英雄たちの選択「悪党にても人に御座候 火付盗賊改 長谷川平蔵」 ― 2025-05-30
2025年5月30日 當山日出夫
英雄たちの選択 悪党にても人に御座候 火付盗賊改 長谷川平蔵
『鬼平犯科帳』は読んだ(その全部を読んだということではないが)。この作品については、熱烈なファンがいる。また、池波正太郎という作家についても、考えればいろいろとある。少なくとも、昔の大衆小説作家というのは、こういう経歴の人が多かった、その見本のような存在でもある。(東京大学で博士号を取って、それで直木賞作家になるという現代とは、時代がまったく異なる。)
この回ではいろんなことが詰めこまれすぎていて、ちょっと整理できていない印象がある。
まず、江戸時代の犯罪はどんなものがあったのか。それに対して、幕府や各藩では、どう対応していたのか。刑罰はどうであったのか。
その上で、長谷川平蔵とはどういう人物で、何をした人なのか。
江戸時代の刑罰、長谷川平蔵の作った人足寄場、これらについて、現代の価値観から考えるとどう判断することになるのか。
そもそも、犯罪者を少なくするにはどうすべきか。
以上のようなことがあったと思うのだが、全体としてもうちょっと整理した方がよかったかもしれない。
江戸時代の犯罪捜査として、目明かし、岡っ引きを使うことになったが、これは、半分は悪人のなかに入りこむようなもので、(まあ、この類のことは現代の警察でもあることだとは思うが、特に暴力団関係の捜査……どうでもいいことだが少し前に放送のあった「ねほりんぱほりん」の「元マル暴」は面白かった)、ある程度は必要ということになるだろう。
見ながら思ったことを書いてみる。
江戸時代は、武士と町人でことばが違ったと、磯田道史は言っていたが、これを現代の日本語史の研究として実証的に明らかにするのは、かなりむずかしい。なにせ、実際のはなしことばの資料がほとんど残っていない。江戸時代のおわりごろになっての戯作などで、いくぶん分かるかな、というぐらいだろうか。ただ、日本語学としては、社会階層によることばの違いがあったことは確かなことだとはいっていいだろう。しかし、それが、それぞれの話者にとってどう意識されるものであったかは、とても分からない。
カズオ・イシグロのことばとして、「縦の旅行」の必用性と言っていた。言いかえれば、社会階層の上下にわたる体験や観察、コミュニケーション、ということになる。今の時代、いわゆるリベラルはリベラルで、それに反対の立場はそれで、同じような立場や意見の人と交流しがちである。結果、おたがいに、世界ではこうなっている、といいあっている。少なくとも、自分とは違う価値観や感性の人がいるということは認める……それがどんなに嫌悪するものであっても……というぐらいは、必要であり、想像力の問題かなと思う。
ちょっとおどろいたのは、浅田春菜アナウンサーが、悪所、ということばを知らなかったこと。NHKで今やっている『べらぼう』の吉原は、悪所だから江戸市中から政策的に遠ざけられたということなのである。これぐらいは、常識的知識だと思っていたのだが、そうでもないのだろうか。
天明の飢饉で多くの犠牲者が出て、多くの人たちが江戸にやってきて無宿になった。これはそうなのだろうが、一方では、この時代の江戸の街は、そういう人たちを受け入れるだけの余地があるところだったとも言うことができるだろう。江戸にやってきても、悲惨な生活だったにはちがいないが、それでも、飢饉の村落にとどまるよりはマシと思わせるものがあったということかとも思える。
逆に、江戸の犯罪者を、地方に送る、そこで農業に従事させるという選択肢もあったということで番組は作ってあったが、重要なのは、これが可能になった背景であろう。農村のなかで、(今でいう)耕作放棄地があってそれを耕したり、あたらに開墾したり、ということは、どのようにおこなわれていたのだろうか。このあたりは、歴史人口学が専門である磯田道史の解説をじっくりと聞きたいところである。
社会が変わるとき、速く変化する部分と、そうではない部分がある。これはいたしかたないことだし、必要なことかもしれない。法制度と教育が変わるのが遅いのは、むしろいいことかもしれない。時の政権の交代、あるいは、新自由主義からの転換、というようなことがあるとして、それで、法律や裁判所の判断が、コロコロと変わるようだと、これはこれで困ったことになる。教育としても、変わることのない学問的な、場合によっては、科学的な基本的な知識というものはあるし、(あえて古風ないいかたをすれば)人倫の基本は、そう簡単に変化してよいものではない。
見終わって思うこととしては……現代の日本では、刑事犯罪に対する刑罰については、刑法の改正ということで、更生を主眼とする方向に変わりつつある一方で、被害者感情を尊重するという流れもある。更生を中心に考えると、犯罪者が刑務所を出て社会復帰して普通に生活できて、再犯をおかすことがなければよい。しかし、それにとどまらず、犯罪者に反省をもとめる、謝罪をもとめる、という傾向にある。これは、法の定めたペナルティの範囲をこえることだと私は思うのだが、世の中では被害者感情ということが、多くニュースで取りあげられる。いわく、被害者への謝罪のことばはありませんでした、と裁判についての報道などでよく言われる。被害者の言動や行為について制限を加えるのが、近代の刑法の原則にある考え方だと思っているのだが、ここのところは変わりつつあるようである。犯罪をおかしてそれを反省するのは当然かとも思うが(道徳的には)、しかし、法律で人の心の中まで入りこんで操作するということになるのは、どうかなと思う。法律は道徳ではないはずである。
2025年5月26日記
英雄たちの選択 悪党にても人に御座候 火付盗賊改 長谷川平蔵
『鬼平犯科帳』は読んだ(その全部を読んだということではないが)。この作品については、熱烈なファンがいる。また、池波正太郎という作家についても、考えればいろいろとある。少なくとも、昔の大衆小説作家というのは、こういう経歴の人が多かった、その見本のような存在でもある。(東京大学で博士号を取って、それで直木賞作家になるという現代とは、時代がまったく異なる。)
この回ではいろんなことが詰めこまれすぎていて、ちょっと整理できていない印象がある。
まず、江戸時代の犯罪はどんなものがあったのか。それに対して、幕府や各藩では、どう対応していたのか。刑罰はどうであったのか。
その上で、長谷川平蔵とはどういう人物で、何をした人なのか。
江戸時代の刑罰、長谷川平蔵の作った人足寄場、これらについて、現代の価値観から考えるとどう判断することになるのか。
そもそも、犯罪者を少なくするにはどうすべきか。
以上のようなことがあったと思うのだが、全体としてもうちょっと整理した方がよかったかもしれない。
江戸時代の犯罪捜査として、目明かし、岡っ引きを使うことになったが、これは、半分は悪人のなかに入りこむようなもので、(まあ、この類のことは現代の警察でもあることだとは思うが、特に暴力団関係の捜査……どうでもいいことだが少し前に放送のあった「ねほりんぱほりん」の「元マル暴」は面白かった)、ある程度は必要ということになるだろう。
見ながら思ったことを書いてみる。
江戸時代は、武士と町人でことばが違ったと、磯田道史は言っていたが、これを現代の日本語史の研究として実証的に明らかにするのは、かなりむずかしい。なにせ、実際のはなしことばの資料がほとんど残っていない。江戸時代のおわりごろになっての戯作などで、いくぶん分かるかな、というぐらいだろうか。ただ、日本語学としては、社会階層によることばの違いがあったことは確かなことだとはいっていいだろう。しかし、それが、それぞれの話者にとってどう意識されるものであったかは、とても分からない。
カズオ・イシグロのことばとして、「縦の旅行」の必用性と言っていた。言いかえれば、社会階層の上下にわたる体験や観察、コミュニケーション、ということになる。今の時代、いわゆるリベラルはリベラルで、それに反対の立場はそれで、同じような立場や意見の人と交流しがちである。結果、おたがいに、世界ではこうなっている、といいあっている。少なくとも、自分とは違う価値観や感性の人がいるということは認める……それがどんなに嫌悪するものであっても……というぐらいは、必要であり、想像力の問題かなと思う。
ちょっとおどろいたのは、浅田春菜アナウンサーが、悪所、ということばを知らなかったこと。NHKで今やっている『べらぼう』の吉原は、悪所だから江戸市中から政策的に遠ざけられたということなのである。これぐらいは、常識的知識だと思っていたのだが、そうでもないのだろうか。
天明の飢饉で多くの犠牲者が出て、多くの人たちが江戸にやってきて無宿になった。これはそうなのだろうが、一方では、この時代の江戸の街は、そういう人たちを受け入れるだけの余地があるところだったとも言うことができるだろう。江戸にやってきても、悲惨な生活だったにはちがいないが、それでも、飢饉の村落にとどまるよりはマシと思わせるものがあったということかとも思える。
逆に、江戸の犯罪者を、地方に送る、そこで農業に従事させるという選択肢もあったということで番組は作ってあったが、重要なのは、これが可能になった背景であろう。農村のなかで、(今でいう)耕作放棄地があってそれを耕したり、あたらに開墾したり、ということは、どのようにおこなわれていたのだろうか。このあたりは、歴史人口学が専門である磯田道史の解説をじっくりと聞きたいところである。
社会が変わるとき、速く変化する部分と、そうではない部分がある。これはいたしかたないことだし、必要なことかもしれない。法制度と教育が変わるのが遅いのは、むしろいいことかもしれない。時の政権の交代、あるいは、新自由主義からの転換、というようなことがあるとして、それで、法律や裁判所の判断が、コロコロと変わるようだと、これはこれで困ったことになる。教育としても、変わることのない学問的な、場合によっては、科学的な基本的な知識というものはあるし、(あえて古風ないいかたをすれば)人倫の基本は、そう簡単に変化してよいものではない。
見終わって思うこととしては……現代の日本では、刑事犯罪に対する刑罰については、刑法の改正ということで、更生を主眼とする方向に変わりつつある一方で、被害者感情を尊重するという流れもある。更生を中心に考えると、犯罪者が刑務所を出て社会復帰して普通に生活できて、再犯をおかすことがなければよい。しかし、それにとどまらず、犯罪者に反省をもとめる、謝罪をもとめる、という傾向にある。これは、法の定めたペナルティの範囲をこえることだと私は思うのだが、世の中では被害者感情ということが、多くニュースで取りあげられる。いわく、被害者への謝罪のことばはありませんでした、と裁判についての報道などでよく言われる。被害者の言動や行為について制限を加えるのが、近代の刑法の原則にある考え方だと思っているのだが、ここのところは変わりつつあるようである。犯罪をおかしてそれを反省するのは当然かとも思うが(道徳的には)、しかし、法律で人の心の中まで入りこんで操作するということになるのは、どうかなと思う。法律は道徳ではないはずである。
2025年5月26日記
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