「富士山 “日本一愛される山”を支える人たち」2024-06-01

2024年6月1日 當山日出夫

100カメ 富士山 “日本一愛される山”を支える人たち

富士山の登山をめぐっては、無謀な計画で登る人とか、ゴミの問題とか、あるいは、登山者から料金を徴収するとか、いろいろと話題になるのだが、とにかく、富士山に人が行きすぎであり、適切な課金はあってしかるべきだと思う。

山小屋の人たちが面白い。どこか変わっている。でなければ、夏の間、富士山で仕事しようとは思わないだろうが。こんな仕事があってもいいし、そこで働く人がいてもいいと思う。

富士山に荷物を運び上げるのにブルドーザーを使っている。登りに三時間かかるという。帰りは、バックで下る。この仕事も大変である。ブルドーザーを使うようになる前は、人力で運ぶしかなかったはずなので、登山者が増えることと、このような運搬方法をとることとは、関係があることになる。

医療の救護所もある。これは、あってしかるべきものなのかどうか。犠牲者が出てからでは遅いので、設営していることにはなるのだろうが、いろいろ考えることもある。人道的見地からは必要である。しかし、富士山に登ってもこのような施設があるということを前提にしてもいけないだろう。番組でここを訪れていたのは、日本人の人だったが、実際には外国人も多いだろう。さまざまに苦労のあることだろうと思う。

富士山に登ってみたいという気持ちが無くなってしまったというのが、正直なところでもある。残していいのは足跡だけ、とっていいのは写真だけ、そんなふうに出かけることのできる場所ではなくなってしまっている。

2024年5月28日記

「最新研究から考える! ヒトとAIが“共生”する未来」2024-06-01

2024年6月1日 當山日出夫

サイエンスZERO 最新研究から考える! ヒトとAIが“共生”する未来

ChatGPTが話題になりだしたころ、私が考えたこととしては、これで言語研究の枠組みが大きく変わっていくことだろう、ということである。別にこれだけが理由ではないが、ともかく大学で日本語について教える仕事を辞めることにした。

その後、AI、なかでも生成AIをめぐっては、言語研究の立場からいろんなことが言われるようになってきた。重要なことだとは思うのだが、もうそれについていくのがつらくなってきたというのが実感でもある。

そこで、読もうと思って読み始めたのが、プラトンの対話編のいくつかである。このようなものは、AI開発にあたって、まっさきに入力されているものに違いないが、それを、自分の目で読んでおきたいと思った。無論、日本語訳であるが。プラトンなど読むのは、大学生のときの一般教養以来のことになる。はっきり言えば、これからAIについて考えるよりも、プラトンを読む、さらには古典を読むことに人生の残りの時間をつかいたいと思ったのである。

この番組は、科学、技術について、基本的に肯定的な立場であつかうということであるので、AIについても、ヒトとの共生、ということになっている。

画像の認識に、少しノイズを交えただけで、認識率が下がってしまうというのは、驚きであるが、これも、逆に悪用することもできるだろうし、また、さらに、それに対してどう防御するかということになるのだろう。

AIの中身、深層学習のメカニズムがよく分かっていない、まあ確かにそうなのかなと思うが、それでも生成AIによっていろんな文章を作ったりしているのが、今の人間のあり方でもある。よくわからなくてもとにかく実際に使えるもの、というのが技術ということなのだと私は理解している。(ちなみに、私は、このごろ、「科学技術」という用語をなるべく使わないようにしている。「科学」と「技術」は別に考える視点を確保しておきたいのである。)

AIの中身を、人間の脳の機能から分析しようというこころみは非常に興味深い。まず、AIの中身がどうなっているのか、それを知ることが第一である。それと同時に、人間とは何かを考えるとき、コンピュータのアナロジーとして考えるという発想が根底にあることには、自覚的であるべきとも思う。

おそらく、人間とは何かを考えるとき、究極的には、脳から考えるか、あるいは、遺伝子から考えるか、というところに行き着くというのが、現代の我々の人間観だと思う。このことの妥当性はともかくとして、そのような時代に生きているということは、考えておくべきことである。

2024年5月29日記

『虎に翼』「男は度胸、女は愛嬌?」2024-06-02

2024年6月2日 當山日出夫

『虎に翼』第9週「男は度胸、女は愛嬌?」

この週で、最初の回にもどったことになる。日本国憲法を、寅子が河原で読むシーンである。

日本国憲法については、様々に議論がある。私の立場としては、憲法もまた歴史の所産である、ということになる。日本国憲法がどのようにして制定され、そして、それが日本に住む人びとの生活や意識にどう影響を与えてきたのか、また、この憲法を今後どうするべきなのか、その時々の国際情勢、国内情勢、いろんな要因によって変わっていくことになる。ただ、「不磨の大典」としてはならないとは思う。

憲法が変わったからといって、それですぐに生活がどうなるわけではない。しかし、寅子は、ここで大きく舵をきることになる。

弟の直明に、家の大黒柱にならなくていい、男がそういう役割を担わなくていいと言う。まあ、確かに憲法にしたがうならばそうなのかもしれないが、現実には無理である。誰かが働かなくては、猪爪家の家計は維持できない。寅子は法律の仕事に復帰しようとするのだが、まだ職が決まったわけではない。これまでの仕事は、マッチであるが、どうも内職という程度の規模である。これでは、直明に帝国大学に行きなさいということにはならないだろうと思うが、どうだろうか。まずは、少なくとも寅子の就職が決まってからのことである。

寅子の言った、男性は一家の大黒柱にならなくてもいい、このことについて、私の見た限りで、X(Twitter)などではほとんど注目があつまっていなかった。本来ならば、女性の権利の主張と、男性の責務からの解放は、一つのことがらであるはずである。だが、男性としての責務からの解放については、反応がなかった。

これは、今にいたるまで、弱い立場にある男性を生み出す一つの要因である。現在にいたるまで、男性だからという責務から自由になっているとはいえない。これは、女性だからということで、不当なあつかいをうけることと同じこととしてつながっているはずのものである。しかし、このところに無関心でいられるというのは、女性の権利を語る人びとの、人間と社会と歴史についての理解の浅さとしか思えない。

直明は岡山の学校に行っていたことになっている。普通に考えれば、旧制の六高である。新しい学校の制度になるまでは、旧制の高校を卒業すれば、概ね希望する大学に進学できたということのようなのだが、戦後の混乱期に実際はどうだったのだろうか。

このあたり、東北帝国大学に進学するという設定でもよかったように思う。東北帝国大学は、日本で最初に女子学生を受け入れた大学である。これは明治大学よりも早い。

父親の直言が亡くなったのだが、その直前に、家族の前で、花江は猪爪家の人間であるということを確認していた。ここは、かなり古風な家族観によるものになるだろう。古い民法の規定ではどうなるのか、ということはこのドラマでは出てきていなかった。

(さかのぼってみることになるが)花江と直道は結婚してから、近所の別の家に住むことになった。一方、寅子は優三と結婚して佐田寅子になってからも、猪爪家に住んでいる。このあたり、ややこの時代としては、不自然かなと感じないではない。まあ、今の時代なら、普通にありうることではあるのだが。ドラマでは描かれていなかったが、書生をしていた優三がそこの家のお嬢さんと結婚して、同じ家に住み続けるというのは、かなり肩身の狭い思いをしただろうと思う。しかし、そのようなことを感じさせないのが、優三の優しさ、ということになる。

このドラマは、いろいろとこれまでの朝ドラとは違った作り方をしている。例えば、寅子が子どもを産むところがなかった。また、玉音放送のシーンがなかった。これは、このような方針であることは理解できる。しかし、なぜそのように作ったのか、疑問に感じないではない。

モデルが三淵嘉子であるとすると、寅子は後に家庭裁判所にかかわることになる。とすれば、母親になることを寅子自身がどう感じるのか、ということは重要な意味があるかもしれない。あるいは、だからこそ、女性が母親であることから距離をおいた立場というのが必要であったのかもしれない。子どもに対する母親の思いというものは、おそらく将来の寅子が家庭裁判所であつかう事案に深くかかわることだろう。

女性=母親、そして、子どもに対する母親の愛情は絶対に正しいという、旧来のステレオタイプから脱却することになるのだろうか。

玉音放送のシーンはあった方がよかったと思う。これは、日本の終戦、敗戦ということを、寅子のみならず、特に穂高や桂場が、どのような思いで迎えたかが、おそらく戦後の活動に影響するだろうと思うからである。場合によっては、降伏文書に調印した日(九月二日)を描くべきだったろうか。法的にはこの方が意味がある。

強いて考えてみるならばであるが、戦時中に法律にたずさわっていた人びと、弁護士や検察官、裁判官などは、戦争に対して責任ということをまったく感じなかったのだろうか。これまでのところ、このドラマでは、この点を全然えがいてきていない。そして、戦争が終わると、法律の専門家として仕事を継続することになる。たしかに、国家としての継続性、安定性のための、法の安定的な運用ということはあるだろう。法の正義と、悪としての戦争は、どう考えるべきなのだろうか。

次週以降、戦後のことになるのだが、戦争に責任を感じる法律家というのは出てくるのだろうか。また、GHQとの関係は描くことになるのだろうか。

2024年6月1日記

ウチのどうぶつえん「模索する動物園」2024-06-02

2024年6月2日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん 模索する動物園

これは面白かった。

長崎の動物園で、放し飼いをしているという事例。これは、事前に説明がなければ、お客さんはおどろくだろう。ビーバーが、運ぶ木をえり好みしているのは、なんともいえない。(そういえば、昔、多摩の動物園で孔雀が自由にしているのを見た記憶があるのだが、どうだったのだろうか。)

のとじま水族館の生きものたちをすくう活動は、とてもいいことだと思う。たまたま、今年のお正月の夕方はテレビを見ていて、緊急地震速報から見ていた。地震の被害の様子が気になってはいたものの、水族館がどうなっているのまでは気が回らなかったというのが実際のところである。こういうときに、日本の各地の水族館や動物園が協力しあえるシステムがあるということなのだろう。

対馬のチョウの繁殖は、いろいろと考えるところがある。鹿が増えすぎて、チョウの食べる植物が無くなってしまったということなのだが、鹿による被害のことは、いろいろとニュースなどで目にする。農作物への被害などが主なものとして報じられる。しかし、地域の生態系を破壊するという点では、これも重要な問題かと思う。それにしても、チョウのペアリングは根気のいる仕事である。たぶん、私は、とてもできない。また、卵を生んでもそれを成虫にまで育てるのも大変である。なるほど、こういう仕事もしているのかと思った次第である。

2024年6月1日記

『光る君へ』「越前の出会い」2024-06-03

2024年6月3日 當山日出夫

『光る君へ』第22回「越前の出会い」

紫式部が越前に行っているということは、史実として確認できることだったと思うのだが、しかし、父親の為時のそばにくっついていたということなのだろうか。越前の国司であり、従五位下である。殿上人としては下位であるといっても、れっきとした貴族である。まひろが、一般のというか、身分が下の人びとの前に、顔をさらすというのは、どうなのだろうか。まして、えたいのしれない外国人の前に出て行くのはどうだったのだろうかと思わないではない。しかし、現代のテレビのドラマとして作るには、顔を合わせることがないと成りたたない。

実際に現地に行く国司……受領と昔学校でならったのだが……ならば、さんざん悪いことをしてがっぽり儲けて帰るというのが普通だったと思うのだが、為時は、清廉潔白な官僚ということのようだ。(実際はどうだったのだろうか。『今昔物語集』では受領というのは相当のがめつさだったようだ。)

紫式部は本当に羊の肉を食べたことがあったのだろうか……

「宋語」といういいかたが、今ひとつしっくりこない。かといって、「中国語」ということもできない。現代でもそうなのだが、言語の名称は難しい。たとえば、私は「朝鮮語」という呼称をつかうことにしている。学生の時に勉強した(慶應義塾外国語学校、この当時、大学の学部には朝鮮語の授業がなかった)ときの名称が「朝鮮語」だった。「韓国語」というと、北朝鮮で使っていることばの名称としてはふさわしくない。「ハングル」という言い方もあるが、私は使わない。「朝鮮語」のことを「ハングル」というようになったのは、昔、NHKが朝鮮語講座を始めるとき、「朝鮮語」とも「韓国語」とも使えず、苦肉の策として「ハングル」と使い始めたのがおこりだったと記憶する。「ハングル」は言語の名称ではなく文字の名称である。他にも、現在の国名と言語の名称とはややこしいのがある。「ペルシャ語」「ビルマ語」などがある。

このドラマでは、死のけがれというのは描かない方針である。これも、もう慣れてしまった。始めのころは、平安貴族の生活感覚としてどうしてもそぐわない感じがしたのだが、まあ、このドラマはこんなふうに作っているのかと、半分あきらめた感じて見ている。

それにしても、オウムの声だけの登場というのは、ドラマでははじめてかもしれない。

次回の予告に出てきた、左大臣は帝の次に偉い人……これは「不敬」であろう。

2024年6月2日記

「明国からのSOS 〜徳川家光 知られざる海外派兵問題〜」2024-06-03

2024年6月3日 當山日出夫

英雄たちの選択 明国からのSOS 〜徳川家光 知られざる海外派兵問題〜

まずおさえておかなければならないのは、東アジアの歴史は、まさに興亡の歴史であったということである。決して平和ばかりの時代が続いてきたわけではない。中国の王朝の交替は、戦争である。

番組のなかでは、昨今の台湾有事のことも、ウクライナのことも、イスラエルのことも、誰も一言も言わなかったのだが、しかし、見ていると、国際情勢のなかで、日本はどのような立ち位置をとるべきなのか、国家の存立が優先されるべきなのか、広く国際的な視点から民主的な立場を擁護するべきなのか、といった議論が、背後に隠れている。

江戸時代の歴史、特に外交史や交易史などの分野を専門にしている研究者の目から見れば、常識的なことがらに属するのかもしれない。だが、それを、この番組では非常に面白く、現代の日本のことを意識して、作ってある。

外交というものが、かならずしも、交渉だけによってなりたつものではないということが分かる。話せば分かる、というものではないのである。

番組のなかで、磯田道史は、仁川上陸作成、と言っていたが、ちょっと古すぎて、今の若い人には分からないかもしれない。まあ、この番組は、そんなに若い人の見る番組ではないと思うが。

2024年5月31日記

「トーマス・マン“魔の山” (4)生への奉仕へ」2024-06-04

2024年6月4日 當山日出夫

100分de名著 トーマス・マン“魔の山” (4)生への奉仕へ

再放送を録画しておいて見た。月曜日の放送も録画してあったのだが、北朝鮮の衛星打ち上げのことがあって、終わりの方が切れてしまった。あらためて録画設定をしなおして、見ることにした。

文学作品について語ることの難しさは、それが結論を提示しているものではないことが多いということにある。いわゆる思想書のような場合には、主張が明快であることが多い。しかし、文学は、何を言いたいのかよくわからないというものがある。

『魔の山』も、何が言いたいのかよく分からない小説の一つ、と言っていいのかもしれない。だが、このような作品については、複雑なものは複雑なままでうけとめるしかない、これが素直でただしい読み方、ということになるのだろう。

『魔の山』はレクイエムだという。第一次世界大戦が、西欧の人びとに何をもたらしたのか、日本からみると分かりにくいところがある。その分かりにくさを、そのまま受けとめて読んでおくのがいいといことなのだろう。

「100分de名著」の『魔の山』では、文学を読むとはどういうことなのか、最終的にはいろいろと考えるところがあった。

2024年6月3日記

「明恵上人の“夢” 「あるべきようは」を生きる」2024-06-04

2024年6月4日 當山日出夫

こころの時代 明恵上人の“夢” 「あるべきようは」を生きる

国語学、そのなかでも訓点語にかかわる勉強をしてきたので、高山寺のことは、知らなければならない存在ということになる。だが、そのことはわきにおいておいて、明恵上人という僧のひととなりについて、考えるところのある番組になっていたと思う。

明恵上人の「夢記」は有名である。もっとも手軽には、岩波文庫の『明恵上人集』であろうか。

「100分de名著」でフロイトをあつかっていたときにも思ったことなのだが、どうして夢を憶えているのだろうか。これが、私には不思議でならない。私の場合、夢を憶えているということが、ほとんどない。夢を見ているときにははっきりとしたイメージであるのだが、起きると忘れてしまっている。夢を見たという記憶はあるのだが、内容については憶えていない。これは、何故なのだろう。夢についての記憶は、いち早く忘却するようなシステムが、こころのうちのどこかにあるのかもしれない。

明恵上人の残した資料は、私の勉強してきた領域からいえば、漢字カタカナ交じり文の成立、というあたりの資料として見ることになる。

番組の作り方なのだが、鎌倉時代にあっての他の仏教の動きということを、語ってはいなかった。これは、ある意味でいたしかたないことかとも思う。いわゆる鎌倉新仏教というものに対して、きわめて批判的であったのが明恵であるということは、一般的な知識だろう。それを否定するということは語っていなかった。だが、他の仏教(ここでは宗派ということばはあまりふさわしくないかと思うが)の動向のなかで、明恵が自分の宗教観をどう育てていったのか、ということは、やはり気になるところではある。

時代、歴史ということを抜きにして、この時代の仏教思想を語ることは難しいと思う。

明恵の信仰を、華厳と真言が融合したものとしていたが、これは、汎神論的仏性論とでも言いかえることができるだろうか(やや安易な解釈かもしれないが。)私には、このような感覚が一番なじむ。

登場していた人たちが、「明恵」「明恵さん」「明惠上人」とそれぞれに違う言い方をしていたのが、印象的でもあった。

映っていた人たちの何人かは、知り合いというか、まあ、学会の後の懇親会で一緒に酒を飲んだりしたことのあるようなメンバーであった。このところ、学会も出ていないので、会う機会はなくなってしまったが。

「あるべきやうは」というのは、現実を肯定すると同時に、非常に厳しく自己を律することばである。このような仏教のあり方というのは、今日においてかえりみられるべきことの一つであることは確かである。

それから、番組では触れていなかったことだが、高山寺の継続的な維持管理は大変なのである。

2024年5月30日記

「窓際族が世界規格を作った〜VHS・執念の逆転劇〜」2024-06-05

2024年6月5日 當山日出夫

新プロジェクトX 窓際族が世界規格を作った〜VHS・執念の逆転劇〜

この番組を見るのは三回目かと思う。

たしかに、VHSの開発物語としては面白い。だが、ここから、将来の日本のために学ぶものがあるだろうか。

会社の上層部に内緒での製品開発ということは、今の日本でできるだろうか。今の日本のメーカだったら、不採算部門は、あっさりと切り捨てる、というのが普通だろう。マーケット至上主義からすればそうなる。また、最近では、株主に対する説明をどうするか、という問題もある。

以前の放送のときも思ったことなのだが、VHSの開発にたずさわった技術者の学歴が、工業高校なのである。現在の日本で、新規な製品開発となると、大学の工学部卒業以上、ということだろう。では、今の日本の大学にそれだけの人材を育成するちからがあるだろうか。失われた三〇年という時代は、大学の改革という名のもとに、大学の教育、研究の場としてのちからがそがれていった時代でもある。研究に意欲のある学生が、大学院の博士課程まで希望するということが減ってきている時代でもある。

大学を出て、企業のOJTで、これからどれほどの人材が育成できるだろうか。

また、企業というものが、そこで働く社員の人生に責任を持つ、という社会の考え方も、今では崩壊している。上司が、部下の社員たちの雇用を守る責任がある、という考え方は、もう通用しないだろう。

ただ、参考になるかと思うのが、ビクターが開発したVHSの規格について、他の企業に情報を公開したことである。そのことによって、VHS規格のシェアを取ることに成功した。このことは、参考事例になるにちがいない。

だが、これもこれからの時代どうだろうか。結局は、中国の企業に全部もっていかれるということになるかもしれない。

番組としては面白いのだが、これからの日本の製造業がここから何を学ぶべきか、その肝心のメッセージを語ることができなかったのが、残念なところである。

2024年6月3日記

上記の文章を書いてから、ニュースでトヨタなどの自動車メーカの認証不正を報じていた。物作りの基本がどうかしてしまったとしか思えない。

2024年6月4日記

ザ・バックヤード「三段峡」2024-06-05

2024年6月5日 當山日出夫

ザ・バックヤード 三段峡

三段峡は知らなかった。景色がいいところは、それだけ昔からの自然が残されているということであり、その目で観察、調査するならば、いろんなことが分かる、これまでの「ザ・バックヤード」の番組とはちょっと趣は変わっているのだが、とても面白い。

特に、ツツジの花の種類で、西日本の中国、四国、九州の一部にしか存在しないものがある。その分布が、古代、中国地方と四国地方が地続きであった時代の河川の流域と重なるというのは、とても面白い。

ここでも貴重な植物の盗難があるというのは、悲しむべきことである。

2024年5月31日記