未解決事件「File.14 赤ちゃん取り違えの深層」2026-03-21

2026年3月21日 當山日出夫

未解決事件「File.14 赤ちゃん取り違えの深層」

いきなり見知らぬ人がやってきて、あなたは私と、生まれてすぐ産院でとりちがえられた可能性がありますので、DNA鑑定をお願いします……と言われて、はいそうですかと了承する人は、まずいないだろうと思う。番組としては、一方の視点にかたよりすぎである。

事件そのものの問題とは別に、人間が自分が自分であること、今のことばでいえば、アイデンティティーということになるが、それを、DNAにもとめることは、やや行きすぎであるように思える。DNAは、人間の重要な要素であるとしても、それだけで、人間が決まるものではない。どのような生育環境であったかはあるし、一番重要なのは、自分がどんな人間であろうとして生きているのか、ということである。その自分がどのような人間であるか、を考えるときに、現代では、DNAが重要な意味をもつような社会の中に生きているということを、改めて考えてみてもいいだろう。

DNAの二重螺旋構造が発見されてから、半世紀ぐらいしかたっていない。その後、人間についての考え方は、大きく変わった。

これが、100年前のことだったら、氏より育ち、ということで、そう大きく問題視することはなかったかもしれない。少なくとも、出自ということが、人間にとって決定的な要素であるということは、また、別の意味であっただろう。

出自を知る権利……ということは分からなくはない。だが、その一方で、生殖医療において、精子や卵子を提供した人間が、あとになって、その「子ども」です、といわれて登場してきて、さあ、どうすることになるのだろうか。ここで、匿名性を守る権利ということが、議論されなければならないかもしれない。

多方面に議論すべきところで、現在では、「被害者」としての「出自を知る権利」が、ことさらに強く主張されることになっているかとも感じる。

一般的な論点としては、人間がどのようなDNAをもって産まれてくるかは選択できない。しかし、その後の人生で、どのような人間でありたいとして生きてきたかは選択の余地がある。完全に自由意志のとおりとはいかないこともあるが。では、こういう状況において、人間が自分自身であることは、何に基盤をもとめるのが妥当なのだろうか。

今の自分がこうであるのは、自分自身がこのようであろうとして生きてきたからである……ということを、自分自身で引き受けることしかないだろうと、思うのだが、どうだろうか。もし、DNAとしての親が見つかったとして、それで、いったい何がどうなるのか、かならずしもいい結果をまねくとは限らないかもしれない。出自を知る権利よりも、人間としての生き方の問題であるように、私には思える。

2026年3月17日記

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