、まず、それができる地位にいることが必要である。居場所を作る、と言っていたが、この時の寅子は東京地裁の判事である。なにか具体的なことができる権限があったのだろうか。それがないのにことばだけでそう言ったとするならば、無責任ということになる。
同期の法曹関係などの署名嘆願ということはあった。だが、それも、具体的に制度が変わってこそ意味がある。ここは、寅子がおこなった請願が、その後にどう活かされたかを、語っておくべきところだったと思うのだが、それはなかった。
ここで思い出すのが、以前、竹もとで後輩の司法修習生(だったと思うが)の女性たちと会ったときのことである。このとき、寅子は、後輩たちのために何ができるか、ということを考えていた形跡はなかった。むしろ、後輩の女性たちから、寅子みたいにはなりたくないと、嫌われる存在としての寅子を印象づけた場面だった。
この間に、寅子がどう成長したのか、女性の法曹への道の重要性を考えるようになったのは何故なのか、そのプロセスが、このドラマでは具体的にまったく見えていない。
星の家の様子は不可解である。その当時、戦争でつれあいを亡くした男女どうしの再婚ということは、あり得たことだろう。その家族の関係を、どう描くのかというところも、ドラマとしては見どころの一つになるはずだと思うのだが、はっきりいって、まったく感心しない。
前にも書いたことだが、この時代であれば、戦前までの家にかわって、夫婦と子どもを単位とした家庭が、社会の基本になるべきだという考え方が、ひろまりつつあったころである。家庭裁判所の裁判官だった寅子なら、このことは、より強く意識することだったと思っていいだろう。だが、この当時の家族観として、説得力あるものになっているとは言いがたい。そもそも、愛情で結ばれた夫婦ということを、寅子と航一は否定している。永遠の愛を誓わない。
以前、姑と同居したいお嫁さんなんているはずがないと花江が言っていたのを、家族裁判で強引にねじ伏せたのは、寅子であった。では、寅子自身は、自分の航一との結婚(内縁の関係)については、どう思っていたのだろうか。また、姑と嫁の同居について、そうあるべきと思っていたなら、裁判所での秋山の言っていたこと(姑が大嫌い)を、どう思って聞いていたのだろうか。このあたり、寅子という人物が場当たり的にキャラクターを使い分けごまかしているようにしか思えない。これは、たまたま百合さんがいい人だったから、子供たちも理解してくれたから、ですむことではないと思う。花江の気持ちは理解する気がないが、秋山の気持ちは聞く、というのも、どこかおかしい。
このドラマは、裁判官、それも家庭裁判所にふかくかかわった裁判官が主人公である。無論、仕事としての家庭裁判所の仕事と、個人としての自分の家庭内のことは別であり、むしろ、そこのギャップを巧みに描いてこそのドラマだと思っている(いや、思っていた)のだけれど、星の一家のことを見ると、どうもそういうことを、このドラマは描くつもりはなさそうである。結局、寅子はみんなに愛される人物で、寅子を中心にして、どんなトラブルも円満におさまる、ということらしい。
娘ののどかが、この人たちは嫌い、ということを言っていたが、私の感覚としては、この台詞がもっともリアルで説得力があった。
のどかが補導されたときの反応が、いまひとつ腑に落ちない。寅子はただ、よかった、と言っていたのだが、これは、家庭裁判所の仕事をしたことのある裁判官の経験の裏打ちのある台詞として、重みに欠ける。あるいは、裁判官といえども、家庭では普通の親であるということかもしれないが、それならそれで、裁判官としての法律にもとづく思考と、家庭内での親としての感情との、時として矛盾し錯綜する気持ちを、これまでにも描いておくべきことだったと思える。
秋山の子どもについて、百合が、ベビーシッターをやってみたい、と言っていたのは、噴飯物である。百合は、子どもができなかったと言ったばかりである。つまり、赤ちゃんの育児の経験がないといっていいだろう。そんな女性が、ベビーシッターをやりたいと言い出すのは、どう考えても無理がある。ここは、せめて、百合に兄弟でもいて、その甥や姪の赤ちゃんのときに面倒を見た、ぐらいの台詞がないと無理である。しかし、その前に、最高裁判所長官の妻だった女性が、ベビーシッターのアルバイトという設定を思いつくこと自体が、信じがたい。このドラマは、あまりにも社会階層ということに無自覚すぎる。
優未がマージャンで勝負をいどんできたとき、のどかに、勝ったら自分の気持ちを話してほしい、という意味のことを言っていた。このあたりが、このドラマの脚本の無理を感じるところでもある。人間は、自分の思っていることを、そんなに簡単にことばにできるものではない。たやすく明瞭にことばにできないことを、あるいは、本来の気持ちとは違うことばを発してしまうこともある人間というものを、どう描くか、というのがドラマというもののはずである。はっきりいって人間観が軽薄なのである。
ドラマのなかではかなり以前のことになるが、民法改正のときのことである。そのとき、神保教授は、このようなことを言っていた。理想を追求することも重要だが、今目の前で苦しんでいる人を救うことも考えなければならない。しかし、このとき、寅子は、この発言を旧弊なものとして無視していた。その寅子が、別の場面になると、自分に困ったことがあれば、それを最優先にしなければならないと、怒り狂う人物になっている。これを自ら自覚しているのかどうか。あるいは、そんなことには無頓着である人物設定なのか。このあたりのことも、寅子というキャラクターに違和感を感じる一因である。
その他、いろいろと書きたいことはあるが、これぐらいにしておく。
2024年8月31日記
コメント
_ とある女性弁護士 ― 2024-09-06 23時57分31秒
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私は昭和の時代に生まれ、平成の時代に弁護士になり、出産、育児、家事をしながら弁護士をしてきた者です。尊敬する三淵さんをモデルにするドラマと言うことで昨年から楽しみにしており虎に翼を見ておりますが、途中から随所に違和感を感じ始めました。最も大きな違和感を感じたのが秋山さんの出産や署名運動のくだりです。
平成の時代であっても、「だから女性はダメだ」と言われないために、様々なものを犠牲にしながら出産・育児をしながら必死に仕事をすることが後進のためと思って頑張ってきました。「女性の活躍推進は社会で/組織で後押しすべき」「育休当たり前」というのは令和の価値観です。法曹でないキャリア女性の友人らも、大っ嫌いな?お姑さんにも頭を下げてサポートしてもらいながら、なんとかハードワークと育児の両立をしてきていました。「無理をしてもとにかく仕事を頑張ることが後進のため」、平成でさえそういう状況でありましたので、昭和の先達のもっと大変だったご苦労をありのままに描いてほしかったと思いました。
その他にも、業界の者として様々な違和感はありますが(この時代の裁判官ならば絶対裁判所内でキスなどしないだろう!などは些末なことですが・笑)、女性法曹のフロントランナーの苦労を等身大で描いてほしかった、と言う点が一番残念でした。