所さん!事件ですよ「まさかの盗難も!?中古自動車ブームの裏側」 ― 2025-07-14
2025年7月14日 當山日出夫
所さん!事件ですよ まさかの盗難も!?中古自動車ブームの裏側
たまたまテレビをつけたら放送していたので、なんとなく見ていた。
かなり前のことになるが、家の近くの駅の近い駐車場で、34のナンバーをつけた、GTRを見かけたことがある。これは、分かる人にしか分からないが、こういうのが好きな人もいるものだなあと思って見ていた。
GTRに乗りたいために、日本にやってくる観光客がいるということは知らなかった。まあ、確かに、魅力的なクルマだろうとは思うが、そうまでして乗ってみたいと思う気持ちが私には分からない。(まあ、私自身でも、使っているカメラとして、Nikonの一眼レフを手放せないのは、そのシャッター音の良さの魅力があるから、というようなこともあるのだが……)
日本の中古車が、アフリカとか、ロシアとかに、大量に輸出されていることは知っていたのだが、それにパキスタンの人がたくさんかかわっているということは知らなかった。たまたまのきっかけがあってのことのようなのだが、これは、世界におけるパキスタンの人びとのネットワークの強さということになるだろう。日本の中古車販売以外でも、このような人的ネットワークのビジネスの分野があるにちがいないと思うが、どのようになっているのだろうか。
世界で日本の中古の自動車が売られて走っているということは、そのメンテナンスのための各種の部品を提供するサプライチェーンがあるということになると思う。一般には、新しい新車の製造のための原材料から部品供給のサプライチェーンが、話題になることが多い。だが、実際に走っている自動車を維持するためには、中古車部品をふくめて総合的にどうなっているのか、全体はどうなっているのか、ということになるはずである。これが、もし次世代の電気自動車に変わってくるとすると、はたしてどうだろうか。ガソリン自動車は古くなってもメンテナンスすれば乗れるが、古くなった電気自動車はどうだろうか。バッテリーの劣化は致命的だと思うが、そのリサイクルなど、世界的にはどう考えることになるのだろうか。
2025年7月13日記
所さん!事件ですよ まさかの盗難も!?中古自動車ブームの裏側
たまたまテレビをつけたら放送していたので、なんとなく見ていた。
かなり前のことになるが、家の近くの駅の近い駐車場で、34のナンバーをつけた、GTRを見かけたことがある。これは、分かる人にしか分からないが、こういうのが好きな人もいるものだなあと思って見ていた。
GTRに乗りたいために、日本にやってくる観光客がいるということは知らなかった。まあ、確かに、魅力的なクルマだろうとは思うが、そうまでして乗ってみたいと思う気持ちが私には分からない。(まあ、私自身でも、使っているカメラとして、Nikonの一眼レフを手放せないのは、そのシャッター音の良さの魅力があるから、というようなこともあるのだが……)
日本の中古車が、アフリカとか、ロシアとかに、大量に輸出されていることは知っていたのだが、それにパキスタンの人がたくさんかかわっているということは知らなかった。たまたまのきっかけがあってのことのようなのだが、これは、世界におけるパキスタンの人びとのネットワークの強さということになるだろう。日本の中古車販売以外でも、このような人的ネットワークのビジネスの分野があるにちがいないと思うが、どのようになっているのだろうか。
世界で日本の中古の自動車が売られて走っているということは、そのメンテナンスのための各種の部品を提供するサプライチェーンがあるということになると思う。一般には、新しい新車の製造のための原材料から部品供給のサプライチェーンが、話題になることが多い。だが、実際に走っている自動車を維持するためには、中古車部品をふくめて総合的にどうなっているのか、全体はどうなっているのか、ということになるはずである。これが、もし次世代の電気自動車に変わってくるとすると、はたしてどうだろうか。ガソリン自動車は古くなってもメンテナンスすれば乗れるが、古くなった電気自動車はどうだろうか。バッテリーの劣化は致命的だと思うが、そのリサイクルなど、世界的にはどう考えることになるのだろうか。
2025年7月13日記
『八重の桜』「薩長の密約」 ― 2025-07-14
2025年7月14日 當山日出夫
『八重の桜』「薩長の密約」
幕末の歴史においては、薩長同盟ということが大きな転機になったことは確かなのだが、誰がどう判断してこういうことになったのか、いろいろと考えるべきパラメータが多くて、よく分からないところがある。普通の幕末ドラマだと、ここで坂本竜馬の活躍ということである。だが、この『八重の桜』では、坂本竜馬は出てこない。いや、出てはくるのだが、この回で、土佐藩脱藩浪士として背中が映るだけである。これはこれで、一つのドラマの作り方だと思うが。
西郷隆盛、大久保一蔵、桂小五郎、といった志(といっていいだろうか)は、薩摩とか長州とかの藩をこえて、日本のことを考えている。会津藩においては、覚馬は日本という国ことを考えることができるようだが、その他の家臣たちは、会津藩のことしか見えていない。藩主の松平容保は、朝廷・孝明天皇への忠誠心はあり、幕府への忠義もあるのだが、今のところ、これは、公武合体という名前のもとに、なんとかバランスが保たれている。幕府は、家茂が亡くなり、慶喜が宗家を継ぐのだが、将軍は空位でいいと言う。なんだか、カオスというべき状態である。
八重のことはほとんど出てこなかった。
新島襄は、アメリカのボストンに着いた。さて、新島襄は、どのルートでアメリカに渡ったのだろうか。このあたりのことは、調べれば伝記として明らかになっていることだろう。ただ、太平洋を横断してアメリカに行ったのではないことになる。
2025年7月13日記
『八重の桜』「薩長の密約」
幕末の歴史においては、薩長同盟ということが大きな転機になったことは確かなのだが、誰がどう判断してこういうことになったのか、いろいろと考えるべきパラメータが多くて、よく分からないところがある。普通の幕末ドラマだと、ここで坂本竜馬の活躍ということである。だが、この『八重の桜』では、坂本竜馬は出てこない。いや、出てはくるのだが、この回で、土佐藩脱藩浪士として背中が映るだけである。これはこれで、一つのドラマの作り方だと思うが。
西郷隆盛、大久保一蔵、桂小五郎、といった志(といっていいだろうか)は、薩摩とか長州とかの藩をこえて、日本のことを考えている。会津藩においては、覚馬は日本という国ことを考えることができるようだが、その他の家臣たちは、会津藩のことしか見えていない。藩主の松平容保は、朝廷・孝明天皇への忠誠心はあり、幕府への忠義もあるのだが、今のところ、これは、公武合体という名前のもとに、なんとかバランスが保たれている。幕府は、家茂が亡くなり、慶喜が宗家を継ぐのだが、将軍は空位でいいと言う。なんだか、カオスというべき状態である。
八重のことはほとんど出てこなかった。
新島襄は、アメリカのボストンに着いた。さて、新島襄は、どのルートでアメリカに渡ったのだろうか。このあたりのことは、調べれば伝記として明らかになっていることだろう。ただ、太平洋を横断してアメリカに行ったのではないことになる。
2025年7月13日記
『べらぼう』「願わくば花の下にて春死なん」 ― 2025-07-14
2025年7月14日 當山日出夫
『べらぼう』「願わくば花の下にて春死なん」
この回の演出は、かなりオーソドックスな構図で撮ってあったが、やはり、画面が暗い。夜の室内の行灯の明るさ、提灯の明るさ、まあ、実際にはもっと暗かったはずだが、これまでの時代劇ドラマでは、あえて明るい照明にしてあった。それが、この『べらぼう』では、可能な限り、室内の特に夜のシーンは、暗く撮影する方針である。(日曜日の昼に、4Kで『八重の桜』から続けて『べらぼう』を見ているので、その画面の暗さが非常に印象に残る。)
また、あえて逆光で人物を撮っている。室内で、障子を背景にしてということであるが、人物の表情が分かる範囲で、暗く写している。背景が障子であるから、その紙があることが感じられ、人物の表情も見える、このギリギリのラチュチュードの範囲で、照明と構図が考えられている。このような撮影が可能になっているというのは、やはり撮影機材の技術の進歩、テレビの性能の向上ということがあってのことになるだろう。
天明の飢饉である。これまでずっと思ってきたことなのだが、飢饉となって、地方の農村部では飢え死にというようなこともあったらしい。そのなかで、少なからぬ人びとが、村落を離れて江戸市中まで流れてくる。無論、江戸市中では米はとれない。だが、江戸には米があった、ということなのだろう。この時代、米の生産と流通は、実際にはどうなっていたのだろうか。米の生産をしている農村部で飢餓状態になるが、都市部では生きのびることができたということになる。それだけ、強引に年貢米をとりたてて江戸に集積していたということでいいのだろうか。また、米を作らない漁民などは、どうしていたのだろうか。(中世から近世にかけての、さまざまな歴史の勉強ということになるのだが、もうこの年になると、本を読んでみようという気にもならないでいる……)
お米の流通を、(今でいう)マーケットの論理にまかせておくと、安売りで顧客獲得のために値段が下がると思っていたのが、逆に、高騰してしまう。世の中とは、こんなものだろう。
大坂でお米の業者がつぶれて、幕府がそれを買い上げて、江戸で売る。市場への政府の介入である。江戸まで運ばなければならないが、その輸送コストは、かなりかかったかもしれない。
これも、日本では、食管法があった時代は、政府は農家から高く買って、消費者に安く売る、ということがあった。これは、さんざん批判されて、今のように、自由な市場になったのであるが、輸入については、厳しく制限がある。私の世代だと、お米の通帳、というのをかろうじて記憶していることになる。
江戸時代の人たちは、いったいどんな食事をしていたのだろうか。こういうことについては、江戸城とか、吉原とかで、どんな料理があったのかは、分かることかもしれないが、一般の人びとのことは、記録に残りにくい。江戸時代には、多くの料理本も刊行されているのだが、それに掲載されているような料理を、一般の人びとが日常的に食べていたというわけではなかっただろう。
江戸城内の刃傷事件というと、どうしても元禄時代の赤穂事件、つまり忠臣蔵の事件のことを思ってしまうが、田沼意知も切りつけられたことになる。この事件の真相はよくわかっていないことかと思うが、ドラマとしては、恨み辛み(それが誤解であっても)の積み重なったあげくのことであり、さらには、これは背後に策謀した人物がいたらしい、という、まあ陰謀論的な筋書であった。これは、ドラマとしては、よく考えてあるとは思う。狩りの場面での雉のエピドードは、なんかうさんくさい。陰謀にまんまとはめられたようである。これなら事件がおこっても、そうだろうなあと思うことになる。
意知の事件と、誰袖のこと、これをたくみに描いていたが、これは上手に作ってあると感じた部分である。
世の中が飢饉で景気が悪くなると、逆に、吉原が活気づく……こういうこともあったと思うのだが、あまり吉原の歌舞音曲を強く表現するところはなかった。
普通の着物(吉原の花魁姿ではない)誰袖が、とても美しく可愛い。
この回の演出でうまいと思ったこととしては、田沼意次が白眉毛の言ったことを思い出す(金は食えない、役に立つのは米である)シーン、それから、系図の巻物を池に投げ入れるシーン、これを台詞の説明だけにして、映像としての回想場面にしていなかったことである。見ている人は、これらのシーンを覚えているはず、これは、視聴者に対する信頼感というべきだろう。
来週は選挙のためお休みである。これからどうなるのだろうか。
2025年7月13日記
『べらぼう』「願わくば花の下にて春死なん」
この回の演出は、かなりオーソドックスな構図で撮ってあったが、やはり、画面が暗い。夜の室内の行灯の明るさ、提灯の明るさ、まあ、実際にはもっと暗かったはずだが、これまでの時代劇ドラマでは、あえて明るい照明にしてあった。それが、この『べらぼう』では、可能な限り、室内の特に夜のシーンは、暗く撮影する方針である。(日曜日の昼に、4Kで『八重の桜』から続けて『べらぼう』を見ているので、その画面の暗さが非常に印象に残る。)
また、あえて逆光で人物を撮っている。室内で、障子を背景にしてということであるが、人物の表情が分かる範囲で、暗く写している。背景が障子であるから、その紙があることが感じられ、人物の表情も見える、このギリギリのラチュチュードの範囲で、照明と構図が考えられている。このような撮影が可能になっているというのは、やはり撮影機材の技術の進歩、テレビの性能の向上ということがあってのことになるだろう。
天明の飢饉である。これまでずっと思ってきたことなのだが、飢饉となって、地方の農村部では飢え死にというようなこともあったらしい。そのなかで、少なからぬ人びとが、村落を離れて江戸市中まで流れてくる。無論、江戸市中では米はとれない。だが、江戸には米があった、ということなのだろう。この時代、米の生産と流通は、実際にはどうなっていたのだろうか。米の生産をしている農村部で飢餓状態になるが、都市部では生きのびることができたということになる。それだけ、強引に年貢米をとりたてて江戸に集積していたということでいいのだろうか。また、米を作らない漁民などは、どうしていたのだろうか。(中世から近世にかけての、さまざまな歴史の勉強ということになるのだが、もうこの年になると、本を読んでみようという気にもならないでいる……)
お米の流通を、(今でいう)マーケットの論理にまかせておくと、安売りで顧客獲得のために値段が下がると思っていたのが、逆に、高騰してしまう。世の中とは、こんなものだろう。
大坂でお米の業者がつぶれて、幕府がそれを買い上げて、江戸で売る。市場への政府の介入である。江戸まで運ばなければならないが、その輸送コストは、かなりかかったかもしれない。
これも、日本では、食管法があった時代は、政府は農家から高く買って、消費者に安く売る、ということがあった。これは、さんざん批判されて、今のように、自由な市場になったのであるが、輸入については、厳しく制限がある。私の世代だと、お米の通帳、というのをかろうじて記憶していることになる。
江戸時代の人たちは、いったいどんな食事をしていたのだろうか。こういうことについては、江戸城とか、吉原とかで、どんな料理があったのかは、分かることかもしれないが、一般の人びとのことは、記録に残りにくい。江戸時代には、多くの料理本も刊行されているのだが、それに掲載されているような料理を、一般の人びとが日常的に食べていたというわけではなかっただろう。
江戸城内の刃傷事件というと、どうしても元禄時代の赤穂事件、つまり忠臣蔵の事件のことを思ってしまうが、田沼意知も切りつけられたことになる。この事件の真相はよくわかっていないことかと思うが、ドラマとしては、恨み辛み(それが誤解であっても)の積み重なったあげくのことであり、さらには、これは背後に策謀した人物がいたらしい、という、まあ陰謀論的な筋書であった。これは、ドラマとしては、よく考えてあるとは思う。狩りの場面での雉のエピドードは、なんかうさんくさい。陰謀にまんまとはめられたようである。これなら事件がおこっても、そうだろうなあと思うことになる。
意知の事件と、誰袖のこと、これをたくみに描いていたが、これは上手に作ってあると感じた部分である。
世の中が飢饉で景気が悪くなると、逆に、吉原が活気づく……こういうこともあったと思うのだが、あまり吉原の歌舞音曲を強く表現するところはなかった。
普通の着物(吉原の花魁姿ではない)誰袖が、とても美しく可愛い。
この回の演出でうまいと思ったこととしては、田沼意次が白眉毛の言ったことを思い出す(金は食えない、役に立つのは米である)シーン、それから、系図の巻物を池に投げ入れるシーン、これを台詞の説明だけにして、映像としての回想場面にしていなかったことである。見ている人は、これらのシーンを覚えているはず、これは、視聴者に対する信頼感というべきだろう。
来週は選挙のためお休みである。これからどうなるのだろうか。
2025年7月13日記
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