3か月でマスターする江戸時代「(4)“文治政治”は何を生んだ?」2025-01-31

2025年1月31日 當山日出夫

3か月でマスターする江戸時代 (4)“文治政治”は何を生んだ?

私の理解では、生類憐れみの令というのは、犬を食べてはいけませんよ、ということだったと思っていたのだが、どうなのだろうか・・・

生類憐れみの令のことは、学校の歴史の教科書に出てくることなので、みんな知っている。しかし、その実質がどうであったかは、あまり知られていないことになるかと思う。一つには、様々な法令の集合であって、特定の法令に限ってのことではない、ということ。二つには、幕府が示したのは原理原則であって、それをどう判断して行政を行うかは、現場にまかされていたこと。ここで、より強く権力の意向を忖度する、という政治になってしまう。その結果、いろいろと残酷な、あるいは、滑稽な事件につながった。このように理解していいだろうか。

文治政治ということばは習ったように憶えているけれど、それで、江戸時代の理解にどう役立つかということは、あまり考えたことはない。文治主義といっても同じことである。武断政治、武威といっても、それは、権力のあり方として、一つのことの両面である。(今の世界を見ても、武力だけで統治できるということはない。そこには、かならず、人間がいて、どうすればしたがうようになるのか、という面があると思ってみている。ただ、武力による威嚇を前面に出す場合もあれば、そうでないこともある。)

それよりも重要なことは、武士が、基本は武人であり軍事力でありながら、平和な時代においては、官僚として働くことになる、という江戸時代の政治のシステムについてであろうと、私は思う。この武士の二面性があって、江戸時代がつづいてきたのであり、それが崩壊するのが明治の時代、ということになる。

江戸時代の武士の生活というと、私の世代でまず思い出すのが、『元禄御畳奉行の日記』であり、『鸚鵡籠中記』である。若い人なら、『武士の家計簿』を思うかもしれない。

元禄赤穂事件については、いろいろと考えることがある。この番組としては、この事件に対して、幕府のとった態度を、綱吉の価値観から説明していた。ケガレをきらう綱吉としては、殿中で流血事件を起こしたことが、まず大問題なのであって、喧嘩ではなかった、ということになる。これはこれとして、理解できる話しである。

それと、その後、吉良上野介が襲われる事件へと発展して、江戸の人びとが、この事件に対してどう反応したかは、また別の問題ということになる。今日に伝わるものでは、「仮名手本忠臣蔵」がメインとなるが、それ以外に、この事件を題材にして、どのような文学(浄瑠璃、講談)や、絵画作品が、生まれることになったのか、もうちょっと言及があるとよかったかと思うが、時間の関係で、これ以上は無理ということだろう。

ところで、私が学生のときに読んだ、『日本政治思想史研究』(丸山眞男)では、この元禄赤穂事件をめぐって、どのように評価すべきかの政治論争を分析したものであった。忠義の鑑として褒めることもできるし、幕府の法をやぶった犯罪者としてとがめることもできる。この議論は、おそらく、今でも決着のついていないところだろう。(一般的には、忠義の話しとして、サブカルチャーのなかで消費され、再生産されていくことになる。NHKの大河ドラマでも、これまでに、忠臣蔵は、何度も題材になってきている。無論、赤穂浪士の行動を肯定する立場からである。)

綱吉の時代に忠孝札を全国に立てたので、それで、人びとの間に、忠義や孝行の観念がひろまっていった、というのはどうだろうか。それよりも、私としては、近松門左衛門の浄瑠璃などの影響ということを、考えてみたい。(大学では国文科で勉強した人間としては、ということもあるが。)

2025年1月30日記

ダークサイドミステリー「悪徳の作家サド 闇の哲学〜危険すぎる“自由とは何か?”〜」2025-01-31

2025年1月31日 當山日出夫

ダークサイドミステリー 悪徳の作家サド 闇の哲学〜危険すぎる“自由とは何か?”〜

この番組はBSだから放送できるのだろう。これをNHKでも総合では無理だろうなあ、と思う。

マルキ・ド・サドの名前は知っているが、その書いたもの(日本語訳)を読んだことはない。かつて、渋澤龍彦がその作品の翻訳などしている。もう今となっては、渋澤龍彦も過去の人になってしまったかと、思わないでもない。

人間の自由を最大限に追求するならば、どういうことがいえることになるか……そこのところを、とことん考えた人であることは確かであろう。美徳と悪徳について、なんであるのかということも、深く考えることになる。

これは、今の社会においては、二つの意味で興味ぶかい。

一つには、近年になっていわれるようになった、テクノ・リバタリアン、という考え方である。最低限のルールは守るべきだとしながらも、テクノロジーと富の独占によって、自由にふるまおうとする、と理解していいだろうか。人間は、どこまで社会の規範から自由でありうるのか、現代における挑戦の一つのあり方であるともいえるだろう。

果たして人間は、本当に自由なのだろうか。近代的な啓蒙思想は、人間の自由意志を尊重する。人間は本来的に自由なものであり、その結果としての、社会における自由であり平等であり、そして、国家である、というのが大きな枠組みということになるだろう。

だが、近年の行動科学などの立場からは、そんなに人間は自由にものを考えることはできない、判断できない、選択できない、ということが言われている。これは、たぶんそのとおりなのだろうと思う。

サド自身がいくら自由を追求したとしても、そこには、神、あるいは、神の否定ということを介在させての人間の自由ということになる。そもそも、唯一一神教信仰の無い歴史と文化……たとえば日本など……において、その考え方が、そのまま通用するということはないはずである。

だが、社会的規範やルール、道徳などから自由でありたい、ということは、かなり普遍性を持っていえることではあるだろう。

第二の点は、番組の最後に言われていたことだが、社会はタブーを生み出すものである、ということをどう考えるか、である。現代の社会は、多様性の尊重といいながら、タブーに満ちている。例えば、ある種の性的指向(たとえば同性愛)は絶対に否定されてはならないが、一方で、別の種類の性的指向(たとえば小児性愛)は絶対に許されないものとして許容されない。人間は、その性的指向を自分で選ぶことができるものなのか、あるいは、できないものなのか、というところから始まって議論しなければならないはずだが、そのようなことを考えることすら拒否するところがある。この意味では、現代社会はきわめて不寛容である。

ざっと以上のようなことを思ってみる。

番組のなかでいわれていたこととして、悪徳のことばを積み重ねていくと、逆に、そのことばから自由になっていく……これは、確かにそういう側面があるだろうと思う。これは、文学とことばの想像力ということの本質にかかわる問題である。

人間は本来的に善であるのか、正義とは何であるのか、あるいは、表現の自由とは何か、悪とは何か、ということを考えるとき、サドのことを思い返してみることは意義があるにちがいない。

2025年1月28日記

Asia Insight 「韓国 父親たちの育休SOS」2025-01-31

2025年1月31日 當山日出夫

Asia Insight 韓国 父親たちの育休SOS

再放送である。最初の放送は、2023年9月29日。

一年とちょっと前の放送であるが、それから、この番組でとりあげた韓国社会の問題が劇的に改善した、というニュースは見ていない。

少子化は日本以上であるし、、それから、男性が育休を取ることへの社会的抵抗は、おそらく、日本よりも韓国の方がきびしいものがあるのだろう。日本の場合、制度的にまだ不十分とはいえ、育休をとったからといって解雇されるようなことは、まずないだろう。(皆無とは思わないが。)

この問題の根底にあるのは、韓国社会のなかにある、(特に男性についての)社会的な地位の序列意識だろうと思うが、どうなのだろうか。育休をとったぐらいで、出世競争から脱落せざるをえないというのは、日本の常識から考えて、ちょっと異常である。おそらく社会的階層についての意識、会社どうしの上下関係の意識、会社内での序列意識……こういうものの一つのあらわれが、育休取得問題ということで顕在化していると、理解していいだろうか。

2025年1月29日記