『風、薫る』「岐路にて」2026-08-02

2026年8月2日 當山日出夫

『風、薫る』「岐路にて」

この週でのこととしては、直美の派出看護のこと、りんの新潟でのこと。

看護婦の物語として見れば、そこそこの出来になっていると思うが、明治の20年代の初めごろの、日本におけるトレインドナースとしての、先駆者の物語として見ると、あまりにもわけのわからないドラマになってしまっている。

まず、直美のこと。

先週、いきなり、派出看護、ということばが科白の中に出てきて、この週になって、直美が帝都大学病院を辞めて、派出看護の会を作る、という展開になっている。

では、直美は、これまでに、派出看護ということの知識をどこで得たのだろうか。看護学校で、バーンズ先生に習っていたときのこととしては、派出看護ということは、出てきていなかったはずである。おそらく可能性として高いのは、アメリカではすでにその制度があって、大山捨松から話しを聞いて知ったということになるはずだが、脚本は、そうは作っていなかった。直美が、すでに派出看護ということを知っていて、具体的にどうしようかと、大山捨松に相談に相談に行ったという流れになっていた。これは、どう考えても、あまりに不自然である。

派出看護の会を作り、そのチラシを印刷する(シマケンが勝手に会社でやった)ということである。派出看護は、帝都大学病院での話しとしても、社会の中産階級、お金のある家でないと、需要がない。これは、そうだろう。だが、直美は、街頭で、そう裕福でもなさそうな道を行く人にチラシを配っている。これは、どう考えても無駄であるとしか思えない。

常識的には、帝都大学病院で院長が紹介してくれた町医者をめぐって、派出看護の会をつくりましたので、患者さんを紹介してください、という地道な営業活動(?)だろうと思うのだが、そうなっていない。また、看護学校の同級生だった華族の令嬢に頼んでみるとか、侯爵夫人の千佳子に頼んでみるとか、いろいろなつてがあったはずだが、まったく出てこない。(仲間由紀恵の出演料のコストをケチったということだろうか。)

どうみても、常識的な判断とははずれている。

りんは新潟にいる。高田の街だろうと思う。そのりんが、直美と環の手紙を見て、すぐに東京にやってくる。また、直美と環とシマケンが、新潟に行く。

明治の20年代の初めごろ、東京と新潟の距離は、物理的にも、心理的にも、ものすごく遠いものがあっただろうと思うのだが、このドラマでは、すぐ隣の町まで行くような感じである。その旅の身なりも、あまりに簡便である。りんも直美も、白い足袋をはいて、草履である。これで、東京から新潟までの旅は、どう考えても無理だろう。

東京から、小学校に入学したばかりの環を連れて、新潟まで旅をするというのは、新幹線のある現代ならともかく、明治の時代としては、どう考えても無理がありすぎると感じる。(時代が、もうちょっと下ると、信越線が直江津まで通ずるはずだが、ドラマの設定の時代は、これ以前である。信越線の開通は、もっと後のことになる。)

新潟での新聞記者。おそらく『ばけばけ』を意識していることにはなるのだろう。この時代の新聞記者、特に小新聞の記者などというものは、スキャンダルネタを探し回るごろつきである……これを、かっこよく描くことにしたのかとも思うが、その設定や人物造形に、無理がありすぎると感じる。

まさにこの時代の新聞記者なら、国会の開設を前にして、地方から立候補する議員の動向……場合によっては、スキャンダル合戦、だったかと思う。(まさに今の時代の政局となっている、誹謗中傷動画、こういうことの媒体が、この時代の新聞だったはずである。)

女学校の授業の場面は、教室のセットを作るコストをカットしただけ、ということになっているので、これなら、無い方がマシだったと思える。

直美の派出看護のこともそうだし、りんが黒川病院の看護婦取締になることを求められるということもそうなのだが、このドラマの設定としては、りんと直美たちが、日本で最初のトレインドナースであり、世の中に、看護婦がまだまだ知られていない時代のはずである。帝都大学病院で看護婦の養成をはじめたことは出てきていたことだが、それが、その後どうなったのか、消えてしまっている。ここも、せめて、直美が大学病院を辞めるときに、後輩の看護婦も順調に育ってきているので、ということでもあればいいかと思うのだが、こういうことも全然出てきていない。

このような状況で、派出看護をしたいという看護婦がいるとも思えないし、また、それを求める(お金持ちの)病人がいるとも思えない。ましてや、地方の新潟の病院で、看護婦取締を必要とするほどの大勢の看護婦が働いているとも思えない。

時代の設定、これまでの、ドラマで描いてきたこと、これらを考えると、どう考えても、非常な無理のある作り方をしている。時代設定無視路線をつっぱしっているとしか思えない。(時代設定無視で作るドラマが、一部にはうけても、全体としては駄作にしかならないことは、これまでの経験から、AKとしても分かっているだろうと思うが。)

その他にも気になったこととしては、文字がある。手紙の文面が映ることがあるが、映っている部分を見ると、候文である。これは、この時代では、こうでなければならない。まだ、言文一致体、口語散文の手紙でなはい。しかし、書いてある文字が、女性の文字に見えない。この時代だったら、手紙の文字などは、男性が書く場合と、女性が書く場合とで、見た瞬間に分かるというものであったはずである。(次の『ブラッサム』のこともあって宇野千代の『色ざんげ』を読んでいるが、中で登場人物が、手紙の封筒の文字を見て、女文字、と判断する箇所がある。)もう今の時代では、文字のかきぶりで男性と女性が違うという感覚は、無用のものになってしまったということかなと思う。昔の『おしん』だったら、田中裕子のおしんがカフェの女給の代筆で書いた手紙は、女性の文字になっていたのを憶えている。

東京のお団子屋さん。今はこの店の主になっている忠蔵(チュウ)が、直美たちがいるテーブルにお茶の湯飲みを置くときに、大きな音をたてていた。これは、あきらかに無作法であり、接客業、飲食業に不向きということになるはずだが、これまでの人物造形からして、この演出の意図が分からない。(なお、私が見て感じたのは、この音をたてるのは、アフレコでいれてあるはずだが、画面の動作と微妙にずれている感じがした。なんだか、このドラマの制作スタッフの詰めの甘さということを感じてしまうシーンだった。)

その他、慈善と職業とか、貧富の差と医療費のこととか、新聞記者が取材しながら鉛筆をけずるとか、いっぱい、いろいろと気になることはあるが、これぐらいにしておきたい。

さて、次週は、赤痢のパンデミックということになるらしい。でも、赤痢菌の発見は、もうちょっと時代が後のはずだが、いったいどういうことになるだろうか。

2026年8月1日記

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