ブラタモリ「東京・神楽坂▼大人の隠れがの街はどうできた?花街誕生のヒミツ」2025-10-02

2025年10月2日 當山日出夫

ブラタモリ 東京・神楽坂▼大人の隠れがの街はどうできた?花街誕生のヒミツ

神楽坂は、飯田橋の駅から登っていく坂になる。飯田橋ということで、思い出すのは、佳作座である。もう今はない。昔は、東京にいくつも名画座があった。私が学生のときに、ちょうど『ぴあ』が刊行になったばかりのころで、いろいろと行ったものである。

そのころ、神楽坂は、今のようなおしゃれな街というわけではなかったと憶えている。そう気楽に学生が行くようなところでもないが、比較的庶民的な雰囲気のあるところだったと記憶している。

江戸の街から東京の形成ということについては、さまざまに調べられていることだろうし、神楽坂をはじめ、赤坂、四谷、というあたりの歴史は、東京の都市としての発達と、昔の江戸の街とのかかわりで、面白いことがあるにちがいない。

坂の多いところで、わざわざ細い道を作って、まさしく人目を忍ぶように料亭などがあつまっていた、というのは、やはりそれなりの需要があってのことなのだろう。新橋、柳橋あたりとくらべて、東京の花街の歴史を考えることになるだろう。それは、それぞれの花街に、どのような客層であったかということになり、日本の近代の政治と経済の裏面史につながることかもしれない。

見ていて思ったことだが、地面が石畳が多い。石畳は風情はあるのだが、歩きやすいとは必ずしもいえない。だからといって、土のまままだと、雨が降ったりしたらたいへんである。このあたりの石畳の道というのは、いつごろから作られたものだったのだろうか。

戦後しばらくのころに建てられた料亭の建物に住んでいる……とてもたいへんというか、めんどくさいだろう、と思うが、これだけ価値のある建造物となると、そう簡単に壊してしまってというわけにもいかない。維持するのには、とても苦労だろうと思う。一人じゃとても掃除もできない。

2025年9月28日記

フロンティア「サイケデリック・ルネサンス 精神医療の最前線」2025-10-02

2025年10月2日 當山日出夫

フロンティア サイケデリック・ルネサンス 精神医療の最前線

人間の精神とか心とかについて、それを病気だと考えるということの根拠から、まず問われるべきことかとも思う。無論、その病気といっていいだろうが、PTSDやADHD、鬱病などのその当事者にとっては辛いことである。その辛さをなんとかしなければならないという医療の意図は分かるのだが、その根底にある、人間を脳の働きで説明することができる、という考え方に、わずかではあるが違和感がある。人間の心のあり方を脳の機能に還元して、それをコントロールすることができれば、病気を治すことができる。ここまではいいのだが、その先にどのようなことが可能になるか、ということを想像してみると、いくぶんの不安がある。そういう領域にまで、人間が手をつけていいのだろうか。

これまでの医療と倫理の問題は、技術的に可能なことであるならば、(一般に安全性がたもたれるならば)、その技術を認めるという方向に進んできている。そして、多くの命が助かり、長生きできるようになったことは確かなことである。

人間の人間たる基盤を、生命であること、それから遺伝子と脳にもとめるというのが、現代の人間観の基本になってきている。そして、その先のこととして、遺伝子と脳をコントロールすることが、徐々にではあるが可能になってきている。この先に待ち受けるであろう、倫理的問題にたちむかう準備ができているだろうか。

少なくとも、脳の神経の再配線ということが可能になるとするならば、人間のもつ社会性や文化、言語、ということについての認識を根底から変える可能性がある。

これまでも人間は、医療のみならず、呪術などにおいても、いろんな薬物を使ってきた。それが脳の働きに作用するものであったものもあることになるのだが、現代になって、そのメカニズムがあきらかになってきた。こういう意味では、脳に働きかけるということが、意識的、意図的におこなわれるようになってきている。

現在の精神医療とサイケデリックということで企画した番組ではあるのだが、このことのはらんでいる課題は、非常に大きなものがあるはずである。

2025年9月18日記

ウチのどうぶつえん「ちっこいズー」2025-10-02

2025年10月2日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん ちっこいズー

山形の街中にある動物園は、たしか「ドキュメント72時間」でとりあげていたと憶えている。同じ動物園でも、とりあげかたによって、見えるものがちがってくる。

エサなど、近所の人たちが、あまった野菜などをくれる。地域の人たちの協力によってなりたっている動物園である。街中にあって、ふらりと行ける、こういう動物園は、貴重な存在である。

特に、飼育しているのが保護された動物が多いというのは、意味のあることだろう。動物園の活動として、こういう面があることは、多くの人たちに知られるべきことである。(とはいえ、今の時代、クマが増えすぎて困るということもあるし、一方で、貴重な野生動物の危機ということもある。いろいろと、考えることになる。)

チョウゲンボウは、野生にもどすことができたのだろうか。

板橋の熱帯環境植物館は、名前は知っていたが、行ったことはない。小さな水族館があって、一人で切り盛りしている(しかし、ようやく新しいスタッフが一人増えた)、とてもたいへんそうだが、おもしろそうでもある。少ないスタッフであるからこそ、目が行き届いて、運営も自由になるのかもしれない。(だが、ここも、指定管理者としての運営なので、いろいろと難しいところもあるだろう。)

カメがかわいい。

岡崎の動物園にいたゾウ。とても長生きしたことになる。地域の人たちに愛されたゾウである。動物園で一生を終えるというのは、動物にとってどうなのだろうとは思うが、しかし、これはこれで幸せな生活であったと思いたい。

2025年9月28日記

知恵泉「小泉八雲・セツ “怪談”異文化を越えた夫婦」2025-10-02

2025年10月2日 當山日出夫

知恵泉 小泉八雲・セツ “怪談”異文化を越えた夫婦

私が見た中では、NHKの小泉八雲関連の番組の二つ目である。

そう目新しい内容とか、切り口があるということではない。

やはり問題だと思うのは、『怪談』の執筆のことがメインになるとして、小泉八雲がこれを書いたのは、東京に住んでいたときのことである。小泉八雲が松江にいたのは、二年にも満たない。その後、熊本の第五高等学校で教え、神戸に行き、それから東京に行って、東京大学(東京帝国大学)、早稲田大学で教えている。

『怪談』は、東京に移ってから書いたものである。だが、番組を見ていると、小泉八雲は、ずっと松江に住んでいて、ここで『怪談』を書いたかのような印象をうける。はっきりそう言っているのではないので、番組としてウソを言っているということではないのだが。

小泉八雲が、聴覚と言語の身体性ということを重視した作家であったことは確かである。そのことを最も強く感じるのは、『日本の思い出』における松江の描写であったり、出雲大社の描写であったりする。番組の中では言っていなかったが、松江の朝、街中の物売りの声が聞こえることの描写は、『失われた時を求めて』(プルースト)を連想させる。

小泉八雲の耳の感覚がするどかったことは確かなのだが、だからといって、視覚が劣っていたわけではない。左目が見えず、右目も極度の近視ではあったのだが。書いた文章は、視覚の表現としても、非常に的確に日本の風景を描いている。

それから、この番組の趣旨ではないことになるのだが、小泉八雲の書いたものを読むと、明治のはじめのころの日本を礼讃するあまり、天皇への崇拝、御真影や教育勅語の礼讃……こういうことは、現代の日本の価値観からすると、否定的に見ることになるが……がある。こういう部分を、どのようにあつかうかは、小泉八雲について語るときの、一つの課題ではある。

また、『怪談』が、東京に住んでいるときに、妻のセツ(節子と書いた方がいいかもしれないが)が、古書店などで買ってきた、怪奇を記した書物によっている、ということなのだが、この時代にいったいどういう種類の怪奇の本が、一般に読まれたり書店で売られていたりしたのか。こういうことについて、文学史、書物史、という方面からはどれぐらい研究があることなのだろうか、と思うところである。

2025年10月1日記