『ひよっこ』「旅立ちのとき」 ― 2026-09-06

2026年9月6日 當山日出夫

『ひよっこ』「旅立ちのとき」

この週で、みね子は、東京に行く。

お正月にお父さんが帰って来なかったので、東京で働くと決心したのだが、お正月をすぎてからの就職活動は厳しい。そこをなんとか、学校の先生の尽力で見つけることができた。

このドラマでは、悪い人が出てこないということが基本であり、人間の善意を非常に肯定的に描いている。その一つの事例が、学校の先生の生徒を思う気持ちとして表れている。

ただ、この時代、奥茨城村から東京まで、そう簡単に電話がつながることではなかったはずなのだが、学校から、向島電機までは、簡単に電話がつながっていた。ここは、時代の設定として無理があるところではあるけれど、学校の先生の頑張りと、向島電機の愛子さんの登場ということを考えると、こういう演出であってもいいかなと思う。

東京に行くのは、みね子、時子、三男、の三人である。学校の規模とかを考えると、同級生を三人だけで描くのは、どうかなと思わないではない。しかし、これも、それぞれの家庭の事情とか、親同士の関係とかを、並行してきちんと描くとなると、三人ぐらいでちょうどいいかなとも思える。

卒業式の日のことが、とてもいい。学校での式や生徒たちがメインではなく、母親たち三人の気持ちを描くことで、この村で、育ったみね子たちのこれまでの生活を表すことになっていた。そして、みね子たちを育てた母親の気持ちがあってこそ、村を離れて東京に行くみね子たちの決意が、深く感じられる。このとき、みね子の家の柱に、子どもたちの成長の記録として、身長を測った跡が映っているのは、とてもいい場面だったと感じる。

この時代は、集団就職列車が実際にあった。奥茨城から東京まで、そんなに長距離ということではないが、その心理的な距離は、今では、容易に想像できないといっていいだろう。特に、もう、若い人たちには感じられないことかと思う。(逆に、一人一人が、スマートフォンを持っている現代だと、物理的な距離よりも、古くからの人間関係がいつまでもつきまとうということが、わずらわしくなってきているだろう。昔だったら、学校を卒業して、バラバラになってしまったら、本当にそれがお別れであった。)

列車の集団就職の生徒たちとか、上野駅の雑踏と喧噪とか、非常にそれらしく作ってあった。このドラマのいいところの一つは、ここぞという場面での、エキストラをケチっていないことである。列車の中で、科白のあるのは、みね子と時子と三男のいつもの三人と、乗り合わせた青天目澄子(松本穂香)である。

さりげない場面だが、引率するみね子の学校の先生と、同じ列車で同じように生徒を引率していく別の学校の先生同士が、おたがいに大変ですね、とことばをかわしているシーンがとてもいい。こういうちょっとしたところで、この時代の人びとの気持ちを表現している。

上野駅について、それぞれが、就職先の人が出迎えにきてくれるのを座ってまっている。東京に就職で上京するというのは、とても大変なことであった時代である。

奥茨城村を離れる日の、最後の、それぞれの朝御飯のシーンがいい。みね子、時子、三男、それぞれの家らしい。また、旅立ちの日の朝御飯として、御馳走を作っていることになる。それから、本当に朝御飯を食べているという演出になっている。ここは、このごろの朝ドラの多くがそうであるように、ただ、お茶碗とお箸を持って科白を言っているというだけのことになっていない。

列車の中でのお弁当も、この時代の奥茨城村としては、せいいっぱいの御馳走であることが感じられる。おにぎりが、お赤飯だったりする。

ただ、お弁当箱がアルミであったのは、どうかなとは思う。東京に持って行っても邪魔になるだけだから、こういうときは、折りを使うかなと、私の感覚では思うのだが、どうだろうか。

2026年9月5日記

『ひまわり』「第十章 罪を憎んで人を憎まず?」 ― 2026-09-06

2026年9月6日 當山日出夫

『ひまわり』「第十章 罪を憎んで人を憎まず?」

このドラマを見るのは三回目になるはずだが、この検察の研修のときが一番印象に残っている。検事の仕事として、法の正義のもとに、悪いやつを罰する、という方向になっていない。下手なリーガルドラマだと、こういう方向になりがちである。

被疑者はもちろんであるが、被害者の感情をふくめて、総合的に、どのように決着させると、より多くの人が納得することになるのか……かなり功利的な考え方でもあるし、現代では功利主義をいうと、そこには、かならず何かしらの不幸があることを前提にしている議論ということで、批判的に考えられる傾向にある。だが、どのように考えるとしても、現実的なおとしどころとしては、なんらかの形で功利主義的にならざるをえないというのが、人の世の中だろうと思っている。

新平じいさんのやったこと……意図的な詐欺だと立証できたということではないようなのだが……が、とてもショボい。大がかりな詐欺事件ということでもないし、だまし取ったお金の金額も、100万円ということである。これぐらいの金額なら、そして、それが全額賠償で還ってくるのなら、もうこれ以上、ことをあらだてて裁判につきあいたくはない、というのも、人の情である。これは、決して、悪事を見過ごすということではない。悪いことは悪いことであり、それは、法律にのっとってさばかれなければならないのだが、それが全てではない、ここの部分を余裕を持って見ているところが、このドラマのいいところかと思っている。

この週でも、新平じいさんと息子との関係が、大きな論点になっている。これまでにのぞみがかかわってきた事件でも、多くは親子の関係がある。そこで、のぞみが、実は私の父親も家を出て行ってしまって~~と、言いださないでいるのが、非常にいいところだと思って見ている。見ていると、のぞみが、自分の南田の家のことを思っていることは分かる脚本、演出になっているのだが、そうとはっきり科白に出していうことはない。

そして、最終的に、新平じいさんは、自分が悪かったことを認めて反省してということになっていない……らしい、という結末であるのも、とても面白い。人間は、そう簡単に変わるものではない。ましてや、老人については、ということである。

2026年9月5日記

『風、薫る』「歩々清風」 ― 2026-09-06

2026年9月6日 當山日出夫

『風、薫る』「歩々清風」

この週から、脚本が実質的に変わったかなと感じる。先週まで、吉澤智子ひとりの名前だったが、この週から、佃良太の名前が、並んで表示されるようになった。脚本協力、というような形にしていないのは、どういう事情があったのか、と思うことになる。

脚本が変わったと感じるのは、セツと寛太のことである。

寛太が看護婦派出の仕事をやっていて、それが、りんと直美たちの仕事のさまたげになりかける。様子を見にいって、そこで、りんと直美は、セツに再会する。セツは、女郎を辞めて病院を退院して出ていったところまでが、以前に描かれていたことである。その後、どうなったかは出てきていなかった。

セツは、いろいろと働いてみたのだが、女が一人で生きていくのは、とても大変で、結局のところ、寛太のやっている派出看護婦の仕事に拾ってもらった、ということのようだった。ここで、寛太が、りんと直美に言うことが、敵と思っているのは、実際には、社会の底辺に生きざるをえない弱い立場の女性である……ということである。

これは、そういう側面があることはたしかである。だが、このような社会の中の人間の見方というのは、私の感覚では、これまでのドラマで描いてきた路線とは、かなり異質である。こういう複合的な視点というのは、これまでにはなかった。もっと単純に、善悪を割りきることになっていた。(せいぜい、帝都大学病院の看病婦のフユのことが、人間を多面的に見る視点があったかと、思い出されることになる。)

社会の構造的な問題を見る視点というのは、これまでになかったことである。

だが、社会の構造的な問題といって、派出看護婦の仕事をするセツ、という設定は、ちょっと無理があるように思える。元は女郎だったということだから、手に職はない。こういう女性の一番の問題は、手に職がないということである。幼くして娼婦に売られたという境遇であるとすると、料理とか裁縫とか、家事にかかわることを、身につけることが出来ていない。だから、手っ取り早く稼げる仕事ということで、体を売ることになる。こういう悪循環にあるということが、社会の構造的な問題としては、描くべきことなのだが、どうも、そこまで深く考えているようではない。

派出看護婦という仕事は、おそらくは、家の中の家事をする女中、下女が、ついでに病人の世話をする、というぐらいの感覚だったかとすると、セツのような境遇の女性としては、基本的な家事がそもそも出来ない……ということのはずである。

だから、近代になってからの廃娼運動は、同時に、女性への就労支援、職業訓練ということを伴っていたことになる。(たとえば、NHKが過去にドラマ化した作品では、宮尾登美子原作の『櫂』がある。)

こういうところは、さかのぼって考えてみると、きちんと描いておくべきことだったかと思える。セツのことだけではなく、直美の母親だった文についても、どういう経緯で、瑞穂屋の仕事ができるような素養を身につけたのか、ということがある。

このドラマは、働く女性ということを描きたいということは理解できるとして、それは、同時に、女性への職業訓練、就労支援、そして、教育、ということと総合的に考えなければならないことである……こういうことは、現代からすれば、ごく当たり前のことであるが、この視点でドラマが作られていない。その一方で、非常に現代的な価値観や感覚で登場人物を描いているところがある。どうにも、ちぐはぐである。

環を女学校に行かせるというのが、りんの望みだった。これはこれでいいとして、この時代の女学校は、女性にとっては、ごく一部のトップクラスの教育だったことを、描いておくべきだったし、何よりも、小学校に行くこともかなわない子どもが多くいたことを、無視ししていることになっている。

看護婦のドラマでありながら、この時代の医師や医療、医学教育、そして、看護婦教育ということについて、出てこなくなっている。こういうことの全体像があって、りんと直美たちの派出看護という仕事の意味が分かるということになるはずなのだが。

意図的にそう作っているのかどうかと思うこととして……派出看護の行き先として、山谷、とあった。また、御殿山に人力車で行っていい、ともあった。私の知識や感覚だと、山谷というと貧民窟ということになるし、御殿山というとお金持ちのお屋敷ということになる。明治の30年ごろにどうだったかということもあるのだが、こういうところは、すこし説明的な描写があってもいいところかもしれない。

御殿山のお金持ちから、高額の看護費用をもらっておいて、それで、無料の看護を山谷の貧民窟で行っている、という理解でいいのだろうか。

こういうことの伏線として、直美が昔世話になっていた教会の慈善活動も、お金の面から見れば、お金持ちがたっぷり寄付をしてくれていて、それで、貧しい人への炊き出しが出来た、ということだったはずで、こういうことも、描いておくべきことだったように思える。善意は、人の気持ちである、それを具体的に行動にうつすのには、お金がかかる。これは、昔も今も、かわらない。

それから、チュウのお団子屋さんしか、もう使えるセットがないのだろうか。なんでもかんでも、お団子屋さんのお店で、話しを進めようとするのは、無理があるように感じられる。このドラマ全体の計画性のなさの無理ということかと、見ながら思ってしまうことになる。

2026年9月5日記