『光る君へ』「進むべき道」2024-04-01

2024年4月1日 當山日出夫

『光る君へ』第13回「進むべき道」

この回で、紫式部は彰子と出会ったということになる。女房として出仕するのは、もっと後のことになるが。

やはり気になったのは、文字のこと。

文字が読めないばかりに子どもを売ることになってしまった、ということなのだが、この場面で出てきた文書は、漢字カタカナ文であった。常識的な日本語の文字と表記についての知識としては、この時代、一〇世紀の末、まだこのような形式の文書が一般に書かれたとは考えにくい。このあたりは、ドラマとして見ておけばいいということなのだろうが。

また、まひろは、市井の人びとに文字を教えようとしている。平安時代、京の都とはいえ、一般庶民が文字の読み書きを必要としたとは、思えないのであるが、このあたりはどうだろうか。また、『源氏物語』に出てくる、貴族ではない一般庶民の姿は、かなり見下した価値観で書かれている。まあ、これは、『源氏物語』の読者である上流の貴族層の意識を反映したものということになるのかもしれないが。

リテラシー、読み書きが出来ることが幸福である、というのは、あまりに近代的な価値観であるかもしれない。

仮名の練習として、「あめつち」が登場したのは妥当というべきか。

倫子は、道長が持っていた文を見つける。それは、昔、まひろが道長に送った漢詩を書いたものである。それを見て、倫子は、女性が書いたものではないか、と言っていた。筆跡を見て、書き手が男性か女性か判断したことになる。

昔、学生のころ、古文書学の授業で先生が言っていた。文書の文字を見て、それが男性が書いたものか、女性が書いたものか、判断できなければならない。現在、書いた筆跡で男女を論じようものなら、批判的な目で見られかねない時代なのであるが、しかし、筆跡の男女差というのはあってもおかしくはない。(ワープロやスマートフォンで文章をつづる現代でも、その用語、用字、文体などから、書き手を判別することは出来る可能性がある。)

ところで、このドラマを見ていて思うことの一つとして、宮中の天皇の玉座がちょっとショボいような気がしてならない。画面で見るかぎり、兼家の住まいの方が、天皇よりも豪華である。さて、実際に平安時代の宮中で天皇は、どんなふうにしていたのだろうか。

平安時代の貴族の婚姻のシステムは、どうも分かりにくい。そこに、安易に現代の男女の感情を投影してみるということは、避けるべきことかもしれない。いや、そうではなく、どのような婚姻のシステムであろうと、男女の愛憎の気持ちは普遍的なものである、と見ることもできるのだが。だからこそ、『源氏物語』が今にいたるまで読み継がれているのである。

それにしても、定子が出てくるとどうしても「ていし」と読んでしまう。たぶん、見ている人のかなりがそうかもしれない。彰子は、私の頭のなかでは「しょうし」である。

2024年3月31日記

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