新日本風土記「博多 中洲界隈」 ― 2026-03-14
2026年3月14日 當山日出夫
新日本風土記「博多 中洲界隈」
博多の中洲には、かなり以前に一回行ったことがあるだろうか。
印象に残ったのは、花魁道中のBGM。はっきりいって、花魁道中は下手だったが、このシーンに流れていた音楽がとてもよかった。
それから、屋台のバックヤード。屋台課というが市役所にあるというのは、驚いた。道路に区画が決められていて、営業時間の制限もある。昼間は、所定の場所に置いておく。それを、営業場所まで、もってくるのがビジネスとして成りたっている。三輪のスクーターで引っ張る。各屋台に、専用の電気と上水道、下水道がある。食材の配達も、専門の業者がやってくれる。
だが、こんな屋台なら、ビルの中の居酒屋のようなことでもいいはずだが、そこは、屋台が儲かるからなのか、観光資源として行政が見ているからなのか、集まるお客さんがいるからなのか。
こんな屋台での、飲み食いは、安いのか高いのか。昔なら、安くて簡単の飲み食いできる店の形態ということだっただろうが。
中洲に昔は畑がひろがっていた。そうだろうと思うのだが、話しの中で興味深かったのは、種の商売のこと。江戸時代から、近代になって、それから、戦後から現代まで、日本の農業において、種の販売や流通というのは、どうなっていたのだろうか。どこでどんな農産物が栽培されてという話しはよく出てくるのだが、その種は、どのように流通したのか、あるいは、特産物として保護するために、どう管理されたのか。こういうことの研究はあるのだろうと思うが、気になったところである。
お稲荷さんがあり、お地蔵さんがある。こういう地元密着の素朴な、神様、仏様がある街はいい。
博多明太子が、戦後になってからの食べ物であるということは知っていたのだが、どういう経緯で生まれたのかは知らなかった。朝鮮の釜山での、タラコのキムチ漬けが起源(?)ということらしい。これが、博多の名産品となっていった歴史は、これはこれで面白いことがあるのだろう。
中洲市場が、ほとんどシャッター街になっているにもかかわらず、残っているのは、なにかわけがあるのだろう。お店からの家賃が入らないことになるので、ビルの所有者にとっては、お荷物である。取り壊して再開発できない理由は、何かあるのだろうと思う。
番組の始まりは川の観光船からだったが、お客さんへの説明は日本語だったが、紙に書いて示していたのは、朝鮮語(ハングル表記)、簡体字中国語、英語、だった。今の日本の観光地は、どこもこんな感じである。
江戸時代に、中洲で歌舞伎を興行して、それで藩が大もうけしたというのは、面白い。江戸の歌舞伎役者が、地方に行って興行することがあったことについて、芸能史の方では、どう研究されているのだろうか。
中洲のように、川でかこまれて、橋がかかっている……このような土地は、一つの別世界、異界として、人びとに認識されることになる。こういう立地条件をうまくつかった繁華街であり、その歴史ということになるだろうか。
2026年3月11日記
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