おとなのEテレタイムマシン「土曜美の朝 墨で描く心のかたち 美術家 篠田桃紅」 ― 2026-03-21
2026年3月21日 當山日出夫
おとなのEテレタイムマシン「土曜美の朝 墨で描く心のかたち 美術家 篠田桃紅」
オリジナルは、1999年。
私が、篠田桃紅、という名前を覚えたのは、篠田正浩監督の映画のタイトルの題字を書いた人、ということであった。高校生から大学生ぐらいのときのことになるだろうか。美術家としてではなく、書家として名前を知ったことになる。
美術家としての篠田桃紅を、これまで特に意識して見たということはなかったのであるが、非常に抽象的な作品を作る芸術家だということは、知っていたし、それよりも、いくつかの本を書いていることがある。
番組を見て思ったことがいくつかある。
着ている着物がとてもいい。特に、アトリエで作品を描いているときの着物が大胆なデザインだが、これが、高齢(このとき、85才のはずだが)の女性が着るものとして、見事にさまになっている。この着物を着て作品を作って、その姿が映像として魅力的であるというのは、とてもすごい。
話し方としては、一昔前の、東京の教養ある女性の話し方、ちょっとゆっくりしている、ということになるだろう。山根基世アナウンサーより、少しゆっくりと穴している。
作品に、落款がない。また、サインもない。これは、いつからこうなのだろうか。普通の書家、画家であるならば、必ず落款かサインはあるのだが。(画面に映っていたのを見た範囲ではということになるが。)
書芸術というものほど、テレビの映像で表現するのが難しいものはないと思っている。紙の材質感、墨のかすかな濃淡、それから、物理的な大きさ、こういうことは、テレビの画面では表現が難しい。実物を目にして、ちょっと見る位置を動かすだけで、作品の表情が変化する。
金とか銀という、光沢のある色彩というのも、映像的に表現するとなると、かなり難しいものである。色彩学的にいうと、金とか銀という色はない。
書芸術というものが、文字ということの枠内にあるのは、当然のことなのか、そうではないのか、これは、難しい、あるいは、とても面白い問題である。文字が文字であることを止めるギリギリのところまで追求することはあっても、見るものには、それが文字であることは分かる、多くの場合は、この範囲内である。いや、なぜ、見るものには、それが文字であると分かってしまうのか、ということの問題かもしれない。人間が文字であると認識するのは、どうしてなのか、これはこれで、興味深い問題である。
歳をとって衰えていく部分もあるが、積み重ねということもある。昨日より今日の方が、いいものが描ける。歳をとっても、このように感じる自信があってこその芸術家ということなのだろう。
2026年3月18日記
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