「宮本常一“忘れられた日本人” (3)無名の人が語り出す」2024-06-20

2024年6月20日 當山日出夫

100分de名著 宮本常一“忘れられた日本人” (3)無名の人が語り出す

100分de名著で『忘れられた日本人』を取りあげると知ったとき、まず思ったのは、「土佐源氏」をあつかうかどうか、ということであった。

一つには、その内容や言葉づかいが現代の(特に性的な)倫理規範からは外れたところにあるものである。普通なら放送できないようなものである。それから、語られたことが事実譚であるかどうか、保証の限りではない。いや、これは、宮本常一の創作ではないのかという疑念のある文章である。このことを思った。

また、もし、「土佐源氏」をあつかうとしても、いったい誰がどんなふうに朗読することになるのだろうか、今の日本でこれを読める人がいるのだろうか、という心配のようなものもあった。

第一回を見て、朗読が立川志らく師匠であったことから、おそらくは「土佐源氏」を読めるということで人選したのだろうと感じた。第三回の放送を見て、「土佐源氏」を読めるのは志らく師匠であると思った。

「土佐源氏」は、私が学生のとき、一九七〇年代の終わりのことになるが、その時代において、すでに伝説的な作品だった。これが演劇として上演されていることは知っていた。『忘れられた日本人』を読んで、もっとも印象にのこったのは、やはり「土佐源氏」である。

最初にこの文章を読んでから数十年がたっている。今思うこととしては、ちょっと別の角度から考えることがある。

一つには、このような話しを聞き出した宮本常一という人物像についてである。これを語った馬喰のことも確かに重要なのだが、それ以上に、このような話しを聞き出して書きとめた宮本常一という人物の方に興味がある。今のように音声記録のための便利な機械がある時代ではない。聞いてそれを後に文章にしている。その文章の書き手としての宮本常一の筆力に改めて驚くことになる。

民俗学の聞書というのは、テープレコーダーなどない時代のものである。『遠野物語』がまさにそうであるが、この時代だからこその文章の迫力というものがある。そして、これは今の日本語の文章が失ってしまったものでもあるにちがいない。

それから、日本語学、国語学の観点から思うこととしては、このような聞書には、方言が基本的に出てきていない。ところどころ方言の言い回しを交えてそれらしく書いてあるが、基本的に近代日本語の標準的な文章である。民俗学の聞書の成立の背景には、日本語の近代の文章史という観点からも考えることが多くあるように思う。あるいは、日本民俗学という学問の成立と近代日本語の成立の関係とも言えよう。ちなみに柳田国男は国語学の歴史においても重要な位置をしめる。(といって、もうリタイアした身として特にこれ以上のことは考えることはないのであるが。)

2024年6月19日記

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