『光る君へ』「おごれる者たち」2024-04-15

2024年4月15日 當山日出夫

『光る君へ』第15回「おごれる者たち」

まひろが「琵琶行」を写本する場面があった。カタカナで送り仮名はほどこされていたが、朱のヲコト点はなかった。さあ、平安時代のなかごろの漢文訓読のありかたとして、どうなのだろう、とは思うところである。「琵琶行」という作品の選択は間違っていないと思うけれど。

石山寺に行って、『蜻蛉日記』の作者である道綱の母と出会うシーンがあったが、まあ、このようなことがあってもいいかなとは思う。ドラマの筋としては、このあたりから、まひろは文学を書くことで自分を表現する道を見つけるということになるのだろう。『蜻蛉日記』が、同時代にどう読まれたかということは謎の多いことかと思うのだが、ここはドラマとして見ておくことになる。

弓の場面、見ながら、さてこのエピソードはどの本にあったかと思っていたのだが、調べるのが面倒なので、そのままである。歴史の結果は、道長の予言通りということになる。

石山寺の参籠のときに、道綱が女性のもとにやってくる。さて、神社仏閣の参籠中にことにおよんでいいのか、という気もあるのだが、どうだろうか。しかし、相手を間違えてしまう。説話、物語なら、このような場合、いきおいで関係をもってしまうということが多いのだが、このドラマでは間違いに気づいて踏みとどまった。

中宮の歳費というのは、公的な支出か、私的な支出か(その場合、その実家の負担ということになるのだろうが)、このあたりのことは歴史学で、どう考えることになるのだろうか。

嫡妻ということばは、この回で初めてでてきたように思う。平安時代の貴族の婚姻制度については、さまざまな研究がある分野だと思っているが、このドラマでは、嫡妻、妾、その他の女性、ということになるのだろうか。

清少納言が定子の女房になった。定子は美しい。笛を吹く一条天皇とのシーンは良かった。定子のサロンは、さぞ花やかなものだったろうと、『枕草子』などから想像してみることになる。次週は、「香炉峰の雪」のことが出てくるらしい。楽しみに見ることにしよう。

2024年4月14日記

ザ・バックヤード「横手市増田まんが美術館」2024-04-15

2024年4月15日 當山日出夫

ザ・バックヤード 横手市増田まんが美術館

秋田県にマンガのミュージアムがあることは知っていたが、どんなものかは知らなかった。

「ゴルゴ13」の原画がすべて残っているというのはすごい。

まず思ったことは、素朴な疑問なのであるが、なぜマンガの原稿が残っているのだろうか。作者から、編集者、出版社に渡された原稿は、印刷された後、どうなってしまうのだろうか。常識的に考えれば、残らないと思うのだが、それが残っているということは、マンガ業界における何か特有の慣例でもあるのだろうか。

紙の資料を残すことについて、中性紙の箱にいれて保存するというのは当然のことである。ここでは、それが徹底している。また、温度、湿度の管理も厳重である。

見ていてちょっと気になったこととしては、原画に触れるとき、マスクをするのはいいとしても、手袋をするのはどうなのだろうか。これが、古文書や古典籍などの場合だと、手を洗って素手で触るのが基本なのであるが。現代の紙の資料では、あつかいが異なるということでいいのだろうか。

それから、マンガの原画を残すといっても、最近の作家は、デジタルで描いていると思うが、このような場合、そのデータを残すということになるのだろうか。できれば、その時に使用した機材なども残しておくと、将来的には貴重なものになるにちがいない。

マンガの原画は確かに貴重であることは言うまでもないのだが、しかし、漫画家はそれが印刷され雑誌などに掲載されるときのこともイメージして描いているはずである。読者が見るのは印刷されたものである。では、マンガにとって、どちらが本物ということになるのだろうか。

このような議論は、小説のような分野においても、自筆原稿と雑誌掲載、単行本、などの各種のテクストをめぐっておこる問題でもある。

マンガの原画の保存については、文化庁もかかわっている。まあ、たまには文化庁もいいことをやっている、と考えるのは天邪鬼にすぎるかもしれないが。

2024年4月12日記